005 君がいない
僕はキャミィの叫び声に驚き、シャワールームを飛び出た。
けれどなぜか彼女は、頬を膨らまして僕をにらんでいる。
「騙したなぁ……乙女の純情を返せえぇぇ……」
何が起きているのか、さっぱりわからない。
けど、僕の身に何らかの理不尽が降り掛かっていることは理解できた。
◇◇◇
ひとまず体を拭いて、宿にあった寝間着に着替えて、キャミィと話し合うことにした。
彼女はベッドの真ん中にぺたんと座ると、枕を抱きしめ、目から上だけこちらに見せて、じーっと睨みつけてくる。
「キャミィ、何があったか教えてよ。僕だって言ってもらわないとわからないよ」
「騙したなあぁ……騙したなあぁ……」
「僕が、キャミィをってこと?」
「私はあなたのことぉ、甘いマスクをした男の人だと思ってたんですぅ! でも冷静になって見てみると、甘すぎるっていうか、声も高いしぃ、ああこれ女だなっと思ったんですぅ!」
「うん、女だけど」
「言わないとわかんねーですよぉー!」
そうかなぁ、屋敷のみんなは知ってたけど。
ってそりゃそうか、あの子たちとはお風呂とかも一緒に入ってたしね。
「そっか、僕ってそんなに男に見えるんだ……」
「中性的ってやつです。さっきも言いましたけど、女だってわかると女にしか見えません。あと胸デカすぎです、何ですかそれ凶器ですか?」
「動くのに邪魔だから、普段はさらしを巻いてるんだ」
「むきー! どうりで同性ですら見ちゃう私の胸に興味を示さないわけですよぉ! でもですよ、そんなショートヘアで、執事服まで着てたら勘違いしますって! 私が悪いわけじゃねーです!」
「そもそもキャミィは、何でお風呂場に入ってきたの?」
「う゛っ……色仕掛けしようとしたとかいえるわけないですし」
「色仕掛けしようとしたんだ」
「何で今の声が聞こえるんですか!?」
「耳はいいから」
「顔もよければ耳もいいってやつですか! とことんかっこいいやつですねムキー!」
何に怒ってるんだ、この子は。
「でも、何で色仕掛けなんてする必要があったの?」
「ほとんどの冒険者は、特定の商人と契約を結んでて、今さら入り込めないんです。クリスさんみたいな有望な新人、他の商人に見つかったら引っ張りだこです。私みたいなぺーぺー商人じゃ、手も足も出ません」
「だからその前に、僕を縛っておこうとしたわけだ」
「そーですよ。もう失敗しちゃったから無理ですけど……」
枕に顔をうずめて、しょんぼりするキャミィ。
ちょっと腹黒いけど、僕はこの子を、悪い子だとは思わない。
彼女のいうとおり、他の商人ならもっといい条件で買い取ってくれたりするのかもしれないけど――別に、それが僕の目的ではないから。
「いいよ、なら契約しよう」
「ふぇ?」
「僕はキャミィと契約するって言ってるの。ここまで連れてきてもらって、宿まで用意してもらった恩があるんだから」
「い、いいんですか? 私、5対5とか言っちゃう子ですよ? 色仕掛けして既成事実を作ろうとしたんですよ? というか何も言わずに勝手にダブルの部屋に泊まって二人で寝ようとしてたんですよ!?」
「うん、今のでちょっと揺らいだけど……」
「ひいぃっ! ごめんなさいごめんなさい私とてもいい子です、清廉潔白で嘘つきません!」
「すでにそれが嘘だよ」
「あと尽くします! 体も何もかもをクリスさんに捧げるので、どうぞっ! どうぞお願いいたしますうぅ~っ!」
「そんなひれ伏さないでいいから。大丈夫、もう僕はキャミィに決めてるから、ね?」
「クリスしゃぁん……ずずっ」
涙目になって感動しているらしいキャミィ。
本当に忙しい子で、見ているだけで飽きない。
ちょっと騒がしすぎるぐらいだけど、今の僕にはちょうどいいのかもしれない。
ナイーヴにならずに済むから。
「それでは、正式に契約を結ぶということで、今後ともどうぞよろしくお願いしますっ!」
「こちらこそよろしく、キャミィ」
そして僕らは今度こそ、きちんと握手を交わした。
こういうのに慣れていないのか、彼女は手を重ねると、少し照れくさそうに「んへへ」と笑う。
リーゼロットとタイプは違うけど、とてもかわいらしい女の子で――うかつにも、ちょっとだけドキッとしてしまった。
「ところでクリスさん」
「何?」
「胸が邪魔だからさらしを巻いてるってのはわかりますけど、だったらどうして執事服なんて着て男装してるんです?」
「ああ、僕の師匠が執事をしてたんだ。その人に憧れて、その人から受け継いで、っていうのが理由の一つ」
「クリスさんがあの動きなんですから、師匠さんはもっとすごい人だったんでしょうねえ」
「うん、すごいよ。僕なんて全然敵わないぐらい」
「けどさっきの言い方だと、まだ理由があるような雰囲気でしたね」
「もう一つの理由は――」
僕は軽く目を伏せ、過去に思いを馳せた。
結局、思い出すのはリーゼロットのことだ。
僕の人生は彼女に埋め尽くされていて、酸いも甘いも、善も悪も、彼女を基準としていて。
だからこの姿もまた、彼女の一言ではじめたことだった。
「好きな人が、かっこいいって言ってくれたから、かな」
僕がそう言うと、なぜかキャミィはふてくされたように、唇を尖らせ「むぅ……」と鳴いた。
◆◆◆
屋敷の夜が更けていく。
リーゼロットはふと喉が乾いて、大きな声でこう命じた。
「クリス、お茶を用意して!」
しん、と静まり返った部屋に声が虚しく響く。
もちろん返事などあるはずもなく、その事実にリーゼロットは、そのかわいらしい顔を醜く怒りに歪めた。
「クリス……お茶を用意してって言ってるのよ、どうして返事もしないのッ!」
リーゼロットは立ち上がり、誰もいないドアのほうに向かって叫ぶ。
何度繰り返したって、ここにいないクリスが来るはずなどないというのに――
それでも彼女は自制する様子もなく、憤った様子で再び机に向かう。
「おかしいじゃない。あれから何時間も経ってて、もう夜なのよ? なのにどうしてクリスは帰ってこないのよ」
どうせすぐに帰ってくると思っていた。
だってクリスは、リーゼロットの傍にいるのが当たり前で、そうやって生きていて、これからもそう生きていくはずだったからだ。
それ以外の人生なんてありえない。
「ああ、そうだわ。きっと近くの森で魔物に襲われて困っているに違いないわ。それとも野盗に襲われて大変な目にあっているのかしら。困った子ね。ダメな子ね。私が助けてあげないと、だってあの子、暗殺者なんだから。本当にどうしようもない子。だから、賢者である私が手を差し伸べてあげないとっ!」
リーゼロットはまばたきもせずに、目を見開いたまま、ふらりふらりと部屋の扉に近づく。
そして開こうとした瞬間、外から誰かがノックをした。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
メイドの声だ。
リーゼロットは首をかしげ、扉を開く。
「申し訳ありません、お嬢様。お手を煩わせてしまって。まさか扉のすぐ前にいるとは思わなかったもので」
メイドはそう言って笑った。
感情のこもっていない笑みだった。
「誰がお茶をもってこいだなんて言ったの?」
「お嬢様ですよ」
「私は言ってないわ」
「いいえ、言われました。お茶を用意して、と怒鳴られていたではありませんか」
「私は、クリスにお茶を持ってきてって頼んだのよっ! あなたに持ってきてだなんて頼んでないわッ!」
感情のままに手を振り払ったリーゼロットによって、お盆に乗せられたティーカップが床に叩きつけられる。
カップはぱりんと割れて、べちゃりと中身をぶちまけた。
メイドはそれを視線で追って、目を細める。
「お嬢様、困ります。掃除をするにも、クリスさんがいなくて手が足りないんですから」
「そう、クリスよ。クリスはまだ戻っていないの? いつまで出ていくつもりなの!?」
「もう戻ってこないと思いますよ」
「そんなはずないじゃない! クリスはねぇ、私とずっと一緒にいるって言ってたの。そう約束したの!」
「何歳のときの話ですか」
「何歳のときだろうと約束は永遠でしょう!?」
「それに見合うだけのことを、お嬢様はクリスさんになさったんですか?」
「は……?」
「クリスさんはお嬢様に尽くされていました。尽くして、尽くして、それでもお嬢様は、『ありがとう』の一言もクリスさんに言いませんでしたよね」
「何よあなた……メイド風情に、クリスの何がわかるって言うの!?」
「わかりますよ。少なくとも、今のお嬢様よりは」
「こ、この……ッ!」
振り上げられたリーゼロットの手に、炎が渦巻く。
触れたものを問答無用で灰に変える強烈な魔力が、そこにはあった。
しかしメイドは物怖じせずに、リーゼロットに向かい合う。
「クリスさんがここを出ていくのは、時間の問題でした。もう限界だったんですよ。なのに、実際にそうなっても、お嬢様は反省すらしない!」
「私はクリスを雇ったのよ! 暗殺者で、他のどこにも居場所のないクリスをッ! それ以上、私に何を求めるっていうの!? 私は十分すぎるほど報いたわ!」
「あの人はッ! クリスさんは……きっと、自分が出ていけば、お嬢様が少しは気持ちを入れ替えるとか、少しは寂しがってくれるとか、そういうことを考えてたんだと思います。それって、クリスさんがお嬢様に捧げてきた人生に比べれば、本当に、ほんのちっぽけな願いですよね? お嬢様は、それすら叶えていないんですよ? なのによく『十分すぎるほど』とか言えますよね!」
「あなたは……あなたは、ただのメイドなら立場をわきまえなさいッ!」
「上等です、クビにでも何でもしたらいい! 誰よりも慕われてたクリスさんにあんなことしてた時点で、こんなクソッタレた職場への愛想なんてとっくに尽きてるんですから!」
毅然としたメイドの瞳はなおも揺れない。
歯を食いしばるリーゼロット。
ここで彼女を殺したって、何の意味もない――むしろマイナスにしかならないことを彼女は知っている。
それに、『それは余計なことだよ』って聞こえてくるから。
だから従うしかなかった。
魔力渦巻く拳を握って、血がにじむぐらい握りしめて、腕全体を震わせて――ゆっくりと、ゆっくりと、下ろしていく。
「……クリスは戻ってくるわ」
「まだ言うんですか」
「誰が何を言おうと、クリスは私の近くから離れないのッ! 遠く離れていても、心は私のものなの……すぐにわかるわ」
リーゼロットはメイドの横を通り過ぎ、廊下の奥へと消えていく。
幽鬼のごとく、ゆらりゆらりと揺れながら、生気のない足取りで。
メイドはその背中を見送ると、「はあぁ」と大きくため息をついた。
呆れたし、疲れたし、吐き出された息には、様々な感情がこもっていたに違いない。
「どうしてお嬢様はああなんでしょうか。以前はもっと優しい人だったって、先輩たち言ってたのに。やっぱり啓示の日って人生を変えちゃうんですねぇ」
ぶつぶつと呟きながら、ひとまず割れたカップの破片を拾う。
「クリスさんもクリスさんですよ。あれだけ人並み外れた能力があるくせに、こんな場所にくすぶってるんですから。きっと今ごろ、色んな人に認められて、楽しくやってるに違いありません」
メイドはそうやって寂しそうに独り言を続けた。
彼女のみならず、クリスはこの屋敷で働く人間の憧れの的だった。
できない仕事はないし、危ない仕事や面倒な仕事は率先してこなす。
料理も掃除も完璧で、そのくせたまに見せる茶目っ気が無性にかわいらしくて。
きっと、彼女を愛していない人なんて、ここには存在しない。
だからこそ、胸にぽっかりと穴が空いたような気がする。
「……そりゃあ、私たちだって帰ってきてほしいですけど。でも同時に、帰ってきて、またお嬢様の理不尽に巻き込まれるクリスさんも見たくないんですよねぇ」
相反する感情を抱きながら、メイドは掃除を続けた。
◆◆◆
リーゼロットは、行く宛もなく歩いた。
とにかく体を動かしていないと、イライラして暴れてしまいそうだったから。
「どうして……どうして……誰もわかっていないわ。クリスはね、私の近くにいるのが正しいのよ。なのにクリス自身もそれをわかっていなかった。失望したわ、間違ってる」
まるで呪文でも唱えるようにぶつぶつと言いながら、彼女はとある部屋の前でふと足を止めた。
小さく声が聞こえてくる。
おいで、おいで、リーゼロット、こっちだよ――その声に導かれて、リーゼロットは部屋に足を踏み入れた。
そこは両親の寝室で、彼女以外の出入りが禁じられているところだった。
屋敷の全てを知り尽くしているはずのクリスですら入ったことがないのだから、その禁止っぷりは筋金入りである。
「お父様、お母様、まだ起きてらっしゃったんですね。体の具合のこともあるのですから、夜ふかしは厳禁ですわよ」
先ほどとは打って変わって、穏やかな様子で両親に話しかけるリーゼロット。
そんな娘を見て、両親は笑った。
そういえば、今日はまだ、一度も二人と顔を合わせていなかった。
クリスのこともあったし、色々と忙しすぎて、そうする暇がなかったのである。
「お父様、お母様、聞いてください。クリスが屋敷を飛び出していったんですのよ? 私に逆らって、私の悪口を言って! あのクリスが……私の、嫌がるようなことを」
両親は、怒ると同時に嘆く彼女を見て、心から同情した。
娘が傷ついていれば、当然、両親だって傷つく。
気の利いた言葉はかけられないけれど、しかし今は、その“共感”がリーゼロットにとって救いだった。
「え、新しい執事を雇う、ですか? ええ、確かに普通の執事なら、クリスなんかよりもずっと優秀で、簡単に仕事だってこなしてくれるはずです。わかっています。わかって、いるんです……ですが、ほら、クリスがいつ戻ってくるかわからないじゃないですか。だってあの子、私がいないとなんにもできないんですよ? 賢者たる私の価値を少し分けてあげたから、暗殺者という無価値な彼女にも価値が生まれたんです。だから必ず、絶対に、戻ってくるはずなんです!」
熱弁するリーゼロットだったが、両親はその言葉を、あまり信じきれていないようだった。
「だから……だから……お父様、お母様、新しい執事を雇うのは少し待ちましょう。私は優しいので、クリスが戻ってくるのを待っていてあげるんです。もちろん、戻ってきたら死ぬほど罵るし、折檻だってしますが、それは仕方のないことですよね。お父様とお母様もそう思うでしょう? ふふ、そうですよね! ああ、よかった。お父様とお母様がそう言ってくださるなら、きっと間違いありません」
彼女の話はまるで、自分自身に言い聞かせるようである。
おそらくリーゼロット自身も、クリスがここに戻ってくるかどうか、確信を持てていないんだろう。
だからこそ――あのメイドに図星を突かれて、憤ってしまったのだ。
「戻ってくるまで大丈夫か、ですか……ふふ、何をおっしゃっているんですか、お父様、お母様。クリスが抜けた穴なんて、どうとでも埋められますよ。だってあの子にできることを、他の人ができないはずないんですから。だから平気です。ずっと、何なら戻ってこなくても平気なんです。だって戻らなくて困るのは、私じゃなくてクリスなんですから」
リーゼロットの声はかすかに震えていた。
両親はそんな彼女を慰めるように、伸ばした前足で頭を撫でた。
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