036 欲望は嘘をつけない
巨人が地表を踏み鳴らし、地下の空洞が揺れるたび、キャミィは頭をかばい「ひいぃっ!」と怯えた声をあげた。
彼女は目を覚ましてから間もなく、一緒にいた宿の主人から事情を聞いた。
ヴァイオラは体を起こしはしたものの、壁に背中をあずけ、うつろな瞳で天井を眺めている。
パラパラと小石が落ちる。
幸い、この空間はそれなりに頑丈らしいので、今のところ自然崩落の危険性はなさそうだ。
おそらくキルリスが魔法で固めているのだろう。
それでも、直接上に乗られたり、魔法の爆発に巻き込まれれば無事では済まないだろうが。
「う、ううぅ……ティンマリスは……どうなったんでしょうか……」
「……」
「クリスさんやキルリスさんは、無事なんでしょうか……」
「……」
どれだけキャミィが口を開こうが、ヴァイオラは無言を貫く。
特に誰に話しかけているわけでもない。
だが、宿屋の主人はまったく事情を知らずに混乱しっぱなしで、答えられないのも仕方がないだろう。
つまり自ずと相手はヴァイオラになるわけだが――今の彼女に返事を求めるのは酷というものだ。
(どうしたら正しかったのかしら)
それはいくら考えても答えの出ない無限迷宮。
迷えば迷うほど暗く、深い場所に堕ちていく。
正しさとは。
過ちとは。
悪とは、善とは――
(あのときミーシャを殺していたら私は後悔した。ミーシャを殺さなかったら後悔した。自分が死ぬのも本当は嫌だ、だから死を後悔する。救おうとしたところで、私は旦那様や奥様から捨てられる。それも嫌だ。どれならいいという話じゃない。どれも等しく辛い。どれを選んでも、私にとっては後悔しか残らない)
等しき幸福が目の前に並んだとき、人は選べない。
等しき不幸が目の前に並んだときも、人は選べない。
時間切れを望むことも等しく苦しく。
けれど等しいのなら、何もしないでいいだけそれが一番楽なのかもしれない。
ヴァイオラはそう思った。
だから何もかもを考えずに、このまま終わってしまえばいいと思ったのだ。
(どうせミーシャが死ねば私は死ぬわ。そう、死ねるの。あの子がいない世界に価値なんてないから)
でもそれは、相手がジョシュア・マリストールでも、ミレイユ・マリストールでも変わらないだろう。
全てを守りたかった。
一つでも欠けてはいけなかった。
そう望むことが間違いだったのだろうか。
けれど望まなければ今のヴァイオラはいない。
わからない。わからない。どれだけ悩んでも、答えなど見つかりっこない。
妥協も無意味、諦観も鎮痛薬になりえない。
「リーくんもどこに行ったかわからなくて。みんな死んでしまって。お父さんやお母さんも、死んじゃったかもしれません。ニールせんせーだけでも無事だと嬉しいです……」
懲りずに話し続けるキャミィ。
もっとも、返事がないからといって、癇癪を起こしたりはしない。
ただ、無音が怖かった。
音のないこの薄暗い空間に、怪物の足音だけが、ずしん、ずしんと響く。
それが恐ろしくてしょうがないから、絶え間なく口を動かしてごまかしているのだ。
それでも、音が聞こえてくれば、体は勝手にすくんで声をあげてしまうのだが。
「っ、う、うぅ……どうして、どうしてこんなことに……私たちが、何をしたっていうんでしょう……」
「……そんなもんなんじゃないの」
ヴァイオラはようやく言葉を発した。
けだるげに、冷たく。
狂っていたように笑う彼女の姿はもうない。
全ての狂気を吐き出し、空っぽになってしまったかのように落ち着いていた。
「何をしたって、何もしなくたって、どちらがいい結果にたどり着くかなんて誰もわからない。だから無意味なのよ、そんな言葉で自分を責めてみたって」
「だったらどうしたらいいんですか……? 相手が形もなく姿も見えない“理不尽”だって言うんなら、私の気持ちはどこにぶつけたらいいんです!?」
「あはは……この街を訪れてしまった私たちに対して――なんてどう?」
「それを言ったら、クリスさんや私が、ミーシャを殺そうとするあなたを止めようとしたことも、責められるべきじゃないですか」
「そうねぇ……でも私にそのつもりはないから。だから無意味なのよ、考えたって、何もかも」
「私は、そうかもしれません。考えたって、何もできることはありませんから。考えるだけドツボにはまるだけです。無意味なことをしてるってわかってます」
キャミィは魔法使いですらない、ただの【商人】。
その言葉に、常人より重い意味をもたせるスキルはあっても、怪物には意味がない。
戦いにおいては、どこまでも無力だ。
「だけど、ヴァイオラさんは違うんじゃないですか?」
「何が違うっていうのよ」
「力があります。逃げるばかりではなく、自分がやりたいことを選べます」
「選んだって無意味だわ、行き着く先は同じ奈落よ」
「可能性は、ゼロじゃないです。だってミーシャは……どんな姿であれ、まだ生きてるんですから」
「希望を抱くには、その灯火は少し小さすぎやしないかしら。どうやるっていうのよ。あんな怪物になったミーシャを、どうしたら元に戻せるっていうの?」
「わかりません」
「でしょう?」
「ですが、夢を見ることはできませんか」
「それはあなただって同じよ。ご両親、薬に頭をヤラれてるんでしょう? もしミーシャを人に戻す方法があるのなら、キャミィの両親だって戻す方法があるかもしれない。でもそんなものは、夢や希望にも満たない塵のようなもので――」
キャミィはその言葉に割り込み、かぶせ気味に言った。
「私の場合、戻したって、別に幸せになるわけじゃありませんから。同じではないですよ」
「……本当の両親なんでしょう?」
「仲、悪かったんで。戻したいとは思いますけど、正直、戻してどうなるのかってところもあるんです。お世辞にも立派な人間とは言えませんでしたから」
「……」
「でもヴァイオラさんは違います」
「違わないわよ」
「違うんです。たとえ夢物語だったとしても、そこには明るい未来があるじゃないですか」
「……だから、違うのよ。だって、今の明るいミーシャは薬で作られた人格でしかないんだもの」
「だったらなおさら、元に戻す方法を探すべきです!」
「その結果、私のことが好きじゃなくなったら?」
「薬の影響を受けるより前から、ヴァイオラさんはミーシャと一緒にいるんですよね?」
二人は姉妹のように育ってきた。
ミーシャは非常に内向的な子で、滅多に口も開かなかったが、ずっとヴァイオラにくっついていた。
それは、紛れもない事実であり、薬で冒すことのできない思い出だ。
「だったら、ミーシャがヴァイオラさんを好きって気持ちに、薬なんて関係ありません」
「ん……」
「そしてヴァイオラさんも、ミーシャのことが好きなはずです」
「……そりゃあね」
「だったら!」
「やりたいことを選んで、ヒーローみたいにミーシャと戦ってこい、って?」
ヴァイオラは大きくため息をつくと、苛立たしげに地面に爪を突き立てる。
キャミィに対する怒りではない。
この状況に対する負の感情が、虚ろの皮を剥がされて、表に出てきてしまっただけのこと。
「あのね、キャミィ。私って、すごく気持ち悪い人間なのよ」
「急に何を……」
「一応、言い訳をしておくけど、優先順位として、一番上にあるのは『守りたい』とか『家族愛』みたいなものなの。ただね、同時に、私はミーシャのこと愛しているわ」
「わかってます」
「何もわかっちゃいない。愛してるのよ?」
懺悔するようにヴァイオラは語る。
「まだ幼いあの子を、私は本気で。唇を奪いたいと思っている。押し倒して抱きたいと思っている。欲望が、劣情が、本気で胸の中に渦巻いてるの」
それはいくら拒もうが、無限に湧き続ける感情だった。
理性で止められるものではなかった。
「そこまで……好きなんですね。でもきっと、ミーシャは拒まないと思います」
ミーシャがヴァイオラに向ける好意は、明らかに従者に対するそれではない。
友情を越えて、姉妹を越えて、恋愛の域まで達している。
しかしヴァイオラは首を振り、否定する。
「どうかしら。今のミーシャは拒まなくても、元に戻ってしまったら? 私のこの想いは、薬で作られたミーシャ相手だからこそ成立するのかもしれない」
そう言って、彼女は自嘲するように薄ら笑いを浮かべた。
「ふふっ。ね? ほら、気持ち悪いでしょう?」
「私だってクリスさんに恋をしています!」
「年齢だって近いじゃない」
「好きな気持ちに年齢なんて関係ありません!」
「私はそうは思わない。思わないくせに、止められない。しかも、そんな浅ましい欲望のために、以前の暗いミーシャに戻ってほしくないと思ったこともある。最低でしょう? でもどうしようもないのよ。望んでしまうの、私がどう思うと構わずに!」
好きな気持ちに年齢なんて関係ない。
恋は価値観すらも乗り越えて。
だからこそ、ヴァイオラは苦しむ。
妹として、主としてそばに居続けた相手に、そんな下劣な感情を抱いてしまうことを。
「それは……それは、価値観の問題だから、ヴァイオラさんが受け入れるしかありませんけど……」
「そうね。言っても困らせるだけよね」
「ですが、ミーシャの気持ちに関しては、さっき言ったとおりです。薬は本心まで変えられない。ミーシャは、最初からそういう意味で、ヴァイオラさんのことが好きだったはずです」
「そうね……そうだったら、嬉しいわ」
そう簡単にいくのなら――おそらくヴァイオラは、とっくに我慢しきれずに、ミーシャを押し倒していただろう。
しばしヴァイオラの葛藤はあるだろうが、じきに幸せにそれも塗りつぶされる。
二人の恋は成就する。
ハッピーエンド。
けれど現実はもっと面倒で。
ヴァイオラが苦しむ理由は複雑で、絡み合っていて。
二人の感情だけで完結するのなら、どれだけ楽だったか。
「まあ、だとしても――結局ね、私とミーシャって、どうあっても結ばれるはずがないの」
「どうしてそうなるんですか! 二人が想い合ってるなら!」
「だってあの子は、マリストール家の一人娘なんですもの」
一人の人間である以前に、貴族の娘。
しかも、マリストール家には他に子供がいない。
そんなミーシャには、背負わなければならない役目があった。
「もうとっくに、縁談の話だって出てきている年頃よ。マリストール家の将来のために、私なんかにうつつを抜かす暇なはないのよ」
ミーシャの従者であると同時に、ジョシュアやミレイユの従者でもあるヴァイオラ。
立場はわきまえている。
主が“家族”として扱ってくれるせいで、少しばかりその境界線は揺らいでいるが、それでも執事としての本懐は忘れない。
「二人で旅に出たときも、『駆け落ちみたい』なんて少しだけ期待して。でも、私にはできない。だってそれは、旦那様や奥様に対する裏切りでもあるんだから」
「そんなの簡単です。裏切っちゃえばいいんですよ」
「簡単に言うわね」
「だって、とっくにヴァイオラさんは裏切られてます。たとえそれが薬のせいだったとしても、破綻した主従関係に従い続けたら、今度はヴァイオラさんが壊れるだけです!」
ミーシャを殺せ、なんて命令――本来のジョシュアが出すはずがない。
ましてやそれを、姉妹同然に育ってきたヴァイオラに命じるなんて、あってはならないのことなのだ。
ヴァイオラは従順であることこそ、執事としての美徳だと考える。
同時に無責任な思考放棄こそが、自分の心を守るための最善の手段だと思った。
それは間違いじゃない。
抗うのは、とても苦しく辛いことだから。
だが――それは絶望の中での最善でしかない。
堕ちきった奈落の底で、横たわりながら瞳を閉じただけだ。
本当は心のどこかで、天を見上げて、かつて自分がいたその場所を懐かしむ気持ちだってあるくせに。
「自分がやりたいようにやってください、お願いします」
キャミィはそう言って、頭を下げた。
意味のわからないその行動に、思わずヴァイオラは肩を震わせる。
「あははっ……よく考えてみたら、私がどうなろうとキャミィには関係ないじゃない」
「そのとおりです」
「どうしてあなたが、頭を下げてまで私に頼むの?」
「みんなが諦めたら、辛いからです。私は立てません、力がないから。だから、別の力がある誰かが頑張る姿を見て、励まされたいと思いました」
「自分勝手すぎるわ」
「はい、自分勝手です。自己中心です。だからお願いします――どうか、ミーシャを救うことを諦めないでくれませんか」
キャミィは絶望している。
もはや街は破壊しつくされているだろうし、クリスだって生きて戻ってくるか怪しいものだ。
ニール先生は、診療所は、両親は――どれだけ不安でも、無力だから、ここから動くことはできない。
心が絶望に塗りつぶされる。
頭の中が真っ黒な何かでいっぱいになる。
それが怖くて、怖くて――それは問題の先延ばしに過ぎないのかもしれないけれど――せめて今だけは希望を見たいと思った。
「ほんと……こんなときもマイペースなのね、呆れるわ」
ヴァイオラの言うとおり、呆れるような理屈だ。
けれど、ヴァイオラはきっと、こうでもして、他者の想いで背中を押さなければ、その場を動こうとはしなかっただろう。
「どうせ、何をしても変わらないんだもの。それがキャミィの救いになるって言うんなら、そうしてもいいのかもしれないわ」
ゆっくりと立ち上がる。
キャミィの表情に、久しぶりの笑顔が浮かんだ。
「ありがとうございますっ!」
「お礼を言うのも変だと思うけど」
「無茶なことを言ってる自覚はあるんです。ヴァイオラさんが苦しんでいる気持ちも、少しは理解してるつもりですから」
誰もが大切なものを失っている。
誰もが薬に苦しめられている。
クリスもキルリスもヴァイオラもキャミィも、それはみな同じことだった。
「……オ?」
外に向かおうとするヴァイオラ。
そんな彼女の前に、戦いですっかり汚れたキルリスが立ちはだかった。
「ンだよ、まだ寝てタラ蹴飛ばしテモ連れて行こうと思ってたノニ」
「キルリス、あなたどうして……」
「クリスからのご指名ダ。呼ばれテルぞ」
ここで、クリスがヴァイオラをわざわざ呼ぶ意味は――
胸が高鳴り、体が熱くなる。
ヴァイオラは、『もしかしたら』と浅ましく期待してしまう自分を恥じながらも、高揚を止められなかった。
「ミーシャを、助けられるの?」
「可能性が出てキタ。だから早く行ケ」
助けても無駄だとか、何を選んでも同じだとか、変に達観していたくせに。
いざ助けられると聞くと、喜ばずにはいられない。
諦めておいて。
殺そうとしておいて。
馬鹿馬鹿しい。
助けられたとして、どうするつもりなんだ。
ミーシャは殺そうとした自分のことを、それでも嫌いにならないと――そういう打算をしてる?
ああ、きっとそうだろう、ミーシャはヴァイオラを嫌うより先に、そうなった“理由”を探すだろう。
あるいは、怪物になって傷つけてしまった罪悪感と相殺して、あっさり赦すだろう。
そしてヴァイオラはそれを受け入れる。
罪悪感を抱いたような顔をして。
最低だ、最悪だ、大嫌いだ。
けれど――どれだけ嫌っても、本心は偽ることができない。
どれだけ理屈をこねても、願望は一点に収束する。
『ミーシャを助けて、薬からも解き放って、恋人になりたい』
『旦那様と奥様も無事で、元に戻ってほしい』
『そしてその恋を許されたまま、またあのお屋敷で一緒に暮らしたい――』
結局は、それが全て。
だからヴァイオラは走った。
「ミーシャ……っ!」
地上に向かって。
再び、ミーシャの手を握るために。
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