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第12話 東王軍撤退

 中央歴105年10月20日 大章帝国皇帝直轄領北嶺州 扇水河南岸


 川を渡って斥候が戻ってくる。

 清鈴智は敵方である北王軍の攻勢が無い事に安堵し、ゆっくりと口を開く。


「……これより全面撤退する」

「はっ」


 周囲を固める紫志麗を始めとした将官達もその言葉に反発すること無く応じ、すぐさま撤退の準備に掛かり始める。

 既に兵糧の備えが尽きかけているのだ。

 思わぬ長対陣もさることながら、犀慶将軍の敗北で失った兵糧が多かったせいでもあるが、何より当初は北宣府近郊の戦いが終わった後は一旦領地へ引き返すことを想定していたので、そもそもの準備が十分されていなかったのが大きい。


 そこに敗北で兵糧を失った犀慶将軍配下の兵を抱え込んでしまって、消費量が倍増した。

 北王軍は送り狼と言わんばかりに一定距離を保って追跡してきたが、追撃はなかった。

 清鈴智が隙無く用兵の妙を見せて扇水河せんすいがを渡渉した時、北王軍は追跡をその時点で止めた。

 扇水河を渡れなかったのだ。


 もう一息で皇帝直轄領の曲がり形にも一部を手中に収めることが出来るのだが、その名声と危険を天秤に掛けた結果、攻撃は無理と判断したようだ。

 確かに清鈴智側も攻撃を受けた時はいち早く反転の上包囲し、北王軍をせん滅する用意をしていたので、その判断は正しかったと言える。

 そして、扇水河を挟んでの対陣が続いたのだが、この日遂に清鈴智率いる東王軍は撤退を決めたのである。


 斥候を出したのは、この正面以外の周辺において、北王軍が渡渉の準備をしていないかどうかを探るためで、不意を突かれないよう十分用心しての行動であったが、どうやら取り越し苦労で済みそうだ。

 そこでほっとしたせいか、清鈴智はぐっと拳を握りしめ悔しそうな表情で強く言う。


「……経過はどうあれ、負けは負け。言い訳はしたくないけど、黒江成光、という奴には言いたいことが沢山あるっ」

「将軍、それは、あの、今は無理かと思います」


 沈着冷静を地で行く清鈴智の普段見られない言動に、紫志麗が驚きながらも窘めるべく言うが、清鈴智は直ぐに元の無表情に戻って言葉を継ぐ。


「分かってる……今は我慢しておくけど、帝都に戻ったら書状は送ってみることにする」

「ええっと、内通とも受け取られかねませんよ?」

「分かった、不本意だけど……ちゃんと中身は東王に公開してから送る事にする」

「は、はあ」


 今まで特別誰か個人に執着したことがなく、私信と言ってもほぼ業務連絡のような物しか出したことがなかった清鈴智。

 副官就任以来初めての出来事に、まだ顔すら見たこともない敵将に書状を出すと決意を表明している上司へどう反応してよいか分からず、紫志麗は曖昧な返事をする。

 清鈴智は特段それに拘る様子もなく、最早そのような会話をしていたかどうかも怪しい程普段通りの様子で周囲の武官達に指示を出し始めており、どういう意図の手紙を出すのか聞こうと考えていた紫志麗の思考は断ち切られてしまうのだった。







 中央歴105年10月20日 大章帝国北王領 北宣府宮殿



「東王軍は撤退を始めました。宿営地を撤去する本格的なものですから、最早間違いはありません」


 扇水河の北岸までを取り戻し、清鈴智将軍の見張りに付けていた部隊からの伝令が土埃を落としながら口上を述べるのを聞き、北王が首を軽く縦に振って頷く。


「陛下、これでとりあえずの危機は脱しました」

「うむ、伝令はご苦労であった、暫し休んでから帰るが良い」

「はっ」


 北王東香歌の言葉を受けた皇帝は頷いてから元気に伝令をねぎらう。

 今日も簡素とは言えそれ相応の出で立ちをしている皇帝。

 それに比べて東香歌は緑色を主体とした淡泊とも言うべき色合いの衣に身を包んでおり、普段政務の時に身に纏う豪奢で妖艶な装いとは一線を画している。


 普段はその容貌から若く見られて軽んじられることを嫌い、必要以上に華美な服装と化粧に身を包んでいる東香歌であったが、そのときの雰囲気とはまた違う健康的で年相応のさわやかな色気を醸し出していた。

 装飾も抑えめで、長い黒髪も髪留めこそ純金製の物を使用しているが、何時もの結い上げ髪とは違い、戦場に出る時のように後ろでひとくくりにしているのみ。


 東香歌の服装に現れた変化は黒江成光と出会ってからのものであると既に皇帝も見抜いていたが、それがどの様な意図でなされているのかまでは、未だ聞けていない。

 伝令が嬉しそうに笑顔で退出すると、皇帝の東嗣成はゆっくりと笑みを浮かべて口を開いた。


「姉上、これでしばらくどころか当分の間、東王の叔父上らはこの地に攻め寄せることは出来ませんね」

「はい、東王は照京での勝利に気をよくし、無理をして兵を集めた上で一気呵成にここ北宣府を攻め上げましたが、最早息切れは紛れもありません。恐らく兵糧切れでしょう」


 弟である皇帝の言葉を受け、東香歌は言う。

 東王領は広大ではあるが大章帝国においては僻地に当たり、農業工業の生産力は然程高くはない。

 それでも6万の兵を用立ててはるばる照京を越え、北王領まで攻め寄せたのだが、既に兵糧の限界を迎えていることを東香歌は掴んでいた。


 北宣府近郊の2回目の戦いで、南王や西王の兵に加えて騎馬部族まであっさり解散させてしまったのは兵糧に不安があったからと睨んでいた東香歌は、照京や皇帝直轄領に残った協力的な官吏や商人から情報を仕入れ、その事実を裏付けを得ることに成功していた。


 冬まで粘れば兵糧が尽きる。


 しかし東王軍が現地調達に切り替えてしまうとそれも不確定で流動的となるため、東香歌は何としても瑞穂軍を冬まで大陸に縛り付けたかったのだ。

 瑞穂軍が居残っていれば、侮りがたい実力を有したその5万の兵力は、東王軍に対する強い抑止力として働く。


 現地調達、言い替えれば略奪のために東王軍が6万の兵を略奪部隊として小分けしてしまうと、この瑞穂軍が動いた際に対処が出来ないという状況を東香歌は生み出したかったのだ。

 その瑞穂軍はたった500の兵を残してあっさりと南海の彼方へ去ってしまったが、しかし東香歌の工作は思わぬ形で予想以上の結果を生んでしまう。


 居残った瑞穂軍がわずか500名の寡兵で東王軍の半分3万を預かる犀慶将軍を討ち取り、その軍を潰走させたのである。

 おまけに黒江成光の実力を最大限に警戒した清鈴智は、扇水河まで陣を退いたのみならず、最終的には今この時点において撤退を選択、決断した。

 ここで犀慶将軍配下の兵が大幅に減っていれば、兵糧の問題が消費者の減少という東王軍にとって痛い幸運により解消されてしまっていたところだが、清鈴智が収容し編制しなおした兵数は総数5万余で然程変わっていない。


 消費量は然程減らず、しかも北王領から撤退を余儀なくされ皇帝直轄領に入ってしまったので、略奪という選択肢も奪われた。

 加えて、犀慶将軍が帯同していた兵糧部隊はきっちり討たれて兵糧は瑞穂軍が回収しているので、兵糧の総量自体も減ってしまっている。

 清鈴智将軍が如何に優れた戦術家であろうとも、事ここに至っては撤退以外に選択肢が無かったのだろう。


 そしてその状況を現出したのは、一介の瑞穂国の地侍、黒江成光である。


 いや、もう一介のというには過ぎた武名を上げ、その盛名は東大陸中に轟いたと言っても過言ではない。

 一度だけ、戦場での簡素な論功で黒江成光と会ったことのある東香歌は、成光のことを思い出して胸を1人熱くしていた。

 悲惨とも言うべき境遇にありながら卑屈にもならず、淡々と居残りを受け入れたばかりか北王派の命脈を繋いだとも言うべき大功を上げ続けているのだ。


「黒江成光とやらに会ってみたいものですね姉上。前は諱を許しましたが、最早それでは功を称するに足りません。近い内にここへ呼んでみては如何です?」


 皇帝からそう話しかけられた東香歌は、少し考える様子。

 しかし何時もより長く考え事をしているようで、なかなか言葉を発しない。

 しまいには手でその豊かな胸を押さえ、顔を赤らめているので、皇帝の方がその様子に驚いて声をかけた。


「姉上、どこかお加減でも悪いのですか?」

「い、いえ。大事は無いのです。体調が悪い訳ではありません」


 そう言い訳するように言う東香歌に、皇帝は未だ訝りの表情を向け続けている。

 ひょっとしてこれは、と皇帝は姉の気持ちを察し始めるが、そこで慌てたように東香歌が話し始める。


「そ、そうですね、陛下の仰るとおり、もう少し落ち着いたらここに呼べば宜しいかと思いますが、差し当たっての論功行賞のためには私が境山城へ赴きましょう」

「えっ?姉上がじかに行くのですか?」


 さすがの皇帝も驚きの声を上げた。

 そして益々姉に疑いの目を向ける。

 皇帝配下にあるとは言え、北王東香歌は実質的にこの北王派と呼ばれる勢力の旗頭であり、最高位者と言うべき地位にある。


 名目上は皇帝が最高位である事は言うまでもないが、北王がうんと言わなければ何も進まないのがこの勢力の実情であるし、これまでもそうして動いてきた勢力である。

 その最高位者がわざわざ出向くと言い出したのだ。

 東香歌には他の狙いもあるが、今はまだ弟とは言え皇帝に言うべき時期ではない。

 そう思っていると、同じく思案していた皇帝が言う。


「確かに黒江成光の功績は姉上直々に賞しても良いほどのモノではありますが……」

「はい、彼の者が大章人であったならば、無位無冠の地下人であったとしても軍にて少将軍に任じられ、五位あたりを宛てられていて然るべきでしょう」

「しかし、異国人です」


 皇帝の言葉に頷きつつ、東香歌は少し困った顔で言う。

 以前それを理由に叙爵を断られてしまったことを思い出したのだ。


「一応、瑞穂軍の総帥である石鷲長誠殿から大章の官位官職を与えて良いとの言質は取っていますが、本人が受けるかどうか分かりません。以前は所属違いを理由に断られてしまいましたが、どうやらあまり昇進というものに興味が無いのか、あるいは嫌悪感を些かなりとも持っているかのよう。それ故に、ここに呼んで叙爵拒否されるより、行って感触を確かめた上で説得し、それでもダメなら別な褒美へ切り替えることが出来ればと思うのです」

「なるほど、叙爵を断られてしまうと私の権威に関わりますか」


 叙爵を申し出て断られるならば、北宣府でない方が良い。

 間諜の仕業とは言わないまでも、北宣府の内情が何らかの形で東王らに流れていることは否定できない以上、噂でも南海の蛮族に叙爵を蹴られたなどと皇帝の沽券に関わる情報が漏れては不味いのだ。


 であれば、大章とは繋がりのない境山城へ行って話してきた方がよい。

 随員を信頼できる者で固め必要最小限度にすれば、たとえ叙爵が断られたとしても、その情報が余所に漏れることはないだろう。


「無用の誹りは避けねばなりません。せっかく黒江成光殿らのお陰で大変貴重な時間を稼げたのですから、ここで躓くわけにはいきませんので。東王軍撤退の件とその事後策については、これから詳細を将官や文官達と話し合って決めたいと思います」


 東香歌は弟にそう言うと、一礼して今後の方策を列臣達に諮るべく部屋を出るのだった。


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