第17話 楠翠国
中央歴105年11月2日 楠翠国西箇荘、生之湊
冬の風ではあるが、南海でも更に南にある楠翠国の北風は優しく吹く。
それなりに勢いのある風だが、海を荒立たせるまでには至らず、波の表面にさざ波を立てる程度のもので、この地域の冬が穏やかなものであることを示していた。
ここ楠翠国の守護は空席。
かつて真道家に激しく抵抗した地侍達が合議で運営していた名残である。
今も小身の地侍達が真道家の直臣としてこの地に盤踞しており、棟梁や首領という者も今は無く、真道家の取り次ぎ役である相伴衆の大和佐孝道が一応の取り纏めをしている。
しかしながらあくまで取り纏めであり、また取り次ぎであって、決してこの楠翠国の守護的役割、つまりは軍事動員権や徴税権を持っているわけではない。
それは、ここ楠翠国の全ての地侍が真道家に降伏する際に取り交わされた約束であり、その約束は7年経った今でもきっちりと守られているのだ。
そんな楠翠国北部の平野。
深い山脈の合間の大きく広がるその平野には、麦が一面に植えられていた。
瑞穂国では課税対象外である麦は、この地に住まう人々の糧となり、財となる大切な穀物であり、また命を繋ぐ穀物でもあるのだ。
収穫された麦は粉にされて練り合わされ、ある物は麺として、またある物は団子や麦餅として、またある物は麦粉として活用される。
米が主体であるこの瑞穂国においても、麦は各種とも積極的に活用されており、その食文化は豊かに花開いている。
そして、食文化が豊かであると言うことはその食糧生産そのものに余裕があるという事であり、またその食糧を活かす術を思い立てる時間を確保できる程には、みんな裕福でもあった。
そんな麦の実りを待つここ楠翠国に、瑞穂国再統一によって職にあぶれた浪人達が集まり始めているという不穏な噂がある。
いや、それは噂などではなく、真実であった。
京府や近坂国の大伊津に負けず劣らずの大都市である、楠翠国西箇荘にある生之湊には、噂の元であるあぶれ浪人達が確かに集まっていた。
鎧櫃に全財産とも言うべき鎧兜を入れ、銭を入れ、武具を背負っている姿は、正にこれから仕官活動に出かける歴戦のサムライ。
全員が癖の強い、灰汁の強い顔付きであるが、そこは教養溢れる侍。
その態度は極めて紳士的で大人しく、特段問題や騒ぎを起こすようなこともない。
見た目は厳つく強面で、怪我、と言っても明らかに刃物傷だが、その跡が付いている者も少なくないが、話せばごく普通の者が多く、また擦れ切った感じもない。
最初は気味悪がっていた西箇荘の住人達も、今ではすっかり侍が屯する町に慣れ、普段通り接してしまっているのだ。
その浪人達だが、実は1つの知らせを待っていた。
大陸出征が決まってから、後詰めの兵が募集されるという噂が1つ。
そして、その後詰めの兵の募集は港湾に近く、そして軍船の集まりやすい深い湾のある黒江荘で行われるというもう一つの噂が、浪人達を集めてしまっているのだ。
故に噂を信じ、浪人達は大陸出征が失敗に終わった今もなお、近くの都市である生之湊で待機を続けているのである。
そんな不穏な状況の生之湊に使い込まれた瑞穂船が一艘、他の船に紛れてゆっくりとやって来た。
それははるばる八重国と名付けられた東大陸の西北端に位置する地から、黒江成光らの書状や使者、それから銭を乗せてやって来た、廃船を修理した極めて不安定なものである。
生之湊のとある中級宿所。
そこは現在、黒江家の貸し切りとなっており、黒江家の家人と宿の従業員以外は人が入れない状態となっていた。
黒江の曲者が楠翠国最大の湊を訪れている。
その噂は既に真道家にも届いており、浪人達の動静を含めて楠翠国の情勢を危惧した真道家の軍兵が1万あまり、国境付近に滞留している状況となっていた。
しかし騒ぎの当人である黒江成弘は至って普通に過ごしており、近くの湯屋へ行ったり、揚げ菓子を買い求めたり、団子を食ったりと物見遊山を体現している。
しかし、夜には宿屋で怪しげな者達と会合をもっているのは周知の事実であり、今日も他の者を寄せ付けず、鈍色の曇り空の中、黒江荘の前領主である黒江成弘は宿の奥の間でじっと佇んでいた。
真道家のみならず仲間内の地侍達からも曲者と呼ばれて恐れられた男は、うっすらと笑みを浮かべると、陰に向かって声を掛ける。
「正兵衛、ご苦労だったな。挨拶よりまずは喰え」
そう言いながら正面に現れた黒江家の家臣、正兵衛に焼き団子の載った皿を押しやる。
米粉に水を加えて丸めて軽く焼き、その表面に醤油と砂糖を混ぜたタレをたっぷり塗ってから再度焼き上げた醤油団子は、香ばしい湯気をほのかに立て、食欲をそそっている。
1つを皿から行儀悪く手で取った成弘は、丸ごとそれを口に入れて咀嚼すると笑みを浮かべ、正兵衛に喰えと手で示した。
正兵衛も1つを成弘に倣って手で取り、口へと放り込む。
甘辛い味と醤油の風味が混じり合い、淡泊な団子とよく馴染んでおり、実に美味い、正に故郷の味だ。
「どうだ、美味かろう?」
そう言ってから更に1つを取る成弘の様子を見た正兵衛は、団子を飲み下すと苦笑しつつ頭を下げて挨拶を返す。
「はっ、大殿様もご健勝のようで何よりで御座います」
八重国境山城から戻った黒江家の家臣の正兵衛は、成光らから預かった書状と、兵が部屋に運び入れた瑞穂銭1千貫の入った銭函をずいっと押して差し出す。
中を見もせず、成弘は1千貫ほどかとつぶやいてから口を開く。
「ふむ、成光めは上手くやっておるか?」
「はあ、大殿もご存知かも知れませんが、東王の兵6万を退かせやしたぜ」
「ほほう、6万とな!たった五百でか?それは豪儀な……ようやれたものよ」
成弘はそれまでの不敵な笑みを消し、心底喜ばしいといった風情で笑いながら言う。
曲者といえども、子供の活躍は素直に嬉しいらしく、何度も頷いている。
成弘の様子を可笑しそうに見ながら、正兵衛が言葉を継いだ。
「ついつい前に出ちまう癖は直っていやせんが、まあよくやってます。今泉や鈴木の棟梁も従っていやすし、十河の姉御は若様にホの字でさ」
「はっはっは、成光めの癖がまた出たか。しかしなかなかやりおる。ここに居る時はちと素直なのがもの足りんかったが、今や我が一族最高の出世頭よ。新興とは言え国1つ任せられたのだ。これ以上の贅沢は言うまいよ」
嬉しそうな笑顔でそう言い、団子をまた口に入れる成弘。
正兵衛はしかしそこで真顔に瞬時に戻って問う。
「で、大殿。如何しやすか?」
もぐもぐと団子を食っていた成弘は、面白く無さそうな顔で答える。
「ふん、ここ生之湊に集まった浪人は5千程にしかならん。家族を連れて行けばそれなりの数にはなるだろうが、兵数としては全く足りぬわ……そもそも現状では全員運べまい?」
「まあ、それは……そうですなあ」
正兵衛の言うとおり、船はたった一艘だけであるので、今すぐ雇ってもそれ程の人数は運べない。
船に乗るのは精々50人から100人というところであり、輸送力という点において大変心許ない。
成弘はようやく箱を開け、その中身が瑞穂銭で千貫程である事を確認してから言う。
「楠翠国の地侍連中には話を付けておいた。八重湊に商船を出す方向で話は纏まっておるから、最早心配は要らん。刀槍、弓矢、鎧兜、何でも運んでやろう」
「焔硝や鉛、鉄炮、それから鉄や銅などは頂けますので?」
「ついでに米と馬も送ってやるが、銭はきっちり払え。ただではやらん」
正兵衛の問いに、笑みを悪戯っぽいものに変えた成弘が答える。
成弘もそうだが、地侍衆は交易にも手を広げている。
むしろ盛んに行っていて、小身の地侍衆程交易には熱心だ。
強大な土地石高を誇る真道家に小身の地侍が長く抵抗できたのは、今泉家の様な例外ももちろんあるが、戦費を土地収入以外、つまりは交易で賄うことが出来たからである。
真道家は元々内陸を拠点とする大名であり、領地が広がってから交易にも手を出すようになったが、どちらかと言えば海には疎い家であったため、この絡繰りになかなか気付く事が出来ず、地侍を潰し損ねたのである。
降伏した地侍衆は、交易状況を届け出ることを義務付けられてはいるが、制限は受けておらず、また地侍衆の息の掛かった商人達は無届け無制限で交易を現時点も継続している。
そして真道家の系譜を引く守護や探題達も基本的には交易には疎く、自分達で行うことなど考えもしていないが、黒江成光率いる八重国はそうではない。
今でこそ産物も無く生産する人も居ない状態なので、褒美として下賜された金銭や戦利品として得た品物を以て交易をする他ない。
しかし、売り手の立場から見た場合、八重国は瑞穂国で唯一戦乱の続く大消費地であり、武具の売り先として新たな、しかも有望な市場である。
目敏い地侍衆は、既に噂を聞きつけて黒江家に書状や使者、商人を送り込んでおり、商品の売り込みを始めている。
「銭は貰っておるのか?」
「残置の銭がまあありますが、然程は多くありませんなあ。精々五千貫から六千貫程かと思いやすぜ」
「ふん、もっとがっちり残置物を確保しておけば良いものを、成光め。相変わらず欲目の無いつまらん奴だ」
不満そうに再び鼻を鳴らす成弘に、苦笑を返す正兵衛。
「まあその辺はわしらで補いますので、お任せ下さえ。あ、それから若様からは後一千貫は出せると聞いていますぜ」
「ふん、少ないの……半分は浪人共を集めるための支度金として使わねばならん。成光にはしみったれずに五千貫くらいぽんと寄越せと言うておけ」
「大殿には敵いませんや……」
呆れたように返事をする正兵衛に、成弘は笑って言う。
「はっはっは、まあ良し、手付けは貰った。浪人と必要な品は集めてやるし商人共に書状も渡しておこう、わしからも商人共へ口利きはしてやるが、あまり期待するな。奴らは最早危険には関わりを持とうとするまい、今後八重国が莫大な利を生むと知れば群がってくるやも知れんが、現状は無理じゃ」
「まあ、その辺は若様も期待はしていませんでしたがね」
ため息をつく正兵衛に、成弘がにんまりと笑みを浮かべて言う。
「心配は要らん。わしら地侍衆がしっかりと交易の担い手となってやる故に、成光には遠慮なく銭を払えと言うておけ。銭次第で鉄炮や大筒も用意してやるわ」
「たのんます。おっとそれからこちらですが……」
正兵衛が差し出したのは、八重郡代から真道長規宛てに出された書状。
それを見た成弘は顔をしかめる。
「何じゃ、厄介事か」
そう言いつつ手渡された書状の封を遠慮なく切って読み始める成弘。
「お、大殿?」
「息子の手紙を親が見て何が悪い」
「あ、いえ、そうではないのですが……参ったな」
困った様子の正兵衛を余所に、成弘は成光の書いた告発状とも言うべき内容の書状を読み下す。
しばらく読んでいた成弘だったが、しかめっ面を更に深くして正兵衛に言う。
「これはわしの方でも写しを取らせて貰うが、一旦は成時に渡して大和佐殿から正規に上げて貰うたほうが良いだろうな」




