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040 惨劇を越えて

 



「元々、僕とリーゼロットはすごく仲が悪かったんだ。というより、僕が一方的に彼女を憎んでいたと言うべきだけど」




 僕は目を伏せ、当時を想起する。


 要するに、今とは真逆の関係だ。


 リーゼロットは僕にすがり、僕はそんな彼女を振り払う。


 それを二年もの間、毎日のように繰り返していた。




「今のクリスさんからは全然想像できません……」




 キャミィは戸惑いながらそう言った。




「そうだね。こんな話をしながらも、昔の僕のことを思い出すと、まるで自分の記憶じゃないみたいだ」


「逆よ。薬が原因なら、今のあなたがあなたじゃないの」


「……かもね」




 ヴァイオラの言葉を、僕は否定できない。


 少なくとも、僕がリーゼロットに誓う“忠誠心”は、おそらく作られたものだ。


 僕の中にいる、僕ではない誰かによって。




「リーゼロットは僕と仲直りしようと、色んな方法を試していた。お菓子を作ってみたり、手紙を書いてみたり。そのたびに僕は、彼女を拒絶してきた」


「じゃあ、元は仲がよかったんですか?」


「うん。幼馴染として、六歳ぐらいまではいつも一緒に遊んでたよ。けど……彼女の両親と、僕の両親の間で色々あったんだ。結果、父と母の仲が悪くなってね。父は僕に暴力を振るうようになって……まあ、言ってしまえば、その八つ当たりだったってことだよ」




 リーゼロットの両親が決めたことで、僕の父は仕事を失った。


 貴族と平民ではあったけど、お互いに友人関係にあった両者。


 だからこそ、僕の両親は裏切られたような気持ちになって、あの家の人間を憎んで。


 僕も、日に日に荒んでいく家庭環境の原因を、気づけばリーゼロットに押し付けていた。




「そんなある日、リーゼロットは僕と話のきっかけを作るために、クッキーを焼いてきた。それ自体はいつものことで。いつも通りなら、僕はそれを、彼女の目の前で捨てるはずだった」


「食いもんハ粗末にスルな」


「耳が痛いよ。でもその日は、たまたま僕と会えなくてね、彼女は家のポストにお菓子を入れて帰ったんだ。リーゼロットがいないのなら、捨てる姿を見せつける必要もない――そう思って、僕は家に戻ってそれを食べた。両親も珍しく、一枚ずつ口に運んだ」




 こうして話してみると、どうして忘れていたのか不思議なほど、記憶は鮮明に残っていた。


 昨日までと違う自分。


 生まれ変わった?


 いや、作り変えられたんだ。




「次の日、僕はリーゼロットに謝った。地面に額を擦り付けて、今までの行いの全てを懺悔し、許しを請うた。今までの自分が生きてきたことを、心の底から嫌悪した。まさに生まれ変わった気分だったんだ」


「……そのクッキーに、薬が入っていたんですね」


「たぶん、そうだと思う」




 変わった瞬間、変わってしまった僕は、それを祝福した。


 しかし以前の僕はどうだったろうか。


 胸の奥底に押し込められた君は、今も涙を流して、『ここから出してくれ』と叫んでいるのか。


 それとも、いつの間にか今の僕と混ざりあったんだろうか。


 だから、僕はあの屋敷から出ようと――




「そのとき、リーゼロットさんはどんな反応を?」




 当時、土下座をした僕は、顔を上げて、リーゼロットの様子を伺った。


 彼女は、とても印象的な表情をしていた。




「青ざめていたよ。『取り返しのつかないことをしてしまった』と、後悔するみたいに」




 こんなことになるはずじゃなかった、そう思っていたんだろう。


 誰だってそうだ。


 相手の心を自在に操れる薬なんて、存在すると思うはずがない。




「思えば……彼女が【暗殺者】である僕を執事として雇ってくれたのは、そのときの罪悪感があったからなのかもしれない」


「そんなことがあったなんて……リーゼロットさんも、そこまでするつもりはなかったんですね」


「つマリ、心を操ル薬トハ知らなかったワケだナ」


「まだ僕らは八歳の子供だった。作れるはずもないし、たぶん誰かに貰ったんだろうね」


「あなたの両親も一緒にそのクッキーを食べたのね」


「そうだよ。だから両親も、昨日までとは打って変わって、リーゼロットの家を崇めるようになった。皮肉だよね、おかげでうちの家族はまた仲良くなれたんだから」




 思わず半笑いになる。


 誰一人としてまともじゃない――作り物もいいところだ。


 あちらの両親からしてみれば、下手に憎まれるより、こちらのほうがよほど堪えた(・・・)のだろう。


 半ば強引に仕事を作り、僕の両親はまた仕事を手に入れて、経済状況も改善された。


 結果として、リーゼロットの作ったクッキーは全てを救ったわけだけど、それを彼女が受け入れられるはずもなかった。


 それからずっと、彼女は僕に対して申し訳無さそうに、苦しそうに接するようになった。


 義務感。


 それはたぶん、愛情から最もかけ離れた感情だった。


 けれど僕は歓喜する。


 自分が変わり果てたことも知らずに。




「それから五年後、啓示の日を迎え、僕は執事になった。リーゼロットと、彼女の両親が変わったのは、数ヶ月のことだ。今までの優しい領主ではなく、傍若無人で、我儘で、理不尽に喚き散らす暴君になった」


「ひどい話だ……薬を作った人間は、人の心を何だと思ってるんだ!」




 ニール先生が憤る。


 人の心を診てきた医者だ、今の話に思うところがあったんだろうか。




「もうめちゃくちゃです。クリスさんの周りの人たち、みんな薬のせいで歪められてるじゃないですか……」




 キャミィは俯きながら、辛そうに言った。


 他人事だというのに、自分のことのように悲しんでくれるのは、正直嬉しい。


 一方でヴァイオラは、相変わらず落ち着いた様子で質問を続ける。




「クリス、今ご両親はどうしてるの?」


「僕の両親のことなら、自殺に見せかけリーゼロットに殺されたよ。彼女の親は、豹変してから一年後ぐらいから、部屋に閉じこもって顔も見せなくなった」


「本当に散々ね……でも解せないわ。黒の王蛇は、どうしてそこまでして賢者リーゼロットの周囲を狙ったのかしら。最初にクリスが狙われたのも理解できない」




 それは僕も疑問に思っていた。


 いや――そもそも“誰かを狙って”行われたことなのだろうか。




「黒の王蛇は関係ナイと思うゾ」


「キルリス、どうしてそう思うの? あの薬を作ったのは黒の王蛇のはずよね」


「ソレはわからナイ。広めたノガ黒の王蛇ってダケで、扱い始めたノハ、“あたしが知る限リ”では三年前ダ」


「じゃあ、作った人間は別にいるってこと?」


「ソレも知らン。ダガ、クリスが最初に使われたノハ十年前。その当時から薬を持ってたトハ考えニクい」




 可能性と考えられるのは――薬を生み出した何者かが、黒の王蛇に売り込んだ、とか。


 十年前の僕や、五年前のリーゼロットが薬を使われたのは、その個人だった可能性がある。




「それにナ、あたしはボスが、あンナ薬に自分で手を出スとは思えねえンダ」


「黒の王蛇のボスって誰なんですか?」


「ヴェルガドーレっていうおっさんよ。マフィアのボスなんて、状況が変われば簡単に手のひらを返すわ」


「あの人はソンナんじゃネエ、悪人とシテのプライドがあッタ!」


「過大評価ね、所詮は悪人よ」


「お前に何ガわかル」


「現実を見てみなさいよ、マリストール家を歪めたのはあんたのボスよ?」


「そりゃソウだが、知ったふうな顔シテ語るのが気に食わネエ」


「何よ、ここでやるの?」


「あわわわわっ、お、落ち着いてください二人ともっ! クリスさんも止めてくださいよぉ!」




 正直、僕はどちらの意見にも賛同しかねた。


 キルリスは何だかんだいって、筋は通すタイプの人間だ。


 ヴェルガドーレは、そんな彼女が認めた黒の王蛇の首領なんだろう。


 そのような男が、簡単に矜持を曲げるとは思えない。


 だが一方で、マリストール家に取り入り、この領内に薬を広めているのもまた事実。


 彼自身が、薬を使われている可能性もある。


 しかし、これだけの巨大傭兵団のトップともなれば、かなりの実力者のはず。


 ランクSS、ひょっとすると、兵士が数万人、束になってもかなわない、ランクSSSの可能性すらあるだろう。


 そんな人間相手に、そう簡単に薬など使えるだろうか。




「どちらにしたって、ヴァイオラの知ってる工場を叩けばはっきりすると思う」




 考えたところで、答えなどでない。


 リーゼロットのことだってそうだ。


 この忠誠心は偽りかもしれない。


 けれど確かに胸にある。


 それに――彼女が大切な幼馴染だという事実は、たとえ薬でも歪めることはできなくて。


 だから、前に進む。


 それ以外、僕らに方法などないのだ。




「そうね……さすがに工場を潰されれば、さらに上の幹部も出てくるでしょう。直接聞けばはっきりするわね」


「ヴァイオラ、その工場とヤラは、セントラルマリスの近くカ?」


「ええ、目立たないように少しは離れてるけど、ほぼ中央よ」


「だとスルと、本部も近いナ。非常事態なら、ボス本人ヲ炙り出せるカモしれナイ」


「工場を潰して、治す方法が見つかって、はいおしまい――なんて簡単に行くはずないもの。どちらにしても黒の王蛇とはぶつかることになる」


「ドーセ正攻法じゃ会えないンだ、上の連中を薙ぎ払ウつもりデやらせてモラウ」




 キルリスはもう、黒の王蛇という組織に未練などないだろう。


 仲間の死が彼女に落とした影は、相手の死でのみ払うことができる。




「あの、クリスさんっ! 私もそれ、ついていっていいでしょうか!」


「キャミィ……危険な旅になるよ。今回より、恐ろしい怪物が出てくるかもしれない」




 ミーシャと戦う前なら、一緒に旅をしてもいいと思えたかもしれない。


 だがあんな驚異を知ってしまった今、守り切る自信などなかった。




「ですが、私にもやれることは、あると思うんです。その……リー君! そうだ、リー君、戻ってきたんですよ! どさくさに紛れて逃げてたみたいで。だから、足になれます。あと【商人】のスキルで値切ったり、交渉でも役に立ちますし!」


「どうするのよ、クリス」


「その……たぶん私、嫌って言ってもついていきます。それぐらい、気持ちは決まってます」


「……この子、かなり強情よ」


「わかってる。僕としても、キャミィが一緒に来てくれるのは嬉しくないわけじゃないんだけど……」




 キャミィもまた、クリスたちと同じだけの戦う理由がある。


 違いは、力の有無だ。


 しかし、【商人】としてのスキルが役立つこともあることは間違いない。




「僕が、これ以上は無理だと思ったら、引き返してくれる?」


「状況によりますが、諦めるしかないと思ったら、そうします」




 なかなか諦めそうにない顔をしている。


 それだけ、決意は硬いということか。


 なら、僕がどう言ったって無駄なんだろう。




「じゃあ……キャミィ、これからもよろしく」




 僕がそう言って、握手をすべく手を差し出す。


 すると目をキラキラと輝かせたキャミィは、両手をがばっと広げたまま僕に突進してきた。


 そのまま力いっぱい抱きつく。




「ありがとうございますっ! やっぱりクリスさん大好きですーっ!」


「暑苦しいわね……」


「シシシ、ムードメーカーってやつダナ」


「ま、これで四人旅になるってことね。多すぎず少なすぎずでちょうどいいんじゃない」




 リザード車にも乗れるし、目立つ人数でもないだろう。


 そう思っていると、キルリスが少し気まずそうに言った。




「アー……言ってなカッタな。あたしは別行動スルぞ」


「は?」


「え、ええっ、キルリスさん一緒に行かないんですか!?」


「キルリス、どうして……」


「寂しガッテくれルのは嬉しいガ、あたしにハあたしにシカできないコトがあると思ってナ。ミーシャとやりアッテわかったンダ、戦力不足だッテ」




 あまりに的確な事実で、何も言えない。


 もし黒の王蛇が、魔物を組織的に運用しはじめたら、四人だけじゃ絶対に勝てないだろう。




「今回の一件ハ、大きなニュースにナルだろウ。薬の危険性ガ内部に広まれバ、組織内の味方も増エル。あたしはそういう連中ヲ引き入れテ、工場ヲ攻めるタメの戦力にシたい」


「そうねえ……戦えるのが私とクリスとキルリスだけとなると、心もとないのは確かだわ」


「工場の場所ダケ教えてクレ。こっちハ頭数が揃い次第、連絡して合流スル」




 ヴァイオラはキルリスを信用しているか――なんて、今さら考えることでもない。


 素直に情報のやり取りと、連絡先の交換を終える二人。


 彼女たちのやり取りを、僕がじーっとみていると、キルリスはこちらを見て意地悪そうに「シシッ」と笑う。




「見捨てラレた子犬みテェな顔だナ、クリス」


「そ、そんな顔してた!?」


「おうヨ、母性がくすぐらレルってヤツだな。かわいかったゼ?」


「私としたことが見逃してしまいました……クリスさん、もう一度その顔をお願いしてもいいですか!?」


「いや、そもそもしてないから……」


「シシシッ、顔が赤いゾ?」




 キルリスは犬歯を見せ笑いながら僕に近づく。


 ここを発つ前に、ここぞとばかりに僕をからかうつもりだな。


 ふてくされるようにそっぽを向くと、彼女はわざわざそちらに回り込んで、さらに顔を近づけた。


 そして、ゼロ距離。




「んっ!?」


「んふふ……ごちそうサマ」


「あーっ! キルリスさんまたやりやがりましたね!? 次は私ですクリスさん! んーっ! んーっ!」




 唇を尖らせたキャミィが迫る。


 僕は全力でその顔を止めた。




「さっきはされるがままだったくせに、何で私にはゆるじでくれないんですかあぁぁぁぁあっ!」


「何となく、キャミィにそういうことしたら既成事実にされそうで……」


「シシッ、クリスはキャミィよりあたしノガ好きラシイぞ?」


「むっきいぃぃぃぃぃいぃーっ!」


「……こんなときに元気ねぇ、あんたら」




 呆れるヴァイオラ。




「これがキャミィさんの良いところですよ」




 ニール先生もフォローしながらも、苦笑いしていた。


 そんなやり取りが収まると、キルリスは「さてと」と僕らに背中を向けた。


 そして壁に立て掛けた斧と、少量の荷物が入った袋を担ぎ、出口に向かう。




「もう行くの?」


「クリスと違ッテ、あたしはもう回復してルからナ。猶予はあまり無イ。可能な限リ、早く動きテェんだヨ」


「そっか……わかった。キルリス、セントラルマリスでまた会おう」


「大軍団を引き連れて加勢してくれるの、期待してるわよ」


「キルリスさんがいない間に、私、必ずクリスさんの唇をゲェットしてみせますからねぇっ!」


「シシシシッ! ああ、色んな意味で楽シミにシテるヨ。じゃあナ!」




 軽く手を上げて、診療所を去っていくキルリス。


 彼女はそのまま、振り向くことなく遠ざかっていき、街の出口のほうへと消えていった。


 その後ろ姿を見ていると、やはり寂しさを感じる。


 今生の別れというわけでもないだろうに。




 ◇◇◇




 その後、僕らも出発の準備を整えるため、診療所を後にすることにした。


 フィスさんや生き残った冒険者、住民たちに挨拶も済ませた。


 すでに魔薬がその原因であることは知れ渡っている。


 だが、ミーシャが犯人だとは、冒険者以外には伏せてある。


 今後も、あの診療所に彼女は残るのだ、それがいいだろう。


 冒険者たちは、自分たちが黒の王蛇に従っていたこともあって、ミーシャを責める者はいなかった。


 そして、街の復興を手伝えないことを謝罪すると、むしろ『私たちの代わりに倒してきてくれ』と背中を押された。


 物資まで分けてもらうことができた。


 頭が上がらない。


 戦いが終わった暁には、必ずお礼をするために戻ってこよう。


 そう心に誓うのだった。




 ◇◇◇




 挨拶や準備を終えて、僕は一旦、避難所へ戻ってきた。


 ヴァイオラやキャミィには、まだ体の調子が戻っていないことは伝えている。


 今日一日だけここに留まり、明日の朝、出発する手はずになっていた。


 避難所には、ヴァイオラもキャミィもいない。


 ヴァイオラは別れが惜しいのか、診療所に泊まるつもりのようだ。


 キャミィは外で、生き残ったリザードの体をいたわっている。


 いくら無事だったとはいえ、やはり怪我はしていたようなので、【光使い】のレナに治療もお願いするつもりらしい。


 僕は体を休めるため、壁に背中を預ける。


 そして借りた裁縫道具を取り出し、破れた執事服の補修を始める。


 応急処置にはなるけれど、魔石を練り込んだ糸によるコーティングは、それ以外の部分もカバーしてくれる。


 ある程度の穴なら、普通の糸で補修しても、防御力が落ちることはないのだ。


 僕が作業に没頭していると前方から、子供が近づいてきた。




「あ、あのぉ、お姉さん、クリスっていうんだよね?」




 少女と僕は、顔見知りですらなかった。


 避難所で戦う中で、一瞬だけその姿を見た気はするけれど、言葉を交わすのはこれが初めてだ。


 彼女は、僕が上着を脱いでいるせいか、少し恥ずかしそうにしている。


 けれどその視線は、なぜかお腹のあたりを向いているような――そこには色気の欠片もない腹筋しかないんだけど。




「そうだけど、君は?」


「斧を背負ったお姉ちゃんから、メモを渡してほしいって頼まれたんだ。これ、ちゃんと読んでね!」




 そう言って、四つ折りにされた髪を渡すと、駆け足で去っていった。


 僕はメモに目を通す。


 そこにはキルリスらしい、よく言うとワイルドな文字で、こう書かれていた。




『ニールって医者には気をつけろ。検査薬なんてもの、黒の王蛇でも見たことがない。素人が作れるとは思えない、怪しい』




 ニール先生が、怪しい?


 確かにあの検査薬はとても便利だ。


 だけどそれは、彼が二年近く薬と向き合ってきたからこそ作れたもの。


 黒の王蛇でも、せいぜい三年程度しか研究を進めていないのだ。


 とある分野において、先生のほうが優れた知識を持っていても、違和感はないと思うのだけれど――




「あ、クリスさーん!」




 と、そのとき――ちょうどニール先生が、僕のいる避難所に顔を出した。


 あまりのタイミングの良さに、少し驚く。


 彼がこちらに駆け寄ってきたので、僕は執事服を横に置いて立ち上がる。




「先生、こんな時間にどうしたんです?」


「はぁ……はぁ……明日の朝には出発するんですよね。その前に、お話しておきたいことがありまして」


「重要なことですか?」


「……ええ」




 先生はどこか気まずそうに言った。




「実は、先ほど診療所でお話していたときなんですが……キルリスさん、でしたか。あの方が、僕をずっと見ていましてね」


「そうでしたっけ?」


「ああいうものは、本人でないとわからないものです。あれは怪しんでいる目でしたね」




 彼の言葉は、キルリスのメモと一致する。


 気づかなかったけれど、よほど殺気の籠もった視線を先生に向けていたに違いない。




「それで思ったんです……やはり、ごまかしきれないものだな、と」


「誤魔化す? 先生が、一体何を誤魔化すっていうんです」


「僕の本名は、ニールなどではありません。偽名だったんですよ」


「どうしてそんなものを使ってるんですか?」




 先生は間に深呼吸を挟み、意を決して答えた。




「本当の名前はフレップ・リンベリー。かつて黒の王蛇に所属していた、研究者です。魔薬の研究にも、数ヶ月ですが関わっていました」


「え……先生が、黒の王蛇にっ!?」




 さすがにこれには驚かずにいられない。


 僕は特に怪しんでいなかっただけに、なおさらだ。




「では、今は組織を抜けて、ここで暮らしているということですか?」


「そのために名前を変えて、顔も変えました。キャミィさんのご両親と出会ったのもその頃ですね。ちょうど四年前になりますか」


「キルリスは同じ組織に所属していたから、先生のことに気づいたんですね……」


「“匂い”がしたんでしょうね。本能的な感覚に優れた方のようですから。ですので、もしキルリスさんとまた会うようなことがあったら……このことを、伝えてもらえないでしょうか」


「いいんですか? 一応、彼女はまだ黒の王蛇の一員ですが」


「構いません。クリスさんが信用しているということは、キルリスさんも信用できる、ということでしょうから」




 脱走者を見つけたら、黒の王蛇のような組織は、全力で彼を消そうとするだろう。




「まあ、かっこつけたことを言ってますけど、要するに恐ろしくなった、というだけですけどね。下手に嘘がバレるより、自分で言ってしまったほうが、キルリスさんから殺されずに済みそうなので……」




 頬を引きつらせながら、先生はそう言った。


 あれだけ巨大な斧を持ち歩き、他の人とは違う目をしたキルリス――まあ、普通の人は一緒にいるだけで恐ろしく思うだろう。


 いつの間にか、僕は慣れてしまったけれど。




「ということで、私がお伝えしたかったことは、それだけです。夜遅くにお邪魔して申し訳ありません」




 そう言って、ニール先生は申し訳無さそうに避難所を立ち去る。


 あの先生が、黒の王蛇の研究員だったなんて。


 これで、少なくともあの組織が四年前には、すでに魔薬の研究を始めていたことがわかったわけだ。


 そして表に出てきたのが三年前だとすると、キルリスの情報とも一致する。


 先生がこの街で、薬に冒された人の治療をしているのは……やっぱり、過去を悔やんでいるからなんだろうか。


 僕は再び執事服と針を手にすると、ぼんやりと、この街で出会った人々のことを考えていた。




 ◇◇◇




 翌朝、出発の時。


 僕とヴァイオラは、キャミィが運転するリザード車に乗り、街の出口にいた。


 生き残ったほぼ全員が、見送りに来てくれている。




「クリス。マリストール領内のギルドには、情報を共有したわ。声をかければ協力してくれるはずよ。これぐらいしかできなくてごめんね」


「フィスさん、ありがとうございます。巻き込んでしまったのはこちらなのに」


「何度も言わせないで。薬の蔓延を止められなかったのは、こちらの落ち度よ。あなたが謝ることなんてないの」


「……はい」


「あとキャミィちゃん、ちゃんと元気に戻ってくるのよ? あなたはこの街の代表として付いていくんだから」


「どんと任せてください! 必ずクリスさんと結ばれて戻ってきますから!」


「期待してるのはそこじゃないっての……」




 フィスさんとキャミィのやり取りに、街の人々がゲラゲラと笑う。


 送り迎えは明るく、しかしその後ろでは滅びた街の光景が寂しく広がる。




「戻ってきた頃には、少しはマシになってると思うから。そっちも楽しみにしててね」


「ええ、必ず見に来ます」


「……クリス。あまりプレッシャーをかけるのは良くないと思うけど……絶対に、勝ってね。あんなふざけた薬、二度と出てこなくなるように、黒の王蛇を徹底的に潰してきて! これは、生き残った私たちの総意よ!」




 胸に手を当て、死者に想いを馳せながら、強い口調でフィスさんは言った。


 僕もその言葉を噛み締め、ブレることない心で答える。




「はい、それは僕の願いでもありますから。どんな手段を使ってでも、元凶を叩いてみせます」




 その言葉で、少しは街の人々を安心させることができただろうか。


 フィスさんはふっと顔から力を抜いて、一転して穏やかな表情になると、別れの言葉を告げる。




「ありがとう……いってらっしゃい。クリス、キャミィ、ヴァイオラ」




 街の人々も、「いってらっしゃい」、「必ず帰ってこいよ」、「復興した街で待っているから」と、温かい言葉をかけてくれる。


 その声を背に、別れに涙を流すキャミィが鞭を振ると、リザードは走り出す。


 ほんの数日の出来事だけれど、僕はこの街で起きたことを忘れないだろう。


 そして今日の悲劇を、いつかの笑顔へと繋げられるように――仲間とともに、次の戦いへと身を投じる。


 目指すはセントラルマリス。


 この悪意の、中枢だ。




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― 新着の感想 ―
[一言] キルリス!あんたの事「姉さん」て呼ばせてくれ!
2020/08/22 10:26 レアハンター
[良い点] 40/40 ・うーん、なんでしょうね。クリスさん、今が幸せならいいんじゃないですか? [気になる点] キルリス、あの、アレだ。後半ピンチに駆けつける奴。(そして死亡率高そう) [一言] …
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