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ヴィクトルの登場に、オーウェンは分かり易く顔を曇らせた。
「ヴィクトル様……」
地面に横たわるネルは髪が乱れ、全身に蹴られた跡があり、顔には殴られた痕まで付けている。その痛ましさにヴィクトルは堪らずオーウェンの胸倉を掴んだ。加減が出来ずオーウェンの口からは「ぐっ」と小さな声が漏れた。
「女性に手を挙げるとはとんだクズだな」
「は、はは……お言葉ですが、彼女は僕の婚約者だ。少し躾ただけですよ。団長様こそ、人の婚約者に贈り物とはどういう了見でしょうか?」
胸倉を掴まれ、怒りで目を据わらせたヴィクトル相手にしてもオーウェンは苦い笑みを浮かべながら言い返してくる。流石は商人の息子と言うべきか、怖いもの知らずと言うべきか……
それでも、良く見れば額に汗が滲んでいる。
「所詮は金で結ばれた婚約だろうが。お前こそ婚約者を虐げといて、今更婚約者顔か?──ふざけるのも大概にしとけよ」
ゾッとするほど低くい声色で睨みつけた。睨みつけている眼光は戦で人を殺る時と同じもの。
オーウェンは顔面蒼白になり全身を震わせている。騎士ではない常人がその視線を浴びれば震えあがるは当然の事。団長を相手にするという事はこう言う事だと、身を持って知らしめているようだった。
「婚約者だろうと、女性に暴力を振るった事には変わりない。近いうちにそちらの屋敷に話を聞きに行く。首を洗って待ってろ」
「──ッ!」
ヴィクトルの手が離れ、ホッとする間もなく騎士を向かわせると宣言された。簡単に言えば手入れが入るという事。こうなると、オーウェンだけの問題ではなくなる。
「そんな女の為に騎士を使うのか!?職権乱用もいい所だ!訴えてやるからな!」
「上等だ。やってみろ。お前の行動は周知されているからな。どちらが間違っているか一目瞭然だろ。派手に遊び過ぎたな」
鼻で笑いながら言われ、オーウェンは悔しそうに唇を噛みしめながら睨みつけてくる。この期に及んでまだ喧嘩腰とは呆れを通り越して尊敬する。
ヴィクトルはネルの傍に寄ると、自分の上着をかけて抱き上げた。
「もう大丈夫だ」
たった一言だったが、その一言が堪らなく嬉しくて胸を熱くさせ、感情が一気に湧きだしてきた。
「ヴィ……ヴィクトル様……」
「ああ、遅くなってすまなかった」
涙で視界がぼやける中、大きな手のぬくもりだけを感じていた。
「ッネル!」
背を向けるヴィクトルに向けてオーウェンが声を荒げた。反射的にビクッと体が震えたが「聞かなくていい」とヴィクトルが耳を塞いでくれた。
「クソッ!絶対に許さないからな!お前は僕のものだ!」
ヴィクトルは振り返ることもせずその場を後にし、オーウェンの叫び声だけが響き渡った。
***
ヴィクトルに抱かれ連れてこられた先は、ネルの部屋のある寮ではなく、大きくて立派な屋敷だった。
「おかえりなさいませ」
ヴィクトルが屋敷に入ると、数人の使用人がやって来た。
「彼女を風呂へ。それと、しばらくこの屋敷に滞在するから部屋の用意を」
「え!?」
驚くネルを余所に使用人達が周りを固めるように取り囲み、反論する間もなく浴室へと連れて行かれた。
浴室には湯気が充満していて、湯船には薔薇の花弁が浮かべられていた。いつもは大浴場でサッと済ませるネルにとって、花と香油の香り漂う浴室は豪華すぎると気負けしてしまって一歩が踏み出せない。
それに、全身痣を作って泥まみれの私が入っては汚してしまう。
体にタオルを巻いたまま棒立ちで、躊躇していると「どうした?」と背後から声がかかった。
「え?」
「入らんのか?」
そこには腰にタオルを巻いたヴィクトルが立っていた。
「¢£%#&□△◆■!?」
声にならない叫び声に、侍女長らしき人が飛んできた。
「ヴィクトル様!何してるんですか!」
「いや、俺が一緒に入って洗ってやろうかと」
ヴィクトルの口からとんでもない言葉を聞き、恥ずかしいやら申し訳ないなら……でも、少し期待している自分もいて、感情の起伏が激しい。
「私が付き添いますので、安心してください」
「お、おい──」
ヴィクトルの背中を押し、追い出そうとするが何か言いたげで中々出ていかない。
業を煮やした侍女長がスゥと目を細めて微笑んだ。
「出て行けと申しているんですよ?」
落ち着いた声と有無を言わさない圧に、思わずヴィクトルの喉も鳴る。
渋々ながら、浴室を出て行ったのを見届け「さて」とネルに手を差し伸べた。
「もう大丈夫ですよ」
その柔らかくて穏やかな表情に、ネルの強ばっていた心も柔軟されたようで、手を握り返していた。




