057 ロスタイムにさよなら
イエラの瞳が開く。
背中が冷たい。
寝そべっているのは床か。
体を起こし、彼女が真っ先に確かめたのは、自分の体だった。
「繋がってる……」
ぺたぺたと触ってみるが、そこに継ぎ目のようなものはない。
だったらさっき見た光景は悪い夢だったのか――そう思いたかったが、残念なことに服は破れていた。
礼拝堂内部もひどい有様で、イエラの記憶にある光景よりもさらに破壊が進んでいる。
窓のみならず壁や天井にも大きな穴が空き、光が差し込んでいた。
「そうだ、クリスはっ!」
首を左右に振りその姿を探すと、そう遠くない場所にクリスはいた。
彼女は横になり、目を閉じて、微動だにしない。
イエラは四つん這いで近づき、口元に耳を近づけた。
――呼吸はある。生きている。
胸に手を当て、ほっと息を吐き出すイエラ。
だが執事服は見るも無残な状態で、肌やさらしがむき出しの状態だ。
その姿もやはり、イエラの記憶にあるものよりもさらにボロボロになっていて、彼女が意識を失ったあと、なおも戦闘が続いたことを示していた。
「あのとき……私は体を切断されて、クリスは悪魔みたいな化物になってた……よね」
夢なんかじゃない。
そして悪魔はヴァージニアに襲いかかり、腕を引きちぎり、足を切断した。
そこでイエラの意識は途絶えたが、“戦闘”が続いたということは、なおも聖女は抵抗を続けたのか。
「それからどうなったの? どうして私は生きてて、クリスも無傷で……」
悩むより、おそらく当事者を探したほうが早いはずだ。
イエラは立ち上がり、周囲を見回す。
そしてちょうど背後に視線を向けたとき、瓦礫の向こうで、壁にもたれて座り込む聖女を見つけた。
クリス同様、純白のドレスは破られ、右手と右脚がちぎれている。
傷口は赤いが、血は出ていない。
最低限の止血は済ませたということか。
失われたパーツは、彼女から少し離れた場所に放置されていた。
イエラが歩み寄ると、ヴァージニアは虚ろな瞳で、ゆっくりと彼女を見上げた。
「……よかった、無事だったの、ですね」
か細い声で聖女は語る。
イエラは顔をしかめた。
その言葉で、何が起きたのかを察せてしまったから。
「私を治療したのはあなたなの?」
「ええ……間に合って、よか、った……」
「じゃあ、クリスも……」
「ふ、ふふ……止めるの、は……大変でしたが……どうにか、なりました……ね……」
クリスは化物のような姿になり、その姿にふさわしい力を発揮した。
――それでもなお、ヴァージニアには勝てなかったのだ。
彼女も腕と脚を犠牲にはしたが、それでも悪魔を止めてみせ、さらにクリスとイエラに治療を施した。
その生ぬるい偽善に満ちた敗北に、イエラは屈辱で胸がいっぱいになる。
「どうして……何のために助けたのっ!? 自分の体を治す魔力も残ってないくせに!」
「……わかりません。ですが、それが……正しいことのように、思えて……」
「クリスは敵だから戦ったんじゃないの? 黒の王蛇の邪魔になるから殺そうとしたんじゃないの!?」
「そう、ですね。ですが――」
ヴァージニアは目を細め、思い出す。
五年前、黒の王蛇の首領、ヴェルガドーレと交わした言葉を。
『フォルディ、ヴァージニア、どうして俺がお前らをNo.ⅡとNo.Ⅲに据えたかわかってるか?』
彼は白い歯を見せながら、人を惹きつける笑みを浮かべ、こう語った。
『もしも俺が間違ったとき、止められるように、だ。ちゃんと“正しさ”を自分の中に持ってるお前らなら、それができる』
悪の組織のトップのくせして、彼は時に、誰よりも人を信じた。
『ま、俺は間違えないけどな。万が一ってやつだ。そのときは、しっかり頼むぞ、二人とも』
それから五年。
ヴァージニアは、ヴェルガドーレを止められずにいる。
彼は間違っている。
四年前から、まるで人が変わってしまったかのように、過ちを繰り返している。
だというのに、それでも彼女たちは女々しく、『彼を信じたい』と――
「……断罪を、望んでいるのかもしれません」
「は……?」
「悪魔に、夢を、見たのです。過ちを正す……」
「そっか……ああ、そうなんだぁ……じゃあ、あんたが自分を治さなかったのは、わざとなわけだ!」
自己満足の、自己犠牲。
身勝手に自分が許されたつもりになって、そのまま逃げるつもりだ――イエラはそう感じた。
怒りに任せて、彼女は足元に落ちていた拳大の石を拾うと、それを思いっきり地面に投げつけた。
石は長椅子が砕けた木片に衝突し、弾かれ、転がる。
そこそこの強さで投げたはずなのに、木片は無傷だった。
「[サンクチュアリ]は消えてない。あんたが死んだあと、この魔力はいつまで残るの?」
「……一ヶ月ほどでしょうか」
「っ――」
ほら見たことか。
やはり、この女は死んで逃げるつもりだったのだ――イエラは腸が煮えくり返る気分だった。
そしてその感情を、変に我慢して飲み込む必要もない。
「ふざけるな、ふざけるなっ、ふざけるなぁぁぁあああッ!」
聖女の胸ぐらをつかみ、全力で、怒りをぶつける。
だが三度繰り返してもなお、こみ上げる憤りを表現するには足りない。
「好き勝手しておいて、自分は自分の望みだけ叶えて死ぬつもり!? 私の大切な人たちは死なせなかったくせに! 醜い姿で生き残らせたくせにッ!」
「……」
「だったら死なせない! 死が救いだっていうんなら、罰を求めるっていうんなら、あんたがやるべきは生き残って罪を償うことだ! 生きろッ! 生きて苦しみ続けろおぉおおおッ!」
ヴァージニアを生かす方法を持つイエラだからこそ、その罰は成立する。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
イエラはよろよろとした足取りで、無造作に転がるヴァージニアの手足を、彼女の体の前まで運んできた。
繋がればそれでいい。
無理なら魔力を大量に使って生やすだけだ。
「生き残れば……私は、クリスさんの前に立ちはだかるでしょう。それでも、いいのですか?」
「……脅しのつもり?」
イエラの瞳を間近で向けられ、ヴァージニアはそっと目をそらす。
そんなつもりはなかったかもしれない。
だが、そう受け取られることはわかっていたはずだ。
「そんな情けないやつが、強い意思を持った相手に勝てるわけがない」
そう告げると、二人の会話は途切れた。
ヴァージニアの治療が始まる。
作業に集中しながら、イエラはふと思った。
自分がこうすることも、この女はわかっていたのかもしれない――と。
◆◆◆
もう、“目覚め”なんてこないと思っていた。
だから“瞳を開く”という行為を自分が行ったとき、少なからず僕は驚いた。
そして開かれた視界に見えた顔に、さらに驚くことになる。
「おはようございます」
――聖女が穏やかに笑っている。
「ッ!?」
僕は思わず飛び退き、背中を壁に打ち付けた。
「安心してください。もうここで、貴女と戦うつもりはありません」
「どういうこと……? 一体、何がどうなって……」
右手でナイフを探すも、今の僕は執事服を着ていない。
おそらく聖女が使っていたであろう、質素な白いシャツ一枚だ。
まずは刃物を探さないと!
「クリス、待って!」
「な……イエラっ!?」
そんな、たしかにイエラは、聖女に真っ二つに切られたはずじゃ?
でも生きてる。
確かに生きて、喋ってる!
よかった、本当によかった!
「う、うわっ、あの、そのっ」
思わず抱きしめると、彼女は僕の腕の中で恥ずかしそうに顔を赤らめ慌てている。
「生きてた……もう、ダメだと思ったよ……」
「う、うん、生きてた。その……ヴァージニアに、治療されて」
「ヴァージニア?」
「私の名前です。ヴァージニア・アレクサンドリアといいます」
聖女が答える。
偉そうな名前に苛立ってしまうのは、僕が彼女に不信感を抱いているからだろう。
「何でそんなことを……」
「……」
「一応、その話はもう私が付けたから。たぶん、二人が話しても、こじれるだけだと思う」
確かに、まともに会話ができる気がしない。
ひとまず戦意も殺意もないことはわかったから、僕も警戒を解く。
「はぁ……わかった、イエラがそう言うなら、飲み込むよ。戦いは終わった、この村ではもうやり合わない――これでいいんだね」
「助かります」
「でも、村に関しては何も解決してない。これからどうするの?」
薬物汚染はもう救いようのない段階まで進んでいる。
しかし見た限り、ヴァージニアの[サンクチュアリ]はまだ解除されていない。
これじゃあ村人たちを殺すことができない。
「私の気持ちは変わりません」
ヴァージニアははっきりとそう言った。
「この期に及んでまだそんなことを。イエラのことを尊重してって言ったよね?」
「それは彼女に責任を押し付けることになると反論したはずです」
「僕も背負うよ」
「押し問答ですね。他人の貴女がどれだけ背負えるというのですか」
「ちゃんと殺すよ。たぶんイエラは、元からそのつもりで僕らをここに連れてきたんだろうから」
僕の言葉に、ふとイエラの表情が曇る。
「……ごめん」
彼女は俯きながら謝罪した。
ひょっとすると、出会ったばかりの頃は、まだ僕らに“救い”を求めている面もあったのかもしれない。
けど、現実は違った。
見ての通り、もう手遅れだった。
だから、そちらの可能性にわざわざ言及するのはただの無駄足だろう。
「正直、イエラには少しだけ怒ってる。でも、気持ちはわかる。一人じゃどうしようもなかったんだよね」
イエラの能力はランクC。
いくら相手が素人でも、村人全員を殺すのは難しい。
誰かを頼るしかなかった。
けど、正直に『村人を皆殺しにしてほしい』などと言えるはずがない。
「クリスは、優しいねー」
「そうでもないよ」
それは、今から人殺しをする人間に向けるべき言葉じゃないから。
「聞いての通りさ。あとは、ヴァージニアが[サンクチュアリ]を解けば丸く収まるんだけど」
「っ……」
その気持ちを理解したいとも思わないけど――たぶん彼女は悩んでるんだろう。
自分の経験と、この村にある現実を天秤にかけて、苦悩して。
しかし過去が今の彼女を作り上げた土台になっているのなら、その考えを変えることは難しい。
どれだけ強く語りかけようとも、僕やイエラは、彼女にとって他人でしかないのだから。
「聖女様! 聖女さまぁぁ!」
教会に入ってきた男が、かすれた声でそう叫んだ。
ヴァージニアはこちらに目を向ける。
「別に僕に許可なんて取らなくてもいいよ」
冷たくそう告げると、彼女は部屋を出ていった。
イエラは気になるのか、閉じた扉をわずかに開け、覗き込む。
「来たのは知り合い?」
「うん、近所に住んでたおじさん。娘さんと一緒に暮らしてたんだけど――あ」
彼女は言葉を失う。顔が青ざめる。
僕は気になってベッドから降りた。
「く……」
体が軋む。動かすたびに痛みが走る。
治療はされたはずなのだけれど――どれだけ無茶をしたんだ。
動きの鈍さからして、ひょっとすると、かなり長い時間眠っていたのかもしれない。
ゆっくりとイエラの背後に近づき、扉の向こうの様子を見つめる。
男は、腕に少女を抱えていた。
少女はぐったりとしており、肌も青白い。
口は半開き、目も開いたまま、耳を澄ましても心音も呼吸音も聞こえず――間違いない、死んでいる。
「ターナちゃん……うぅ……」
涙ぐむイエラをそっと抱きしめた。
彼女はそのまま僕の胸に顔を埋め、体を震わせる。
気休めでも、彼女の救いになれたらと思ったんだ。
一方で、男の前に立つヴァージニアも、少なからずショックを受けているようだ。
あるいは、あの少女と彼女は知り合いだったのだろうか。
男は欲望をにじませた下品な顔で口を開く。
「聖女様、見てくださいよぉ。うちの娘が死んじまったんです」
「……そう、ですか」
「聖女様にもよく懐いてたんですよねぇ。ママに会えたってよく言ってましたよ、ひひっ」
「はい。娘さんは、とても素敵な……女の子でした」
「死んじまったってことは、今日の儀式はうちの娘ですよねぇ?」
「そうなりますね」
「それでなんですけどねぇ」
彼の瞳はぎょろりと開かれ、まばたきすら忘れたように、聖女を凝視する。
そして口の端に泡を付けながら、震える声で言い放った。
「俺に、多めに食わせてくれませんかねぇ」
「……それは」
「やっぱ今日まで俺が育ててきたんですからぁ」
彼の声は、ここまで聞こえてくる。
「その資格が俺にはあると思うんですよぉ」
「食らうために育ててきたのですか」
「そういうわけじゃなくて……」
イエラは僕の腕の中で、カタカタと小刻みに震えている。
「ほら、娘は優しかったんで」
「そのことに何の関係が?」
「娘もきっと、俺に食べてほしいって思ってますよぉ! 俺にもっと気持ちよくなってほしいって!」
その醜悪さに、僕は唇を噛む。
「それに、子供って小さいからよく染みてるって聞いたことあって。聖女様もご存知ですよね」
「……そんなことを言っている者もいましたね」
「娘も生きてた頃によく、『私が死んだらパパが食べてね』って言ってくれてたんですよねえ」
「……」
「あ、その顔は信じてませんね?」
「そういう、わけではありませんが」
「本当です! 本当ですって! 親の俺が言うんだから間違いない!」
憎むべきは彼じゃない、その感情は彼を変えてしまった薬に向けるべきだ。
だがそれから彼を救う方法は、一つしか無い。
僕とイエラは、漏れ聞こえる言葉を聞くたびに、その認識を強めていく。
「ええ、だから内心では――『早く死んでくれねえかなあ』と思ってて」
「――ッ」
なあ、ヴァージニア。
お前はその男を前にして、それでもなお、生きることが最善だと思うのか――
「なぁんて。へへ、冗だ」
パシャッ――と、まるで水が弾けるような音が聞こえた。
悪魔の力がない今の僕では、見ることすら叶わぬ斬撃。
聖女は引き抜いた大剣で、男の頭を薙ぎ払ったのだ。
「あ……ああ、うあああ……っ」
頭部を失った彼の体はぐらりと傾き、抱えた少女の死体ともつれ合うように倒れる。
聖女は寄り添う親子を前に、膝をつき、天を仰ぐ。
「あああぁああっ! ああああああああああッ!」
そして涙をボロボロと流しながら、空に向かって叫んだ。
神に向かって? それとも、失われた命の数々に向けて?
きっと答えなんて、彼女自身もわからないのだろう。
僕はそっとイエラから体を離す。
「あ……クリス……?」
「行こう、イエラ。今なら僕らの意見は一致するはずだ」
僕がイエラの手を握ると、彼女がしっかりとうなずいた。
そして二人で嘆く聖女の前に立つと、イエラが単刀直入に、結論だけを告げる。
「みんなを殺すから、[サンクチュアリ]を解いて」
ヴァージニアは悲嘆に歪む顔で、ゆっくりと視線をイエラに向ける。
「僕とイエラ、二人で終わらせてくるよ」
聖女は緩慢な動作で、首を横に振った。
この期に及んで、まだ――そう思いかけた僕だけれど、彼女自身の言葉がそれを否定した。
「私も……手を汚します。彼らを苦しめた者として……責任を、取らせてください」
僕はイエラのほうを見る。
彼女がうなずくと、ヴァージニアは祈るように両手を重ねて、枯れた声で「ありがとうございます」と絞り出すように言った。
こうして“聖域”は解かれた。
教会を出た僕たちは、それぞれ手分けをして民家を回った。
赤い徒花が咲き誇り、長い長い悪夢は終わる。
せめて苦しまずに済むよう、確実に、即座に命を奪って。
「ごめんね……」
断末魔の叫びは聞こえない。
聞こえてはならない。
だからイエラの嘆きだけが響く。
「みんな、ごめんねぇ……」
けれど、彼らの安らかな死に顔を見て、僕はこう思う。
きっとみんな、イエラに『ありがとう』と言っているはずだ、って。
それともこれは、生者の身勝手な妄想なのだろうか。
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