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041 バースト

 



 私には大好きな友達がいた。


 彼女の名前はクリス。


 明るくて、優しくて、いつも私の手を引いて、見たことのない景色を見せてくれる、大切な友達。


 周りは私を“お嬢様”として扱うけど、たった一人だけ、同じ目線で、同じ立場で、同等の友達として扱ってくれて。


 普通、貴族の家はそういう平民とのつながりを嫌がるみたいなんだけど、お父様もお母様は、クリスのご両親と仲がいいから特別。


 たまにやんちゃのしすぎで怒られることもあるけど、そういうときもクリスが庇ってくれて。


 守られてばかりで申し訳ないな、って思うこともあって。


 だからできるだけ、私はクリスに沢山のものを与えたいと思った。


 せめて、与えられた分ぐらいは、全部返せるように。




 でも、私たちの関係は永遠ではない。


 私が六歳になったとき、お父様のやったことが原因で、クリスのお父さんが仕事を失った。


 私はお父様が苦しんでいたのを知っている。


 友人を守るか、領主としての役目を果たすか、その瀬戸際で悩んで、悩んで――その末に出した結論だった。


 結果として、クリスのお父さんは、以前とは人が変わったように荒れてしまって。


 お酒に溺れ、クリスに暴力を振るうようになった。


 クリスのお母さんも、そんな彼に嫌気が差して、どんどん家の雰囲気は悪くなっていった。


 彼女の体に、アザややけどの跡が増えていく。


 優しかった笑顔が消えて、瞳から光が消える。




『リーゼロットのせいだよ』


『お前のせいで私はこうなった』


『慰められても不愉快なだけなの』


『お願いだからもう、私の前に姿を見せないで』




 クリスは繰り返し、私にそう言った。


 けど私はクリスと別れたくなかったから、何度も会いに行った。


 そのたびに怒られて。


 好きなお菓子を二人で食べられたら、と思って渡しても――捨てられて、時には踏み潰されることもあった。


 でも、私には諦められない理由があった。


 だってまだ、貰ったものを返しきれてない。


 あんなにたくさんの幸せをもらったのに、クリスが私のせいで不幸になって終わりだなんて、そんなの認められない。


 お父様に相談する。


 悲しげに『諦めなさい、私たちにはどうにもできないんだ』と言われた。


 お母様に相談する。


 優しい声で『他にお友達を作りなさい』と言われた。


 胸が苦しかった。


 私はクリスだから仲直りしたいって言っているのに、誰もその答えを持っていない。


 大人も、偉い人も、偉くない人も、みんな。みんな。




『そうだねえ、難しい問題だ。それを解決できるのは、魔法使いだけかもしれない』




 けれど、“おじさん”は違った。


 そのおじさんは、街にふらっと立ち寄った旅の人で、たぶん冒険者なんだと思う。


 ヒゲを伸ばして、帽子をかぶって、スーツを着て。


 その人は私と何度か話をしたあと、袋を手渡しながらこう言った。




『どうしても仲直りをしたいのなら、この魔法の粉を使うといい。これを相手に飲ませてやれば、すべては元通りだ』




 おじさんは、とても優しく笑いながらそう言った。


 それきり、私が彼と会うことはなかった。


 きっとまた旅に出たんだろう。


 私はその赤い粉をクッキーに混ぜて、クリスに直接渡そうとしたけれど、渡せなかったから――ポストに入れた。


 その翌日。


 クリスは私の前に現れた。


 昨日までとは違う。


 けど、その前とも全然違う、まるで別人のような顔をして。




『ごめんなさいっ! 私、リーゼロットにとてもひどいことをしてしまったの! 謝るから! どうか許して! そしてあなたの近くにいさせてほしいのっ!』




 地面に額をこすりつけながら、必死に謝るクリスを見て、私は血の気が引いていくのを感じていた。


 違う。


 違う。


 そんなのじゃない。


 私が望んだ“元通り”は、こんな、まるで下僕が主を見るような目では――




『これからは今までの罪を償うために、あなたの全てに従う。あなたの望む人間になる。だから、困ったことがあったら何でも言ってね』




 取り返しのつかないことをしてしまったのだと、私は認識した。


 傷は時が癒やしてくれる。


 だけど、形が変わってしまったのなら、もう二度と、元に戻ることはない。




 ◆◆◆




「ふぁ……! ふうぅ」




 リーゼロットは目を覚ますと、両手をあげて思い切り体を伸ばす。


 そして一気に力を抜くとぼんやりとした目を、手の甲でこすった。




「懐かしい夢を見たわ」




 あの瞬間、リーゼロットはクリスに対する“責任”を負った。


 何が何でも彼女は自分の近くにいなければならないのだ、と。


 それは魔薬の摂取により歪み、現在の独占欲へと至った。




「ほんと、おかしなクリスね。あれほど私に忠義を誓っておきながら、どうして離れるような真似をしたのかしら……それとも今の私は、自分が仕えるべき私ではないとでも言うのかしらね。ふふふふっ」




 寝起きで朦朧とする頭で、ぶつぶつとつぶやく。


 そのままベッドから出て、スリッパを履いて部屋を出る。




「……喉が乾いたわ。何か、飲まないと」




 目指すは厨房。


 まばたきをする。


 次の瞬間、リーゼロットの目の前には調理長がいた。


 髭をはやした、気のいいおじさんだ。


 クリスとも仲がよかった。


 彼の前には、作りかけのスープが火にかけられている。




「お嬢様? おはようございます、朝食にはまだまだ早いですよ」


「あら、まだそんな時間なのね。水を飲みにきたのだけれど」




 コップを手に取り、外から汲んできた飲み水を注ぐ。


 そして口に含み――




(う、何よこの味)




 強烈なえぐみを感じて、リーゼロットは思わず排水溝に吐き出した。




「げほっ、ごほっ……こ、これどうなってるのよ、調理長!」




 反射的に怒鳴りつけるリーゼロット。


 だがそこに、調理長の姿はなかった。


 いや、それ以外にも仕事をしていた調理員がいたはずだが、彼らもいない。


 だが料理は火にかけられたままで、鍋の中ではスープがぐつぐつと煮立っていた。




「……調理長? おかしいわね、さっきまでそこにいたはずなのに」




 首をかしげながら、台所をあとにするリーゼロット。


 その後、彼女はまばたきをすると、次の瞬間にはメイドたちの控え室の前にいた。


 先日の騒動があってから、メイドたちとはあまり話をしていない。


 彼女たちから今のリーゼロットはかなり評判が悪く、集団退職するのではないか――などという噂まで立つ始末だ。


 メイドたちに気を使うわけではない、が……今はできるだけ穏やかな気持ちで、深呼吸を挟んでからドアをノックする。




「はーい、どなたですかー?」


「あなたたち、もう起きてる?」




 一瞬の静寂。


 朝っぱらからのヒステリーお嬢様の襲来に、おそらく「うげ」という表情をしているのだろう。


 しかし逆らうわけにもいかず、ゆっくりと、内側から扉は開かれる。




「お嬢様、何の御用でしょうか……?」




 メイドたちはすでに正装に着替えていた。


 目が合う。


 中にいるのは四人か――一人足りないようだが、おそらく何らかの当番なのだろう。


 リーゼロットは調理長の行方を聞くべく、口を開こうとした。


 まばたきをする。


 メイドたちの姿が消える。




「……あら? おかしいわね、みんなどこにいったの?」




 さすがに異様だ。


 リーゼロットは部屋に足を踏み入れ、周囲を見回すも、隠れているわけでもなさそうだ。


 だが、唯一床に、メイドが履いていた靴が残されている。


 拾い上げると、とても重かった。


 当然だ、中身が入っているのだから。


 ひっくり返すと、残された足がぼとりと落ちた。


 リーゼロットの視線がそれを負う。


 綺麗な断面から、じわりと血がにじみ、床を汚す。




「おかしいわねえ、どうなっているのかしら」




 気にせず、リーゼロットは別の部屋へ。


 屋敷中、全てを回る。


 けれどどこに行っても、働く人の姿は一瞬しか見えなくて、まばたきすると消えてしまう。


 どれだけ探しても、どれだけ追っても、見つからない。




「おかしいわねえ。みんなクリスの真似事でもしているの? よくないわ、規範となるべきクリスが逃げるからこうなるのよ」


「……っ、ふ……っ!」


「あとはどこにいるのかしら。まだ、一人ほど足りない気がするのだけれど」


「ひっ……ひっ、ぅ、あ……!」


「あら、あなた、そこにいたのね。私に口答えをした、生意気なメイドさん」


「ひっ、ひいいぃぃいっ!」




 最後に一人残されたメイドは、リーゼロットから必死に逃げる。


 足がもつれ、転んで、四つん這いになりながら、廊下を駆けた。




「逃げなくていいのよ、何も怖くないわ。ほら見て、私ってまともでしょう? なのにみんな、私のことを嫌うの。おかしいじゃない」


「来るなっ、来るな化物おぉおおおっ!」


「ひどいことを言うのね。どうして私が化物なの?」


「やだ……やだっ、私は食べられたくないっ! こんなところで死にたくないぃっ!」


「何を言っているのかしら、死なないわよ。いくら私でも、人の命を奪ったりは――」




 まばたき。


 視界の明滅。




「いやあぁぁぁああああああッ!」




 少女の叫び声――そして、壁が崩れる音。




「……?」




 リーゼロットの意識が戻ると、目の前にいたはずのメイドがいなくなっていた。


 けれど先ほどまでと違って、景色に変化がある。


 壁が壊れている。


 そして、そこから出てきてはならないはずの“両親”――その“母親側の首”が、じっと睨みつけている。




「お母様。ああ、お母様。ついにその部屋から、出てしまったのですか」




 凍りつくような無感情の声で、リーゼロットはそう言って――再度、まばたき。




 ◇◇◇




 気づけばメイドは、暖かいがごわごわとした毛の下敷きになっていた。




(これ、どうなったの? 私、生きてる?)




 戸惑いの中、“匂い”で彼女は気づく。


 ここは、リーゼロットの両親の部屋と言われていた場所だ。


 おそらく、あの二つ首の犬がメイドを助けてくれたのだろう。




「グルルルル――ガアァァッ!」


「いけませんよ、お母様。どうして止めてくれなかったんです、お父様。その部屋からは出てはいけないと、“誓った”はずですのに」




 リーゼロットの声が聞こえる。


 一方で、“犬”の後ろ足は、ぐいぐいとメイドの少女を自分の体の後ろ側へと押し出していた。


 そして顔だけが、下敷きから脱出する。


 メイドが「ぷはっ!」と顔を出すと、そこには板で封じられた窓があった。


 打ち付けられた釘は錆びている。


 その気になれば、簡単に壊すことができるだろう。




(逃げろって言ってるの……? 前のときもそうだった。魔物なのに、私を食べるどころか、お嬢様からかくまってくれて……そのあとも、優しく外に逃してくれた)




 魔物の正体はまだわからない。


 当然だ、彼女は魔薬の存在すら知らないのだから。


 だが、ついさっき、メイドは見てしまった。


 リーゼロットが異形の怪物となり、仲間を食らうところを。


 すぐに人の形に戻ったが、彼女は“まばたき”をするたびに、その姿になって命を貪った。


 それは意思などない、ただの人喰いの怪物――




(調理長さんは言っていた。昔はお嬢様もあんなじゃなかった、って。変わってしまったのは……何か、別のものが原因なの? 人を魔物に変えるような何かが。だとすれば、この二つ首の犬は……)




 長年姿を見せていない、リーゼロットの父と母。


 その成れの果てというのだろうか。


 そして彼らは娘の変貌を嘆き、少しでも犯す罪を減らそうと、メイドを逃がそうとしている。




「い、いけませんわ。いけません。ま、ま、まちが、ががっ、ている。おとさま、おか……おかさ、まちが、クリスっ、おお、あ、クリス、クリス、クリスぅぅぅううううッ!」




 ブシャァッ――と、血肉が弾けるような音がした。


 リーゼロットが化物に変わる合図だ。


 まるで蛹が孵化するように、背中がパクリと割れて、そこから新たな“体”が出てくる。


 もはやリーゼロットの肉体は付属品。


 出てきたのは、まるで卵から出たばかりのような、爬虫類を思わせる巨大な頭部――


 両親の下から這い出たメイドは、その音を聞いて、窓に打ち付けられた板を全力で外しにかかる。




「グルウゥゥゥウウウッ!」


「いけない、いけない、いけない、いけない、まちが、って、る、るるるる――」


「グガアァァァアアアッ!」




 巨大な犬が、前に飛び出す。


 容赦なく、その牙でリーゼロットに食らいついた。


 そのまま食いちぎろうと、犬歯を食い込ませて、頭を左右に振りたくる。


 その衝撃に、屋敷全体が揺れる。


 メイドは転びそうになりながらも、板の排除に成功。


 古びた鍵を開き、二階の窓から、意を決して飛び降りた。


 その直後――ズドォンッ! と火球が屋敷の壁を吹き飛ばす。


 火の玉は空の彼方まで飛翔し、天を薄く覆っていた雲を引き裂いた。




「いつつつ……」




 半ば落ちるように着地したメイドだが、下が柔らかい土だったので助かった。


 彼女は尻もちをつきながら、破壊された二階の様子を伺う。


 壊れた壁から赤い何かが飛び散って、べちゃりと真横に落ちた。


 肉片に、白い毛が付着している。




「うひっ……こ、これって……」




 頭上からは、「グギャアァァッ!」と苦しげな叫び声が聞こえてくる。


 おそらく、口の中に咥えられた状態で、火球を吐き出したのだろう。


 リーゼロットの両親が今、どういう状態なのか――あまり想像したくはなかった。


 だが声が聞こえているということは、まだ生きている。


 身を挺して逃げろと言われているのだ。


 この惨劇を知る唯一の生存者になれ、と。


 だからメイドはすぐに立ち上がり、走った。


 そして屋敷の敷地を出て、町の通りに差し掛かったところで、さらに大きな音が鳴り響く。


 メイドのみならず、町の人々もその音に気づき、ビクッと震えて一斉にそちらを向いた。


 建物が崩壊する。


 舞い上がる灰色の煙の中で、大きな影がうごめく。


 バサァッ、とそいつは翼を広げ、生じた風で煙を吹き飛ばした。




「……ドラゴン、だ」




 メイドはつぶやく。


 それはリーゼロットなのだろうか。


 面影のなさに、それを判別することすらできないが――どこか気品のある美しさを兼ね備えていた。


 もっとも、まだ“完成”には程遠いらしく、ゾンビのように所々の皮膚が破れ、肉が剥き出しになっていたが。


 だが、仮にあれが本当にリーゼロットなのだとしたら。


 宿す魔力は、指一本で山を吹き飛ばすという、規格外のもの。


 町の人々が驚き、動けずにいる中、メイドは建物の影に隠れながら走った。


 そのとき――ドラゴンは、息を吸い込むような仕草を見せた。


 狙いは、メイドたちのいる町のど真ん中。


 そして吐き出そうとした瞬間、足元で踏みつけられていたリーゼロットの両親が動く。


 すでに一方の首――母親側は千切れていたが、なおも父親は賢明に娘を止めるべく、その首筋に食らいついた。


 無論、比較(・・)して脆弱な牙では肉を裂くことは叶わず、わずかに狙いを逸らすのみに留まる。


 その直後、嵐球が射出される。


 渦巻く風は触れるもの――否、触れずとも近くに存在するもの全てを切り裂き、塵へと変える。


 ヒュオオォォ、とそよ風が吹くかのような音とともに、直進する球体。


 高すぎる威力ゆえに、抵抗が意味をなさず、音が生じないのだ。


 だからそれはとにかく静かに、射線上に存在する物体を、地形を、そして命を削り取っていった。


 結果、遠く――遠く――どこまでも遠く、地の果てまで続く“一本道”が生まれる。


 後に地図にも残るであろうその傷跡は、大陸の果て、海まで続いたという。


 もちろん、その場にいる人間から見えはしない。


 しかし、驚異を理解するには、見える範囲だけで十分だった。




「あれは化物だ……私が思っているより、ずっと化物だ……」




 恐れ慄く。


 例外なく、その場にいた全ての人間が。


 そして本能が叫ぶ。


 とにかく遠くに逃げろ――と。




「う……う、うわあぁぁぁああっ!」




 メイドは走った。


 ドラゴンは足元に絡みつく犬の怪物を疎ましく思ってか、そちらの相手に集中する。


 それが自分の親だとも知らずに、リーゼロットは肉を、命を食らう。


 巨大な魔物同士の戦いに、しかしメイドは振り向くこと無く、ただただ離れることだけを考えた。


 体力が限界を迎えても、足が悲鳴をあげても、日が暮れても――ひたすら走り続ける。




 ◇◇◇




 気づけば、リーゼロットは廃墟と化した屋敷の前にいた。


 いや、もはやそれを廃墟と認識することすら難しいほど、完全に潰れてしまっている。


 街のほうはまだかろうじて建物の形を残していたが、人の気配はない。


 代わりに、無数の死体が転がっている。




「何が……起きたの……?」




 呆然と立ち尽くすリーゼロット。


 そんな彼女の足元に、人の頭部が転がってくる。


 大好きな母親だった。




「おかあ……さま?」




 近くには、父親の首も転がっている。


 リーゼロットは頭を抱え、膝をついた。


 長い髪をかき乱しながら、目を見開き、取り乱す。




「あ……あぁ、あああぁああ! 夢よ、こんなの……悪い夢だわ。早く目覚めてよぉ! そ、そうだ、クリス! クリスが起こしてくれるはずよっ!」




 もちろんクリスの名前を呼んでも、悪夢が覚めることはない。


 これは現実。


 だから彼女がここに助けにきたりもしない。


 代わりに――ミーシャの形をした誰かが、リーゼロットを背後から抱きしめた。




「あ――」


「リーゼロット、あなたは素敵です」


「ミ、ミーシャ……」


「まだ未完成なのに、ここまでの力を発揮してくれるなんて。私の理想通りじゃないですか」


「何を……言って、いるの……?」


「ですがあと少し、調整が必要ですね」




 二人の会話は噛み合わない。


 なぜならミーシャは、リーゼロットにこれっぽっちも興味を示していないからだ。


 ミーシャが見ているものは、その体に宿る魔力だけだった。




「行きましょう、リーゼロットさん。あと少しです。あと少しで、あなたは完成する」


「いや……」


「ん?」


「いやだ……だって、そうなったら、私もう、クリスに会えなく――」




 恐怖からか、わずかに正気に戻るリーゼロット。




「心配ありませんよ」




 少しだけ驚いたミーシャだったが、彼女の耳に口を寄せ、優しく囁いた。




「どうせ、みんな死ぬんですから」




 そして闇が二人を包み込み――その場から姿を消した。


 残されたのは、大量の瓦礫と、大勢の死体だけ。


 かつてクリスとリーゼロットが幸せに暮らした田舎町の面影は、もはやどこにも残っていなかった。




 ◇◇◇




 少女は走る。


 途中からは、走っているつもりでも、歩きと変わらないようなスピードになっていたけど、それでも止まらずに進み続けて。


 気づけば、知らない場所にいた。


 かろうじて馬車が一台通れるかという広さの、小さな道。


 左右には森、空には月。


 振り向いても、もうあの化物たちの姿は見えない。




「は……あ、あぁ……」




 足が止まる。


 一度、正気を取り戻してしまうと、もう動けなかった。


 足はとうに限界を越えている。


 へたり込むように、木の幹を背もたれにして座る。


 悲鳴をあげる肺に、一時の休息を与える。




「はぁ……はぁ……はぁ……」




 瞳を閉じ、胸に手を当て、肩を上下させ、メイドの少女は呼吸を整える。


 同時に、脳内を整理し、心も整えようとしたが、そちらはまったく落ち着いてくれなかった。




(何だったの……? 一体、何が起きたっていうの……? 旦那様と奥様は犬の化物になって、お嬢様はドラゴンになって……どうなってるの? 誰か、助けて。クリスさん……)




 思い出す姿は、やはり想い人で。


 しかし同時に、クリスがここにいなくてよかった、とも思う。


 いくら彼女でも、あのリーゼロットと戦うのは不可能だから。




「はぁ……っく、ふぅ……はぁ……」




 気を抜くと、意識が飛びそうになるほど疲労感。


 疲れは癒やしたいが、それは避けなければ。


 いくら人の通りがある場所とはいえ、今はもう夜。


 完全に獣の時間だ。


 眠れば間違いなく助からないだろう。


 いや、眠らずとも――




「グルウゥゥゥ……」




 ガサッ、と落ち葉を踏む軽い音。


 そして喉を鳴らすような声。


 それが複数、彼女に近づいていた。




(あぁ……やばい、囲まれてる。足、全然動かないし、もうダメだ。私、死んだ……)




 夜に紛れ、犬型魔物たちの目が妖しく光る。


 闇の向こうに薄っすらと見える痩せこけた野犬たちは、口の端から涎を垂らしながら、じりじりとこちらとの距離を縮めていた。




(やだな……死にたくないなぁ……せっかく【賢者】の家で働けて、あとは人生うまくいくと思ったのに。こんなの聞いてないよ。誰か……お願い、クリスさんが一番だけど、もう誰でもいいから、私を――)




 飛びかかれる距離まで来ると、魔物たちは一旦足を止めた。


 そして、両足にぐっと力を込めて――




(私を、助けてっ!)




 群れは、一斉に飛びかかる。


 少女はぎゅっと目を閉じる。


 同時に諦めた。


 ああ、もう死ぬんだ――と。


 だがいつまでも痛みはやってこない。




「シシシ、こんナ女の子に寄ってたカッテ……躾がナッテないネェ!」




 聞こえてきたのは、独特のイントネーションをした声だった。


 恐る恐る目をあけると、巨大な斧を持った女性が立っている。


 襲いかかろうとしていた犬の魔物たちは、ただの肉片となって地面に転がっていた。




「あ……あ、あ……助かったあぁ……」




 涙目になりながら、こてんと地面に倒れ込むメイド。


 キルリスはそんな彼女に近づくと、しゃがみこんで顔を覗き込む。




「大丈夫カ? こんな時間ニ女の子が一人デ出歩くナンテ、自殺行為ダゾ?」


「ありがとうぅ……でも、こうしないと死んでたから……」


「物騒ダなァ。見たところ、メイドか?」


「はい、【賢者】リーゼロットのお屋敷で働いてたんです」


「オオ、ならクリスの同僚カ!」


「クリスさんを知ってるんです――あいたたたた……っ!」




 興奮のあまり起き上がろうとしたメイドだったが、足の疲れもあって不発に終わる。




「オウ、知ってるゾ。つい昨日マデ一緒にいたカラな。何なら連絡だって取れるゾ」


「本当ですか! あぁ、神様ありがとうございますぅ……こんな幸運があるなんてぇ……!」


「んじゃ早速連絡ヲ……って、ン?」


「どうかしました?」


「すマン、何か端末が壊れテル。困ッタな……いつダ? 戦ってる間カ?」




 顎に手を当て、考え込むキルリス。


 冒険者証代わりの通信端末は、そう簡単に壊れるものではない。


 何せ、戦闘に耐えうるだけの強度が必要になるのだから。




「マ、イッカ。とりあえズ、安全なトコまで移動するゾ。よット」


「うひゃっ!? まさかのお姫様抱っこですか……」


「これガ一番持ちやスイからナ」


「恥ずかしいですが、助かります。あなたのお名前を聞いてもいいですか?」


「あたしはキルリス・アングラッジ」


「キルリスさん、ですね。ちょっとクリスさんに似てますね」


「言われてミルとそうかもナ。シシ、ちょっとうれしいイナ」


「……うれしい?」




 彼女は怪訝そうな表情でキルリスを見た。


 わずかなライバルオーラを感じ取ったのかもしれない。


 だが一方のキルリスは、マイペースに彼女を抱えたまま歩く。




「デ、あんたの名前ハ?」


「私は――」




 メイドは少し考え込んだ。


 ただの自己紹介だ、名乗るぐらい大したことないはずだ。


 だが彼女には事情があった。


 長らく、名だけを使い、姓を名乗っていなかったのだ。


 兄との確執だったり、和解だったり、和解したからと言って職場で改めて姓を使うのもおかしくないか、という葛藤だったり――そんな事情である。


 だが屋敷を出た今、もう彼女はリーゼロットのメイドではない。




「カウリィ・リンベリーです」




 少しの間を置いて、久しぶりにそう名乗るカウリィ。




「シシッ、焦らすカラ変な名前かと思えば、いい名前じゃネェか。よろしくな、カウリィ」




 それを聞いて、キルリスは人懐こく笑った。




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[良い点] 41/41 ・新たな恋の予感。リスと牛かな? [気になる点] そろそろ山場でしょうか。ドラゴンはヤバそう。 [一言] ぎゃぁぁぁぁぁ!! 貴重なマスコットになんて事を!?!?!?
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