第10話 余波1
中央歴105年10月8日 大章帝国北宣府郊外、東王配下、清鈴智将軍本陣
目の前に存在する高く隙の無い北宣府の城壁を眺める小柄な体躯。
大章風の地味な灰色の鎧兜を身につけているので、軍の関係者である事は分かるが、その体格は極めて細く、小さい。
ほうっと目の前の城壁を眺め回しながら吐いた息と共に、若い女性らしい少し高い声が漏れる。
怜悧な切れ長の目を油断無く周囲と城壁に配り終え、東王軍きっての戦術家と名高い清鈴智将軍は、北宣府の城壁に背を向けた。
「今日も士気が高い……やはり、瑞穂軍が……拠り所になっている?」
周囲を護衛する兵士や武官達から頭2つぐらいは小さい清鈴智であるが、その独特の雰囲気は周囲の者達をして黙り込ませるのには十分。
誰1人としてこの異相の女将軍の独り言に応える者はいない。
「……どうしようか……うん、ここは援軍を、頼もうかな?」
同格の将軍として派遣されてきた犀慶と清鈴智は、はっきり言って馬が合わない。
一部を瑞穂国軍の牽制に回す程度に止め、犀慶将軍の本隊には北宣府の包囲に加わって貰いたかったというのが本音だ。
それでもなお、兵力の減少を甘受せねばならぬほどに思考の方向性が違いすぎる。
低位貴族の出自から己の才覚一本で東王から寵愛を受ける立場になった自分と、元々高位貴族であった犀慶将軍。
若く小柄な自分と、熟年を越えた大柄で武芸自慢の犀慶将軍。
指揮官としてのあり方や戦術の志向は真逆であり、意見の衝突は必須。
将軍として位は同格であり、もっと言えば犀慶将軍の方が年齢も位階も経歴も上だ。
東王殿下の計らいで清鈴智が今回は上位とされているものの、犀慶将軍がその状況に納得するかはまた別の話。
そうなると一刻を争う戦場で方針の決定で時間が掛かりかねず、最悪ばらばらのまま軍として統一性を持たない状態で敵と対峙する羽目になる。
指揮系統が統一されていない軍など最悪だ。
今のところ北王軍に攻勢の予兆はなく、また瑞穂国軍も北西の半島まで撤退している上に、こちらは2軍合わせて6万もの兵がいる。
遠方からの出兵であったことから早々に撤退しつつ有るとは言え、南王軍1万と西王軍1万もまだ近くにいる。
敵は瑞穂国軍を除けば弱体化した北王軍1万であり、負ける要素はない。
瑞穂国軍に再攻勢の気配は全く感じられず、清鈴智は瑞穂国軍の行動は完全な撤退を意図してのものと見ていた。
加えて、北西の半島の出入り口には山塊があり、極めて攻めづらい上に、進軍自体も困難な場所である事を考えれば、無理に攻めたり攻められたりという状況は考えづらい。
しかし万が一という事もあるし、厄介払いもしたいという気持ちで、清鈴智は犀慶将軍に全軍での瑞穂軍牽制を依頼した。
この依頼を犀慶将軍は特に異論なく受け入れたので、恐らく清鈴智が感じていたのと同じやりにくさを犀慶将軍も感じていたに違いない。
ただ、清鈴智も軍事的才覚に乏しいと評判のあった北王がこれ程までに上手く配下を統率し切れているとは考えていなかった。
これは正直に誤算であり、付け入る隙を見せない北宣府の防御に手を拱いているのが実情で、このまま包囲を続けていても上手く戦術的勝利を得られそうにない状態である。
ここは犀慶将軍に素直に助力を乞い、また出来れば東王領から更なる援軍と糧秣の輸送を依頼する他ない。
包囲を継続しつつ散発的に力攻めを織り交ぜ、硬軟併せた攻勢を掛けるべきだ。
そう思い定めて本陣へ戻り、配下の将官や武官と共に北宣府と周辺地域が記された絵図面をのぞき込む清鈴智に注進が入る。
「申し上げます!」
「……何?」
「犀慶将軍戦死!犀慶将軍配下の軍も大打撃を受けて潰走した模様です!」
「……あ、え?」
注進の内容の余りの衝撃に清鈴智が目を見開いて身体を震わせる。
もちろんそれ以上に将官や武官達がざわついているのは言うまでも無い。
しかしその一方、一瞬狼狽えたように見えたのとは裏腹に、清鈴智は素早く今後の軍事行動を組み立てる。
北宣府が犀慶将軍率いる軍の壊滅を知るのは間もなく。
そうすれば、敗残兵の収容と追撃に出てくるかも知れない瑞穂軍への警戒をせざるを得ない清鈴智軍に隙が生まれる。
無論、易々と隙を見せるつもりはないが、背後を警戒しながら包囲を続けるのは極めて危険だ。
北宣府の軍が瑞穂軍の追撃に乗じて、あるいはその気配を利用して一点突破を狙って突出してくれば、相応の被害は免れない。
犀慶将軍配下の軍が壊滅したことを知った兵士達の士気が落ちるのも心配だ。
士気が落ちたところに乗ぜられて攻勢を受ければ、下手をすると清鈴智軍も一気に瓦解しかねない。
「……直ぐに北宣府の包囲を解いて軍陣を会戦型に整えるよう伝令を。犀慶将軍配下の兵士を出来るだけこちらで収容する。副官の紫志麗に手配するよう命じて」
「ハッ、直ちに!」
直轄の武官達の何名かが、清鈴智の命令を受けて離れていく。
「……伝令が行き渡り次第、陣を南に移す」
「ははっ!!」
配下達がきびきびと動くの満足げに眺め、清鈴智は口元に笑みを浮かべる。
「……瑞穂にもまだ良将が、この大陸に……居残っている。とても興味深い」
その視線は北宣府には既になく、遙か北西の半島がある方角に注がれるのだった。
同時期、北宣府・皇帝宮殿、北王営
第二次北宣府の戦いで引き分けとなり、瑞穂軍が北西に去ってから、北王東香歌は北宣府での籠城準備を慌ただしく整えた。
何もかも足りないままであったが、北宣府は東香歌が普段から備えていたお陰で備蓄は十分にあり、幸いにも直ぐに食料を始めとする物資が枯渇する状況ではない。
包囲されているために外へこそ出られないが、民達は日常生活をごく普通に送っており、北王の宣撫工作と相まって不満の声は表立っては聞こえてこない。
しかし城壁は厳しく兵達によって守られており、城門は固く閉ざされている。
籠城が長くなるにつれ、民達の顔に僅かながら不安の色が見え隠れする今日この頃。
朝、北王営の天蓋付きの寝台で目覚めた東香歌は上半身を起こし、艶やかな黒髪を背中に流してから緩帯を解き、ゆっくりと寝台から下りるべく身体を移動させる。
純白高級な絹布を最高の職人が裁断し、縫い上げた夜着を脱ぎ捨て、あらかじめ準備されていた同じ素材と職人の手による政務用の赤色を基調とした前袷の服を身に纏うと、今度はきつく身体に合うよう白い帯を締めた。
「……何か騒がしいですね?」
普段と違って早朝にも関わらず、皇帝宮殿の中が騒々しいことに気付いた東香歌はそうつぶやくと、そこへ図ったかのように侍女が現れる。
「何事ですか?」
「はい、北宣府を包囲していた東王配下の清鈴智将軍が包囲を解き、南の方角で陣を敷き直しております」
「えっ?」
自分の問いに対する侍女の淡々とした報告に驚く東香歌。
包囲が解かれたというのは一大事。
宮殿の中がそれで騒がしいというのは理解できるし当たり前のことだが、この侍女が余りに淡泊なままであるのが気になる。
「奏美芳、あなたね……」
「失礼致しました。生来騒げぬ質でして」
呆れたように言う東香歌に、腹心とも言うべき侍女の奏美芳は相も変わらず淡々と応えるばかり。
「他の高官や将軍達はどうしていますか?」
「既に皆様会議室に集まっていらっしゃいます。皇帝陛下もご臨席で御座います」
「どうやら昨夜の内から準備して陣換えを一気に行ったようですね。こちらに準備を全く察知させずにやってみせるとは、敵ながら天晴れです」
改めて敵将清鈴智の手強さを認識しつつ、東香歌は考える。
もし万が一にでも清鈴智の陣換えの準備が発覚していれば、北宣府は何らかの形で反撃を考えていただろう。
そうすれば移動の最中に襲われる形になる清鈴智将軍の軍は少なからず損害を受けたはずだ。
しかし実際はそうはならず、鮮やかな手法と速度で陣換えを済ませてしまった清鈴智将軍に、北宣府はただ手を拱いていただけになってしまった。
ただ、その意図が分からない。
優勢な東王軍が何故今、この時期に陣換えを行い、明らかな迎撃陣を取ったのか。
高官や将軍達が既に集まっていると言うことは、敵将清鈴智の陣換えが意味するところが分からないからであろう。
東香歌にしても、どこからか援軍が現れたかも知れないと思うのだが、はっきり言って心当たりは無い。
北の騎馬部族には裏切られたばかりであるし、まだ十分な繋ぎも付けられていない。
西の大陸にあって大章に一番近い紫侖王国とは、大章帝国として交渉を行ったことはあるが、現状の内乱勃発後においては全く行き来はない。
更にその西にある西玲帝国は、これもまた大章帝国として交易は行っていたが国としての通信や交通はないし、それは紫侖王国と接している遥壇国、亜留架騨、南にある南照王国とも同様だ。
ましてや南照王国などは大章帝国の反対側の国境と接する国であるから、まず考えられない。
他にも細々とした小さな国は大章帝国の周辺に存在するが、どこもかしこも大章帝国と事を構えられるような気概や国力はないし、そもそも東香歌が交渉を持ち掛けていない。
瑞穂国は既に撤退を始めていると思われ、少数の兵の居残りは成ったが、これも期待は出来ない。
化粧や洗顔を奏美芳の手を借りて素早く済ませると、東香歌は会議室へと向かう。
護衛兵の手で開かれた扉をくぐれば、既に弟である皇帝を上座に、北王府の官吏や将官達が勢揃いしていた。
「遅れて申し訳御座いません」
「姉上、困った事態です」
詫びる東香歌ににこやかに声を掛けたのは、大章帝国現皇帝の東嗣成。
未だ若年ではあるものの、英傑の資質を魅せつつある、追われし皇帝であるが、そこに暗さは無い。
今も困った事態と言いながら実に楽しそうだ。
恐らく生来の楽天的な性格がそうさせるのだろうが、周囲はその明るさに救われている。
何とかこの良き皇帝を元の地位へ。
そう思い定め、劣勢に陥りながらも離反者を出さずにいる北王派閥の結束は固く、それ故に東王らは自分に従わない官吏達を粛正せざるを得なかったのだ。
その粛正に至る実力行使により、北王派が劣勢に追い込まれてしまったのは皮肉だが、未だ誰もが諦めずに皇帝の復権に向けて足掻き続けている。
「清鈴智将軍の陣換えの件は聞きましたが、一体何が起こったのですか?」
皇帝に笑顔を返しつつ、その横にある自席へ着きながら東香歌が尋ねると、武官の1人が困惑した素振りを隠そうともせずに言う。
「それが、分からないのです」
「分からないのですか?」
「はい、私たちに味方するような者は現状おらず、また味方するという報せや軍の進発に関する先触れもありません。まず援軍ではないでしょう。ですから、我らの敵である清鈴智将軍が陣を変えて迎撃体勢を整える理由が分からないのです」
武官の説明に眉をひそめる東香歌。
そこに、表に控えていた兵士が末席に居た武官に何事かを囁く。
それを見ていた東香歌が直ぐに声を掛けた。
「如何しましたか?」
自分が見られているとは思っていなかった武官が慌てて立ち上がると、東香歌にそのまま手で発言するよう促されて言葉を発する。
「はっ、申し上げます。瑞穂国は八重郡代、境山城主黒江成光様から使者が参っております」
「瑞穂国?八重郡代?境山城とは何だ?」
「黒江成光とは何者だ?瑞穂の将の中にそんな名の者はおらぬはず、知らぬぞ」
「しかし何故今ここへ?」
「本当の使者か?偽物では?」
官吏や武官達が口々に囁き合う中、皇帝が笑顔で言う。
「その使者と会ってみよう」




