4
ある日の深夜──
トントン…というドアがノックされる音で目が覚めた。窓の外は満点の星が輝いていて、朝日が昇るのはまだ数時間あとの事。こんな夜遅くに一体誰が?
この部屋はネルに与えられた寮の一室。
寮と言っても城の敷地内に建てられているので、怪しい者が易々と入ってこられるような部屋ではない。
それ以前に、そもそも不審者はノックなどしない。
となれば、知り合いが訪ねて来たという事になるが……
重い体を起こし「はい」と言ってドアを開けた。
まず目に入ってきたのは、大きな胸板。次に、頭上から声がかかる。
「夜遅くにすまない」
「ヴィクトル……様?」
寝起きの頭でも、この人の顔はちゃんと視界を奪ってくる。
「ああ、起こして悪い。少し付き合ってくれないか?連れて行きたい場所があるんだ」
「……今からですか?」
「ああ」
あからさまに嫌な顔で応えるが、ヴィクトルは気にせず笑顔で応対する。
「20分後に正門で待ち合わせよう」
「……承知しました」
舌打ちしたいのをグッと堪え、笑顔で返事を返した。
日付の変わった本日、本来ならば休日。この休日を待ちに待っていたネルはそれなりに計画を立てていた。
朝は時間に追われずのんびりとベッドで過ごし、朝市へ行って朝食を摂る。昼食に食べるようにサンドイッチでも包んでもらって、暖かな陽の下でゆったりとした気持ちで好きな本を読む。最高で最幸の休日になるはずだった……
今、私は訳も分からずヴィクトルが綱を握る馬に乗せられ、風を切りながら走っている。
「しっかり掴まってろよ」
「う゛ぅぅ…」
下手に喋ると舌を噛みそうで、唸り声しか出せない。
馬は物凄い早さで駆けているので、振り落とされないようにヴィクトルにしがみつくのがやっとだし、景色なんか楽しめたものじゃない。
(だけど……)
チラッと顔を上げると、すぐそこにヴィクトルの顔がある。真剣な顔で馬を走らせる姿を間近で見れるのは、ちょっといい……
薄く赤らむ頬を隠すように、ヴィクトルの胸に顔を擦り寄せた。
自分の腕の中で悶えるネルを見て、ヴィクトルは顔を綻ばせていた。
***
どれぐらい走ったのかは分からないが、気付いた時には見晴らしのいい丘の上にいた。
「ここからは歩いていこうか」
待ち焦がれていた地面の感触に、懐かしさすら感じる。空を見上げれば、大きな月が雲の隙間から顔を覗かせている。手を伸ばせば届きそうなほど大きな月に、自然と手が伸びる。
「少し急がないとな。──こっちだ」
ヴィクトルは少し慌てた様子で、前を歩いて行く。歩幅が大きく、小柄なネルは小走りになりながら後をついて行く。
「ちょ、ちょっと待って……!」
丘を抜けた先の森に差し掛かった所で、ネルが音を上げた。
はぁはぁ…と苦しそうに肩で息をするのを見て、ようやく自分の失態に気が付いた。
「すまない!気が焦っていた。大丈夫か?」
「え、えぇ、少し休めば大丈夫です」
「そうか。だが、それだと間に合わない」
何をそんなに急いでいるのか分からないが、何やら理由があるらしい事は分かる。
ヴィクトルは「仕方ない」と呟くと、ネルを抱き上げた。
思わず「きゃあ!」と叫び声が上がったが、それすら気にする時間は無いのか、大きな腕に抱かれたままズンズンと森の奥へと進んで行った。
森の奥は暗く、肌に触れる空気が冷たい。不気味で恐ろしいはずなのに、ヴィクトルと一緒だと恐怖も感じない。安心感があると言えばいいのだろうか……
「間に合ったな」
「うわぁぁ~……!」
ネルの視界は、一面に咲き乱れた満開の白い花に奪われた。
「これは東洋地方に咲く花で『月来香』というらしい。一晩の間だけ花を咲かせ、その名の通り月の光が当たっている間は馥郁とした香りを放ち、見る者を魅了する」
ヴィクトルが説明してくれた通り、深緑の香りに混ざって甘い香りが鼻に匂う。
「そろそろ頃合だと思っていてな。俺の勘も大したものだろう?」
それでこんな夜遅くに連れ出して来たのか……
この花の特性は、一晩の間のみ咲くということと、いつ咲くか分からないという所だろうか。
花ごときでこんな深夜に連れ出して……そう思う者が多いと思う。花よりドレスや宝石の方が余っ程いいと目くじらを立てる者もいるだろう。
そう言う者は本当に人生損していると思う。
(だって、こんな光景簡単に見れるものじゃない)
幻想的で神秘的で、息を飲むほど美しい光景。どんな高価な物よりも価値がある。
「気に入ったか?」
「えぇ、とても……」
穏やかな気持ちでヴィクトルの方を振り返ると、頬を一筋の涙が伝った。
「あれ?」
私泣いてる?なんで?
拭っても拭っても涙は止まらず溢れてくる。
「おかしいな……ははっ……どうしたんだろ」
必死に笑顔を作って取り繕うとするが、涙は止まらない。そのうち嗚咽まで漏れてきて、いよいよマズイと思ったその時、フワッと大きくて逞しい腕に包まれた。
「大丈夫…大丈夫だ。溜まっていた感情が溢れたんだろう。この場には君と俺しかいない。思い切り吐き出しなさい」
安心させるように背中を優しく叩きながら諭された。そんな事言われたらもう止められない。
ネルはヴィクトルの腕の中で、声を押し殺して泣いた。
ヴィクトルは黙って泣き止むのを待っていてくれたが、夜遅いのと暖かな温もりと泣き疲れでネルはいつの間にか眠ってしまっていた。
「無防備な顔をして……」
眠るネルの頬に触れると、寒いのか頬を擦り寄せて来る。そんな小さな仕草さえも愛おしい。
「全く……騎士である前に俺も男だってーの」
溜息を吐きながら天を仰いだ。




