054 「とっくに手遅れだったの」
“聖女”ヴァージニアに抱えられ、イエラは教会までやってきた。
「もう、降ろして。大丈夫だから」
ここまでよく我慢したと思う。
仇でもある女に触れられるだけでも吐き気がするというのに。
ヴァージニアは心配そうにしながら、彼女を自分の足で立たせた。
イエラは教会の傍らにある井戸に駆け寄ると、急いで水で口の回りを洗う。
人肉の不快な臭いは完全にはとれなかったが、いくらかマシになった。
「う……う、ぅ……」
「中で休みましょう」
背後から近づき、気遣いを見せるヴァージニアを、イエラは強く睨みつけた。
だが彼女は動じない。
わかっている――あるいは慣れている――そう謂わんばかりに平然としていて、それがなおさら苛立ちを掻き立てた。
◇◇◇
この教会そのものは、以前から存在するものだ。
豊穣の女神に祈りを捧げるための施設――だが今はそういった目的で使われている様子はない。
ヴァージニアが住居としている以外、使うものはいなかった。
だが清掃は行き届いている。
誰も使わない礼拝堂まで、彼女が掃除しているとでもいうのだろうか。
二人は奥の部屋に入ると、促されるままにイエラは椅子に腰掛けた。
ヴァージニアも向かい合って座る。
これだけの至近距離で向き合えば、嫌でも力量差を痛感させられる。
イエラはクリスと出会ったときもそう思ったが、ヴァージニアは格が違った。
ベアトリスと同じ――あるいはそれ以上の実力者。
殺したいぐらい憎いのに、きっと戦っても指一本触れられない。
不甲斐なくて、強く拳を握りしめた。
ヴァージニアはイエラのそんな仕草を見て、低めの声で告げる。
「貴女には……私を憎む資格があります」
「資格なんてなくても憎むよ」
温厚なイエラだが、彼女なりに強く睨みつけた。
まったく迫力がない――のはさておき、その憎悪はヴァージニアにも伝わっているはずだ。
「……そうですね。私たち黒の王蛇は、取り返しのつかないことをしてしまいましたから」
そう言って、ヴァージニアは、物憂げに窓から外を見つめた。
視線の先には、荒れ果てた畑がある。
「言い訳にしか聞こえないかもしれませんが――私がここに来たときには、すでに村はこの状態でした」
「だろうねぇ。あなたが来たのは、私が出ていった後だから。火事場泥棒でもするつもりなの?」
「そんなつもりは……いえ、似たようなものかもしれませんね」
ヴァージニアはまるで、罪悪感を覚えているように見えた。
だがイエラからしてみれば、そんなもの白々しさしか感じない。
彼女はヴァージニアのほうを見ることもなく、白い天井を見つめる。
「魔石を使った薬物……私たちは魔薬と呼んでいますが、あれを広めるという首領の考えに関して、組織内での考えは二分されています。手段を選ばず、黒の王蛇の勢力を広めるべきだと主張する者、一方で薬などに頼るべきではないと反対する者」
「自分は反対してる、って?」
「いいえ、私はどちらでもありません。快くは思っていませんが、一方でヴェルガドーレ様に逆らおうとも思わない、中途半端な人間です」
「聖女が聞いて呆れるねー」
「まったくですね」
ヴァージニアは否定しない。
圧倒的な力を持つ彼女だが、一方で心は普通の人間と変わらず――否、それよりも弱々しく揺れていた。
そこに彼女の人間性を見た気がしたイエラは、一瞬だけ警戒を解きそうになったが、すぐに気持ちを切り替える。
あれは敵だ。
一切の同情も憐憫も必要ない。
「魔薬の被害を食い止めたい。けれど逆らうこともできない。だから私はここにいます。終わりゆくこの村で、少しでも彼らが、人間らしく死ねるように」
「……その結果が、あの冗談みたいな儀式?」
「彼らが共食いに走ることは避けられませんから。禁断症状はそれだけ苦しいものなのです」
「黒の王蛇の幹部だって言うんなら、薬を持ってきたら? みんな楽になるよ」
「できません。これは組織の指示ではなく、私の独断ですから」
「だったらそんなの、ただの自己満足だよ」
俯き震えるイエラ。
「そうですね。そのとおりです」
淡々と事実を見つめるヴァージニア。
彼女自身、自分の行いにどんな意味があるのか、疑問を抱いている様子だった。
それでも何もせずにはいられない。
つまり、自覚のある偽善者。
「ただ、無秩序に、互いに貪り合うよりは、秩序の中で滅びていったほうが、いくらか楽なのではないかと思ったのです」
「責任を神様のせいにできるから」
「はい。神という概念はそのためにあると、私は思います」
どうあがいても、この村は滅びを免れない――それはイエラもわかっていたことだ。
「貴女は、なぜこの村から出て、また戻ってきたのですか?」
「心のどこかで……もしかしたら、元に戻す方法があるんじゃないかと思ったから。力を持った人間なら、それができるんじゃないかって」
「なるほど、そのためにあの者たちを連れてきたのですね」
「……でも、今はそうは思わないよ」
心の片隅に残った僅かな希望。
それをクリスたちに託して、またあの幸せな日々が戻ってくることを願っていた。
今は無理でも、もしクリスたちが、魔薬に冒された人々を元に戻す方法を見つけてくれたのなら、そのときにでも――と。
しかし、もう手遅れだと知った。
いや、知っていたはずだ。九割九分。それが確定しただけのこと。
別にヴァージニアのせいじゃない。
確かに彼女の存在はイエラにとって絶望を上乗せしただけだが、重要なのはそこではない。
今のイエラが望み、クリスたちに託すべきは――
「この村は終わるべきだ」
悪夢の途絶を。
「このまま生きてても、誰も幸せにはなれない。少しでも早く、みんな、殺されるべきなの」
愛しき故郷を、死で埋め尽くすべきだというその決意。
ヴァージニアはイエラの言葉を聞いて、目を見開いた。
「……なぜ」
確かにその方法も彼女の中に無かったといえば嘘になる。
つまり、尊厳の尊重。
命ではなく、人が人であるという事実を重んじる決断。
だがヴァージニアは否定した。
「なぜ、当事者であるあなたがその結論に達するのですか? 命は、ただそこに在るだけで価値あるもののはずです。どれだけ薄汚くとも、少しでも多くの人間が、少しでも長く生きられる道を選ぶべきでしょう」
声が震える。
ヴァージニアの感情の動きなど、イエラは知る由もない。
きっと彼女はこの村を何かと重ねて見ているのだろう――そう想像はできるが、そこに寄り添う必要もない。
だから冷たく言い放つ。
「弟は、嬉しそうにお父さんとお母さんを食べたことを話してた。そんな人間、生きてる価値なんてある?」
声のみならず、温度のない瞳が、まっすぐに聖女の心を貫く。
ヴァージニアは反論しようと試みるも、言葉が出てこない。
だってそれは、本当の“家族”が発したものだから。
やがてふっと目を伏せて、握りこぶしを膝の上に乗せたまま黙り込んだ。
沈黙が流れる。
イエラはため息をつくと、天井を見上げた。
(たぶん……私たちが考えてることは同じなんだね。嬉しくないけどさー)
忌々しいことに。
だが当たり前のように。
この村は手遅れだ、誰の目からも明らかなのだ。
だから、問題はどう終わらせるべきなのか――その結論だけが重ならない。
けれどヴァージニアには力がある。
自分の考えを押し通そうと思えばどうとでもなる。
一方でそれは彼女の望むところではない。
当事者たるイエラが滅びを望むのならば――嗚呼、しかしそれは自分の理想とはかけ離れており――どちらを選ぶべきか、どちらを尊重すべきか。
胸の中で苦悩が、渦巻いている。
迷惑な話だ。
赤の他人が勝手に首を突っ込んで、勝手にかき乱して、勝手に苦悩して。
「ねえ、村人たちが力を持ってるのは、あなたの魔法のおかげなの?」
イエラの問いに、重々しくヴァージニアは答える。
「……はい。村全体に、[サンクチュアリ]という魔法をかけています」
「そっかー、なら今すぐ解いて。そしてこの村から出ていって」
イエラの言葉に、ヴァージニアは答えない。
「嫌なんだ。じゃあ、自分の望みを通すために、私やクリスたちと戦うの?」
「あなたはともかく……彼女たちをみすみす見逃すわけにはいかないのです」
ヴァージニアの目つきが変わる。
先ほどまでの迷いとは異なり、はっきりとした意思を持った表情に。
「それって……」
「これは黒の王蛇の幹部としての役目ですから。彼女たちがセントラルマリスにある魔薬工場への潜入を目論んでいることは、すでに把握しています」
「黒の王蛇のやったことを否定するために、この村に来たんじゃないの!?」
「言ったではないですか、私は半端な人間だと」
「その言葉をそんな風に使う人間はただのクズだよっ!」
「だとしても――」
自己満足を求める人間に開き直られると、一番厄介だ。
ヴァージニアはイエラの言葉には耳を傾けず、立ち上がった。
「来客です、ここでじっとしていてください」
「待ってよ、まだ何もっ!」
扉の向こうに姿を消すヴァージニア。
イエラは慌てて追いかけたが、ドアノブにどれだけ力をかけても扉はびくともしない。
どうやら[サンクチュアリ]とやらの効果で固定されてしまったようだ。
「何なの……わけわかんないよぉ……」
彼女は崩れ落ちる。
怒りもすぐに萎えて、感情の波は、今度は自己嫌悪に形を変えて押し寄せた。
「わかってるけどぉ……クリスたちを騙してここまで連れてきた私が……悪いんだけどぉ……」
あわよくば救ってもらおうと思った。
それが無理なら殺してもらおうと思った。
どちらにしたって、重荷を押し付けるような真似だ。
「でも……だけど……っ」
――だったら、どうするのが正解だったというのだろう。
「私はただ……普通に、暮らせれば、それでよかったのに……」
それすらも、贅沢な望みだというのか。
何も答えが見えないまま、イエラは扉に額をごつんと当てて、瞳を閉じた。
◇◇◇
バンッ、と勢いよく入口が開くと、十歳にも満たない子供が礼拝堂に入ってきた。
そして細い体で絨毯の上を駆け、奥の部屋から出てきたヴァージニアに抱きつく。
「ママぁっ!」
「ふふ、今日も元気ですね」
「うん、ママに会えたから!」
少女はキラキラとした瞳をヴァージニアに向ける。
聖女はその少女を抱きかかえると、近くにある長椅子に腰掛け、膝の上に彼女を乗せた。
足をぱたつかせながら、少女はヴァージニアの豊満な胸に頬ずりをする。
長い間洗っていない頭からはすえた臭いがしたが、彼女は顔色一つ変えなかった。
「えへへ~、ママぁ。ママぁ」
「そんなにママのことが好きなんですか?」
「うん、もちろんだよ! パパはね、ママはお星さまになったから会えないって言ったでしょ? だからお空にはたくさんママがいて、見上げると本当に沢山ママがいて、いつもわたしを見ていてくれるの!」
「そうですか、よかったですね」
「嬉しい。いつもママはわたしのことを見てくれるから。でも、でも悲しい。ママはわたしに触ってくれない。だから嬉しいの! ママはわたしに触ってくれるから!」
言葉は支離滅裂。
笑みを浮かべる口の端には泡が浮かび、目の焦点は合っていない。
それでも少女はぬくもりを感じていた。
確かに、母はそこにいたのだ。
「ええ、ママはここにいますよ。いつだって、あなたの近くに」
――無論、ヴァージニアは少女の母などではない。
最初に顔を合わせたとき、そう呼ばれた。
望まれたから母を演じているだけだ。
それで少女が幸せな終焉を迎えられるのなら、それでもいいと思ったのだ。
『ママー! おかえりなさいっ』
『ねえママ、仕事が終わったんならあたしたちと遊ぼうよー!』
『いーや、ママは私と遊ぶんだからっ』
『あーたーし!』
『私なのー!』
少女を見ていると、ヴァージニアの意識はたまに過去に吸い込まれる。
「ママ、本当にわたしを見てる?」
「え、ええ。こんなに近くにいるのだから当然です」
少女はとうにこの世界をまともに認識していないというのに、なぜかそういうときだけは敏感に感じ取り、ヴァージニアを問い詰める。
彼女がどれだけ幼かろうと、『ママはお星さまになった』という言葉だけで寂しさが癒えるはずがないのだ。
どれだけ精神が薬に冒されようとも、根っこにある本心だけは変えられない。
その発露と言える。
だからこそ――死んですぐに終わりだなんて、できるはずがないのだ。
(この村の人たちは生きています。それが残り少ない部分だとしても、たしかに人として。それに、この少女は私が抱きしめるだけで、こんなに幸せそうに笑っているではないですか)
たとえまやかしであろうとも、幸せな時間がそこにあるのなら――
やはり人は生きるべきだ。
どんな方法を使っても、できるだけ長く。
『どうしてあの子たちを殺したの?』
『もう手遅れでした』
『どうして殺したのかって聞いてるのよ!』
『治療は不可能でした。ですから、少しでも苦しまないようにと……』
『そんなことは聞いていないわ! どうして殺したのか言いなさいよおおおお!』
だってその行いは間違っていたから。
どれだけ間違っていたかって?
自分を慕ってくれていた人たちの感情がそのまま反転して、自分を心から憎悪するぐらいに。
『あの病を広めたのは聖女様らしいぞ』
『魔法の実験のために子供たちを殺したんですって』
『今まで俺たちの治療をしてたってのも嘘だったんじゃないのか?』
『あいつは聖女なんかじゃない。魔女だ!』
『魔女め! よくも俺たちを騙してくれたな!』
『魔女と一緒にいるあいつらも手下に違いない! 殺せ! 殺せえぇぇ!』
そう、間違ってなんかいない。
「ママ、ママぁ」
「はい、ママはここにいますよ。絶対に、もう、あなたを離したりはしませんからね……」
◆◆◆
ヴァイオラの伸ばした“影”に対して[シャドウステップ]を発動させ、僕は地下牢から脱出した。
彼女は、
『それスキルっていうかもう魔法よね』
となぜか口を尖らせて言っていたけれど、神の与えた奇跡に文句を言われても困る。
僕はそのまま施設を脱出。
幸い、建物内には誰もいなかった。
幸い、地下牢のある建物には誰もいなかった。
見張りなど必要がないのか、それとも見張りができる人間がいないのか。
外に出て軽く情報を集めた結果、後者である可能性が高いと判断する。
この村では、誰一人として社会的な営みを行っていなかった。
商店は閉まり、商品も並んでいない。
ある者は家の壁を背もたれにしてしゃがみこみ、意味不明な言葉をぶつぶつと呟く。
ある者は地面に寝転がり、手足をばたつかせながら奇声を発する。
またある者は、おぼつかない足取りで、虚ろな瞳をさまよわせながら、ふらふらと村を徘徊する。
時折、そういった人間同士が肩をぶつけたかと思うと、二人はへらへらと笑い、欲望をむき出しにした。
誰もが薄汚れた格好をしており、髪もぼさぼさで、衣服はまともに身に付けている者のほうが少ない。
建物の中からも獣じみた声が響き、力尽きたらその場で眠る。
また、どこからともなく『助けて』、『頭が割れる』といった内容の叫び声も聞こえてきた。
禁断症状というやつだろうか。
村はどこに行っても汚く、臭く、空気が淀んでいる。
元々は飼われていたであろうペットの犬なども半ば野生化しており、やせ細った体で歯をむき出しにしながら、群れをなして村の一角にたむろしていた。
「この村は、もう……」
建物の陰に身を隠す僕は、その様をみてすぐにそう思った。
きっと誰が見てもそう思うだろう。
むしろ逆に――こんな村に、“儀式”という秩序をもたらしたあの女を褒めるべきなんじゃないか?
そんな馬鹿げたことを考えてしまうほどに、崩壊している。
仮に黒の王蛇からもたらされた薬がこの村を変えたのだとしたら、たった二年。
それだけの期間で、人間の尊厳はここまで破壊できてしまう。
これはもはや兵器といっても過言ではない。
「……イエラは一体、何のために僕たちをここに連れてきたんだ」
この状況を知らなかった?
いや、彼女の反応からして、イレギュラーはそこじゃなかったのかもしれない。
つまり、あの聖女という女だけが予定外。
だったらこの状態の村を見せて、イエラが僕らに望むことは――まさか――
首を振り、よからぬ想像を払う。
今はまず、みんなを解放する手がかりを探すんだ。
しかし目の前に現れるのは、荒れ果てた畑、牛の死体が放置された牧舎、火事が起きても放置され、朽ち果てた家屋――そんなものばかりだ。
わかったことは、全ての建物があの謎の力に守られているわけではないということ。
明らかに、必要と不要を分けている。
それは恐ろしいことだった。
一律に全てを守っているのなら、何らかのシステムである可能性が考えられる。
が、そこに意思が介在してるということは――
「やっぱりあの女なのか」
この枯れた村には不釣り合いな鮮やかさを宿した、聖女と呼ばれた女性。
見ただけで寒気がするほどの力量差を感じさせるあの存在が――“魔法”によりこの現象を発生させているのかもしれない。
つまり、あの女を倒す他、止める方法はないのだ。
これだけの魔法を個人の力で発動させられるのだとしたら、どれだけ少なく見積もってもランクSでは収まらない。
怪物と呼ばれるSを越える、SS――下手すれば最上級、【賢者】と並ぶSSSである可能性すらある。
生身で、あのミーシャよりも強い存在。
もちろんリモーダルなんて足元にも及ばない。
彼の光など、聖女の放つ光にかき消されて、その体は塵さえ残らないだろう。
それだけの差がある。
戦えるのか、そんな相手と。
心が揺らぐ。
脈動は加速する。
怖いんだ、未知すぎて。
もっと別の方法を慎重に検討すべきだ。
しかしそうしている間に、キャミィが、ヴァイオラが、師匠が――いつまで無事でいられるかはわからなかった。
樽の陰に身を隠して考え込んでいると、三人の子供が近くで走り回る。
手足は細く、骨が浮き出ていた。
それでも楽しそうに、ナイフ片手に追いかけっこをして、互いを傷つけ合いながら遊んでいる。
もちろん怪我はしない。
しかし彼らは魔力で守られていなかったとしても、お構いなしにナイフを突き刺しただろう。
そして笑いながら息絶えるだろう。
それは幸せなのか。
彼らは本心から、それを幸福と思っているのか。
その問いはおそらく、リーゼロットにも同じことが言えるだろう。
いや、僕だって一緒だ。
本心はどこにある。
薬によって作り出された人格は、果たして本人なのか。
それとも偽りのもので、治療してしまえば消えてしまうのか。
この村は狂っている。
終わっている。
理解できない。
けれど、他人事とは思えない。
◇◇◇
村の外れに、大きめの建物があった。
周囲には草が生い茂っており、見ただけで判別するのは難しかったが、おそらくは学校なのだろう。
近づくと、微かに音が聞こえた。
カリカリと――ひっかくように――いや、これはペンの音か?
気配がある部屋の窓際に移動。
覗き込むと、背の高い白髪の男が、机に向き合っていた。
他の村人たちと違い、表情や瞳に理性を感じる。
もしかして、話が通じる相手――そう思った矢先、彼はペンを机に置き、ノートを手にして立ち上がった。
それを棚に収める。
すると途端にだらしない表情になり、「ふひへへへへ」と気味の悪い笑い声をあげながら、ふらふらと部屋から出ていった。
……何だったんだろう、今のは。
僕は静かに窓を割り、部屋に侵入。
棚から彼が記していたノートを取り出すと、最初のページを開いた。
『今日も私はここにいる。もはや私にはそれが喜ぶべきことなのかわからない。私は幾度となく、生徒たちに命の尊さを説いてきた。いかなる時でも命だけは捨てるなと。だが、そんな常識すら揺らぐほど、私は自分の命に価値を見いだせない』
達筆に記された文章は、そう長くはない。
書かれているのは一ページにつき数行のみ。
つまり、一日につき一ページ――贅沢な使い方をした、おそらくは日記帳だと思われる。
『正気とはなんだろう。狂気とはなんだろう。幸い、考える時間は沢山あるので、毎日そんなことを考察している。だが答えはまだ出ない。おそらく最後まで見つけられないし、その正しさを証明する術もない。だが、悩まずにはいられない』
『なぜあのとき快楽にあらがわなかったのか。そう悔いたところで、過去の自分にそれを語ることができたとしても、おそらく私は同じ運命をたどっただろう。何なら今だって求めているじゃないか。責任転嫁は無意味なことだ』
『何度も自分自身を責めた。村の人々を責めた。しかし虚しくなるだけだと気づく。私たちは選ばれた、その時点ですでに終わりは運命づけられていたのだ。私たちは生贄の羊だ。強者に抗うことはできない』
『牢獄に閉じ込められているような気分だ。この日記帳の前にいるときだけ、私は私でいられるが、その時間は日に日に短くなっている。怖い。ただただ、怖い。しかし終わりが見えるのは、救いでもある』
それは、自分ひとりでは解答できない命題の、一つの答えだった。
薬によって、人格は乖離する。
彼だけなのか、それとも別の人たちもそうなのかは不明だが――少なくともこの日記を記した男は、正気と狂気が、それぞれ別物として同居している。
『不快なことに、私の口はいつも生臭い。これが人肉の臭いだと思うと吐き気がするし、胃袋の重みがそれだと想像するだけで鳥肌がたつ。だが一方で体はそれを求めていた。まるで魔物だ』
『やめてくれと叫ぶのはもう諦めた。私はただただ願っている。早く終わってほしい、こんな悪夢から私を出してくれ、殺してくれ、と。もっとも、誰もそれを叶えてくれる人間はいないのだが』
『逆に私は私の存在が嫌になりはじめた。いっそ消えることができたのなら、死ななくてもこの苦しみから解放されるのに。ペンで自分を突き刺したい。私は生存本能が憎い』
『今日の私は、愛すべき生徒を食らって歓喜していた。生徒も解体されながら歓喜の雄叫びをあげていた。死にたい。死にたい。死にたい。誰か、頼む』
『なあ聖女よ、君が聖女を名乗るのならば、私たちを救ってはくれないか。命が尊いなどと、ありふれた常識を説かないでくれ。それは旧い考えだ』
『新たな秩序が生まれた。だがそれが喜ぶべきことなのか私にはわからない。統率された狂気は、無秩序なそれよりも狂気的ではないか』
『わずかな人間性も正気と呼べる域にはほど遠く。なら何の意味がある、教えてくれ。これは一体、何の実験なんだ?』
『もう書くこともない。それでもこの時間は訪れる。妻よ、すまない。君を食んだ感触を、私は地獄でも忘れない』
『あと何日続くのだろう。一日が数十年に感じられるほど長い。苦しい。孤独だ。助けて、助けて、助けて――』
肉体の権利は限りなく狂気に奪われたまま、すり減っていく男の心情が、ひたすら書き殴られている。
時に弱々しく、時に激しく――字体にも感情が込められていた。
ノートを握る手が震える。
怒りもある。だが、同時に恐怖もあった。
これが僕たちの成れの果てだと思うと。
いや、リーゼロットに至っては、今もなお、現在進行系でこうして苦しんでいるかもしれないのに――
指先でページをめくっていき、少しずつ歪んでいく正気を目の当たりにしながら、最後のページにたどり着く。
『君が私たちを殺してくれるのか?』
短くそう書き込まれていた。
インクが微かに滲んでいる。
おそらく、さっき綴ったばかりのものだろう。
僕の存在に気づいて……いや、そんな様子はなかった。
久しぶりに現れた外の人間に、希望を託したとでもいうのか。
それとも見えない何かに祈るようにその一文を残したのだろうか。
頭がくらくらして、吐き気がする。
ティンマリスのときもそうだったが――いくら慣れていようとも、限界はある。
家族や知人があんな姿になっているのだ、イエラはもっとひどい状態だろう。
探さなくては。
助けなくては。
そして終わらせなくては。
「……脱出の手がかりはなし。結局、あの女を殺すしかないわけか」
正面からが無理なら、【暗殺者】らしく、影の中から――
◇◇◇
まずは相手の行動パターンの把握。
僕は教会の裏にある茂みに身を潜め、窓から内部の様子を伺った。
残念なことに、遮蔽物の問題上、見えるのは礼拝堂の内部だけだ。
不用意にもカーテンは開かれたままで、建物内を歩き回る聖女の姿が見て取れた。
掃除でもしているのだろうか。
女性にしては高身長だ。
スタイルはよく、女性らしい膨らみも、柔らかさもあるように見えるが――その肉体には、恐ろしくしなやかで強靭な筋肉が備わっている。
あの大剣を振るう姿ですでにわかっていたことではあるが、改めて感じる。
――隙がない。
ただ歩いているだけなのに、いつ、いかにして忍び寄り、どのような手段を使って殺せばいいのか、一切想像が付かない。
いかなる手段を提案して、想像してみても、結論は“僕の死”だ。
困ったことに、何度考えても最善は“逃亡”以外に出てこない。
だがそんなわけにはいかないだろう。
こうなると、僕にできることといえば――出しうる限り最高の火力を一撃に込めて、急所めがけて放つことのみ。
相手の背後を取る、[アサシンダイヴ]。
背後からの攻撃の威力を向上させる、[エクスキューション]。
そして僕の使えるスキルで最高の火力を持つ斬撃、[フェイタルエンド]。
もちろん[ウィンドエッジ]も忘れない。
これらを一気に使い、殺害を試みる。
万が一失敗するようなことがあれば、深追いはせず、[アサルトブリッツ]および[シャドウステップ]で速やかに撤退。
これで行こう。
下手に挑もうだなんて考えるな、それは愚かな選択だ。
じりじりと茂みの中を慎重に進み、距離を詰める。
一気に移動可能な[アサシンダイヴ]の射程範囲ギリギリで足を止めると、聖女が背中を向ける瞬間を待つ。
彼女は一旦、奥の部屋に姿を消す。
焦るな、必ず出てくる。
まだ掃除は終わっていないのだから――ほらきた。
彼女は部屋から、見覚えのある女性と一緒に現れる。
あれは……イエラ?
彼女がどうしてあの教会に? さらわれたのか、それとも自分で向かったのか――
「待って……村のこと……らっ……すぎる!」
「……役目ですので」
「都合の悪い……やって! 本気でこの村を……だったら……必要なん――」
かすかに聞こえる二人の言い争い。
すると聖女はイエラの言葉を遮るように拳を握り、彼女の腹部を殴りつけた。
「っ……」
思わず声をあげそうになる。
体も前のめりになるが、衝動をぐっと抑えた。
まだだ、まだ殺されたわけじゃない。
「ぐ、ぶっ……!?」
目を見開き、腹を押さえながら崩れ落ちるイエラ。
聖女はそんなイエラの体を支えたかと思えば、長椅子に座らせた。
そしてキューブを握ると、例の大剣を展開する。
立方体がまたたく間に巨大な剣へと姿を変える。
彼女はそれを振り上げ、イエラの首めがけて――
「やめろおぉぉおッ!」
もう待てなかった。
当然、それが罠であることも、おびき寄せられていることも理解はしていた。
しかし、目の前で死のうとしているイエラを見捨てられるほど、クレバーにも薄情にもなれなかったのだ。
即座にスキル発動、聖女の背後に瞬間的に移動。
すかさずナイフを構え、後頭部めがけて突き立てる。
反応できていないのか、彼女はまだ微動だにしない。
「ようこそ」
――いや、違う。
風をまとった刃は見えない壁に阻まれ、傷一つ付けることが出来ていない。
つまり“動く必要すらない”と、そう告げられているのだ。
「お待ちしておりました」
剣を持たぬ手で、振り向きざまに拳を放つ。
裏拳に対して僕は辛うじて反応し、わずかに首をのけぞらせることで回避に成功した。
鼻先を掠めていく聖女の手。
次の瞬間、僕の脳はガクンと強く揺さぶられ、気づけば壁に叩きつけられていた。
「あぐっ!」
強く後頭部を強打し、揺らめく意識。
聖女は容赦なく追撃を仕掛ける。
気づいたときには、すでに頭上より大剣の刃が迫っており――とっさに横に転がり、それを回避。
投擲のためにナイフを握りかけて――途中でやめる。
自分で言ったはずだ、ここで戦うのは愚かだと。
僕がやるべきことは、短距離移動スキル[アサルトブリッツ]の連続使用による、この場からの逃亡だ。
まずは一回目の使用。
気絶したまま椅子に座らされたイエラの目の前に移動。
「遅いですよ」
――聖女が耳元で囁いた。
「づっ!?」
思わずのけぞりながら、また[アサルトブリッツ]で彼女から距離を取る。
イエラの救出を諦めたわけではないが、今はとりあえず、
「だから」
……何で、正面に?
馬鹿な。
この女、生身でスキルを使用した【暗殺者】よりも速いとでも――
「遅いと言っているのに」
女の手のひらが、軽く僕の腹部に触れた。
全身を揺さぶる強い衝撃。
体の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚。
僕は先ほどよりも猛烈なスピードで後方へと吹き飛んだ。
余波で長椅子が吹き飛ぶ。床が砕ける。全ての窓ガラスが弾け飛ぶ。
僕は、体が爆ぜるほど強く、背中から壁に衝突する。
今度は、ずり落ちて地面に足がつくこともなかった。
たぶん、めり込んで、磔状態になっている。
起きた出来事は光のように僕の目の前を過ぎ去っていって。
あまりに冗談めいていて、思わず笑ってしまいそうになる。
「か、かひゅ……は……」
声のかわりに出たのは、そんなかすれた呼吸音。
呼吸に血の匂いが混ざっている。
内臓がやられたのか? 骨は無事か? 脳はまともに機能しているか?
自問自答で確かめる。
ひとまず意識はあった。
しかし手足が痺れて思うように動かない。
痛みはまだ無い。
僕は視線だけ、聖女に向けた。
彼女はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
純白のドレスは、まったく汚れていなかった。
まるで一人だけ別世界に生きているようだった。
「魔力障壁も持たない惨めな【暗殺者】……よく私に立ち向かおうと思いましたね」
「は……ぁ、ふ……ぐ……っ」
「しかし戦意はなおも折れず、ですか。私への強い憎悪も見て取れます」
「あたり……前、だ……っ」
「おや、もう喋れるのですか。見た目よりも頑丈なのですね」
徐々に体の感覚が戻ってくる。
同時に痛覚も。
思わず顔を歪めながらも、挟まった脚と、尖った石が突き刺さった腕を引き抜き、地面に降り立つ。
聖女は少し距離を取ったまま、まだ僕を殺そうとはしなかった。
その気になれば、いつだって殺せるくせに――いや、殺せるからこそ、今である必要がないということだろうか。
「それにしても驚きました。完全に閉じ込めたはずだったのに、急に襲ってくるのですから」
「お前……なのか?」
「この村をこんな風にしたのは、ですか。“そう”だと言ったらどうしますか?」
「なぜ、あんなことができる。何のために、あそこまで人の尊厳を踏みにじれるんだッ!」
「実験です。データがほしかった」
「――ッ!」
「あらあら、すごい形相ですね。しょせん、他人が暮らす村でしかないのに。正義の心というやつでしょうか」
「ゼロとは言わないよ」
「ですが貴女の怒りはかなりのものです。正義でないのなら、何のためにそこまで?」
自分に住まう“自分とは異なる存在”に呼びかける。
体が熱を帯びて、魔なる存在が僕に力を与える。
「重ねたんだ。自分と、大切な人の境遇に」
赤い模様は、手足のみならず、全身に広がっていた。
自分を侵される感触。
聞こえてくる、リーゼロットを求める声。
それが薬によって生じたものなのか、あるいは自分自身の心そのものなのか、やはり僕にはわからない。
だが今は、彼女とて無関係ではないのだ。
お前も文句はないだろう。
「貴女、その体は――」
「知ってるはずだ、黒の王蛇の人間なら」
「……どうやら私は、想像していたよりも珍しい客人に出会ってしまったようです。ですが相手が誰であろうと、黒の王蛇に逆らう以上は潰すのみ」
「そう簡単に負けるつもりはないけどね」
「力の差は理解しているでしょうに。先ほども逃げようとしていたではないですか。それが最も正しい選択だと思いますが」
「うん、逃げたかった。今でも勝てる気なんてしない。でも、イエラを傷つけたお前に十割完全に負けるってのは受け入れられない」
カッコつけたってカッコつかない。
それでもせいぜい強がるさ。
最初から負けた気でいたら、万が一の奇跡だって起きようがないんだから。
「爪痕ぐらいは残すよ」
「ふふふ、謙虚なことですね」
彼女は剣を両手で握り、低く構える。
腰も落とし、脚に力を込め――威力、スピード、全ての面で僕を超越し、叩き潰さんと戦意をたぎらせる。
「残念ですが、あなたの力では、私に傷ひとつ付けられません」
聖女が消える。
目視の限界を超えた刺突は、気づいたとき、すでに眉間の目前にまで迫っていた。
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