028 私たちの赤い糸
キルリスと別れた僕は、真っ直ぐに宿に戻り――その建物の前で足を止めた。
そして二階を見上げる。
僕らが泊まっている部屋は、表ではなく裏側にある。
だからここからは見えないのだけれど、わずかに――嫌な音が聞こえた。
「……っ、ふ……め……て……っ」
苦しげに呻くような声。
そして発せられる、絡みつくような殺意。
狂的、かつ当事者には隠すつもりがない。
だからここまで届いた。
宿に入る。
受付のおばちゃんが笑顔で僕を迎えようとしたけれど――ごめんなさい、今はそんな暇がない。
駆け出し、階段の前へ。
壁を蹴って一気に二階に移動。
廊下を走り抜けると、感じた気配を頼りに、部屋の扉を蹴飛ばしまずは牽制――
「っ!?」
犯人は反射的に腕で顔を守り、飛んできた扉を防ぐ。
魔力障壁ゆえにダメージはなし。
しかし、気をそらすことには成功した。
「チィッ!」
その女――ヴァイオラは、舌打ちをして僕を睨みつける。
彼女の体の下にはミーシャの姿があった。
その首には赤い跡がついており、苦しげに咳き込んでいる。
どうして――どうしてヴァイオラが、ミーシャを殺すような真似を?
疑問はある。
だが考えている暇がない。
キャミィは、止めようとして振り払われたのか、部屋の隅に転がっていた。
二人とも生きている。
ならばまず最優先すべきは、ヴァイオラへの対処。
彼女は僕を一瞬で敵とみなすと、指を動かし糸を差し向ける。
しかし――たとえ見えなかったとしても、スピード面において【闇使い】が【暗殺者】に勝てる道理はない。
近接戦闘ならなおさらに。
まずは迫る糸をギリギリまで引き寄せ、わずかな空気の動きを肌が察すると同時に、横に飛んで回避。
糸は背後にあった壁を軽々と切断する。
僕は飛びながら風刃飛魚でナイフを投擲。
スキルを使用した投擲は、普通に投げるよりも動作が素早く、正確だ。
ヴァイオラが残りの糸でその刃を絡め取り、防ごうとする。
そのときにはすでに、僕は次のスキル発動が可能な状態にある。
続けざまに[ブリッツアサルト]で彼女に接近する。
ヴァイオラの対応はワンテンポ遅れ、僕は一手分だけ優位に立つ。
懐に入り込んでの風刃痛打――殺すなら切り伏せるべきだが、今はそのときじゃあない。
だから彼女を吹き飛ばす。
「ぐ、があぁっ!」
体をくの字に曲げ、苦しげな表情で窓ガラスに突っ込むヴァイオラ。
すると彼女はとっさに糸を伸ばし、僕の腕に絡めた。
ヴァイオラは割れた窓から外に落下する。
僕も糸に引っ張られ、外へと導かれる。
このまま踏ん張ってもいいけど、この糸の鋭利さ――どこまで執事服が耐えられるかわからない。
おとなしく、割れた窓からヴァイオラを追う。
「クリス……さんっ……」
「く、あ……はぁ……」
キャミィと、先ほどの風に巻き込まれ床に落ちたミーシャは苦しげだった。
だが今は、死ななかっただけよかったと思おう。
◇◇◇
地面に降り立つと、僕はヴァイオラの糸を振りほどいた。
一方で彼女は、苦しげに腹部を抑えながら、ゆらりと立ち上がる。
「……」
暗闇の中、街灯がヴァイオラの姿を淡く照らしていた。
彼女は静かに、鋭い目つきで僕を見つめた。
先ほどとは違い、“睨む”と言うには少し弱々しい。
ミーシャ殺害に失敗したことが、彼女の心にダメージを与えたのだろうか。
「どうしてあんなことしたのか、聞いてもいい?」
「クリスならわかってるんじゃない」
心当たりは、ある。
ただ、あまり信じたくないだけで。
僕はちらりと、二階の割れた窓を見た。
心配そうなキャミィと目があう。
ミーシャはいない――なら言ってしまってもいいか。
「ジョッシュ・マリストールからの通話。あれで、ミーシャを殺せって指示されたんだね」
「ふふっ、やっぱり聞こえてたのね。この地獄耳」
「聞こえてなかったよ。今日の行動を見てつながっただけで」
それらしき単語は耳にした気がする。
けれど僕は意識的に、その可能性を排除した。
だって、ヴァイオラがそれを実行に移すとは思いたくなかったから。
ましてや、まともに悩みもせず、今日すぐに動くとは――
「だったらこれ以上の言葉は無意味ね。私はマリストール家の執事として、任務を遂行する義務がある」
次は、僕が殺意を向けられる番だった。
ミーシャを殺すためならば、周囲を敵に回しても構わない――それは破滅的な行為だ。
きっとそういうことなんだろう。
彼女がミーシャを殺すということは、自分自身を殺すことに等しいのだから。
「ミーシャもマリストールの人間じゃないの?」
「優先すべきは旦那様の言葉よ」
「人間なら、個人的な情に揺らいだって間違いじゃない!」
「旦那様は私の父親なの! 私にとっては、ミーシャと同じぐらい大切なのよッ!」
ヴァイオラが右手を振るう。
僕はとっさに後ろに跳ぶと、足元の地面が斬りつけられた。
続けて左手――次は横に跳ぶ。
「あんたの相手は楽ね!」
着地点の地面が黒くどろりと溶けた。
ゾクッ――全身に寒気が走り、本能が危険を察知する。
闇魔法か。
彼女は先日戦ったとき、魔法を一度だって使わなかった。
本気を出すつもりはない――そういう意思表示だったのだろう。
「ふんッ!」
「どこに投げてんのよっ!」
投擲――壁に突き刺さると、巻き取られるワイヤーに僕の体は引き寄せられる。
「小癪な道具を使ってッ!」
「同じ人間に師事したんだ、予想は付いたんじゃない!? はあぁぁぁあっ!」
風刃針鼠。
壁に張り付いた体勢から、ナイフを大量に投げつける。
糸による迎撃は難しい。
僕と同じ逃げ方をするのなら、その先を狙い撃ちにする。
さあ、ヴァイオラはどの手段を選ぶ?
「あんたとは――覚悟が違うのよ!」
彼女は両手を体の前で重ねた。
グローブから伸びる糸が薄っすらと赤く光り、真っ直ぐに伸びる――まるで銃身のように。
あの糸は魔石を使ったもの。
自らの魔力と反応させることで、形状を固定することもできるのか。
「[ブラックホールシューティング]ッ!」
「っ!?」
放たれたのは、人一人を飲み込むほどの黒い球体。
ヴァイオラの使った[ブラックホールシューティング]は、闇の最上位魔法だ。
キルリスにしてもそうだけど、二人とも魔法使いとして十分に一流じゃあないか。
しかし最上位魔法はそれだけ制御が難しい。
あの銃身がなければ、おそらくうまく狙いを定めることができないのだろう。
弾速は早く、またたく間に僕の眼前に迫る。
しかし動きが直線的ならば避けられる。
壁を蹴って範囲外に――触れた建物はジュワッと溶ける。
しかし僕の体が中に浮いた途端、背中をぐいっと引っ張られた。
糸の力……いや、球体が僕を引き寄せている?
「ブラックホールからは逃げられないわ! そして魔力障壁無しのあんたじゃ、触れただけで全身が溶けるでしょうねぇ!」
ヴァイオラの額には汗が浮かぶ。
最上位魔法だけあって、放つのにそれなりの負担があるのだろうか。
しかし相手の心配をしている場合ではない。
黒球は通り過ぎてくれればいいものを、先ほどまで僕がいた場所にとどまっている。
まるで世界の栓を抜いたかのように、見境なく、木造の建物も石造りの家も吸い込んでいく。
何が何でも僕を引きずり込んで飲み込むつもりだ。
「はあぁぁぁぁああああッ!」
空中で前に進む方法なんて一つしかない。
ひたすらに[ブリッツアサルト]を繰り返す。
連続使用にともなう肉体への負担は目をつぶる。
何度も何度も前に進む。
そのたびにブラックホールがまた元の場所に戻す。
無理なスキル使用により、足の筋がブチッと断たれる音がした。
走る激痛。
まだ許容範囲内だ。
ブラックホールに込められた魔力は有限、その証拠に少しずつ小さくなっている。
だからいつか終わる、耐え続けていれば――
「ふうぅ……もういっぱぁつ……!」
呼吸を整えたヴァイオラが僕に、再び糸で作られた銃身を向けた。
あんなものを二連発? これで勝負が付かなければ魔力が枯渇するかもしれないっていうのに!
やけっぱちか。それともまだ魔力に余裕がある? ヴァイオラはそこまで優れた魔法使いなのか?
「ブラックホォォル……シューティィィィィングッ!」
渦巻く魔力が、まるで夜の闇を吸い込むように肥大化し、球体となって僕に放たれる。
ドゥンッ! と射出された反動で、ヴァイオラの体は軽く後ろに吹き飛んだ。
一発目は今なお顕在。
しかし最初ほどの力はなく、ひとまずこちらの危機は去ったと考えていいだろう。
だが僕の体はなおも空中にあり、両足で踏ん張ることはできない。
ワイヤー付きナイフの引き寄せる力じゃ逃げられない。
スキルの連続使用も、脚部への負担が大きすぎる。
どのタイミングで千切れ飛んで、使用不可能に陥るかわからない。
要するに――もう受け止めるしか選択肢はないわけだ。
「はぁ……はぁ……魔法使いですらない相手に、大技二連発とか大人気なくてごめんね。私も、余裕ないのよ」
勝手に謝ってくれてさあ。
僕だって、ここで大人らしく潔く諦めてハイ負けましたなんて認めるわけにはいかないッ!
近づく黒球。込められた魔力は一発目と遜色ない。
けれど僕は、一度すでにそれを見ている。
そして、キルリスのおかげで、他者の魔法にも自分の技が通用することを知っている。
相手が味方か敵かという違いはあれど、魔法は魔法。
目を凝らせば、魔力の流れは確かにそこにあり、見える以上は引き裂くことも可能。
行けるか――行けないか――考えている暇はない。
やるんだ。
リーゼロットのためにこの生命を使い果たすためには、こんな無関係な場所で死んでいられないのだから。
ナイフを構え、目前に迫る黒球へと突き刺す。
「フェイタル――エンドォッ!」
スキルを使用し、一気に線と点を破壊。
魔法は術者によって与えられた形を失い、均衡を崩す。
めちゃくちゃになった魔力に刃を引っ掛けて――
「嘘。私の魔法が止まってる……?」
「くっ、ぐぉぉぉおおおおッ!」
跳ね返せればと思ったけど、それは無理だ。
ナイフを握る両腕から、さっきの足と同じようにブチブチと音がする。
内出血によるものか、腕に青黒い斑点が生じている。
骨もミシミシと軋む――折れてしまえば支えることもできない。
「おぉおおおおおおッ!」
倒すことを考えるな。
必要なのは、この攻撃から生き残ることだ。
軌道を変える――魔法を逸らす――それだけでいい。
相手も消耗している。
生き残れば反撃はできる。
覚悟だかなんだか知らないが、それが執事として胸に抱くべき“忠誠”だというのなら、僕のリーゼロットに対するそれは、ヴァイオラに負けたりなんかしないッ!
「おおぉりゃぁぁぁぁああああああッ!」
ひときわ大きく叫び、投げ捨てるように武器を振り切った。
ヒュゴォッ――ブラックホールは僕の横を掠めて通り過ぎ、闇夜の彼方へと消えていく。
僕は着地すると、思わず膝をついた。
うまく立てるはずだったんだけど――まずいな、思った以上に体へのダメージが大きい。
けど――
「……何よそれ、めちゃくちゃじゃない」
ヴァイオラは、自らの放った魔法が消えた空を見上げ、悲しげにつぶやく。
おそらくだけれど――ミーシャを殺す前からピンと張り詰めていた気持ちが、二発目を放った時点で切れてしまったのだろう。
それぐらい、ギリギリの葛藤が彼女にはあったのだ。
じゃなきゃ、あんなに『好き』を隠せないほど愛していた主の首を締めるなんてこと、できっこない。
「あーあ……やだやだ。何で、こんなことに……なっちゃったのかしら」
「はぁ……はぁ……ヴァイオラ……」
「言っとくけど私、やめるつもりはないから。ふぅ……ミーシャは殺すわ。止めたいなら、私を殺して」
「ミーシャの手を引いて逃げたらいいだけじゃないか。僕だって、手伝う」
「違うのよ。あなたはなんにもわかっていない」
「だったら、説明してくれないと……わからないものは、わからないままだ」
両手をだらんと垂らすヴァイオラ。
そこから戦意は感じられない。
ようやく本音を話してくれるのか。
キャミィもここに口出しはできないと思ったのか、宿屋の二階から、じっとその様子を眺めていた。
「あなたには話したわよね、ミーシャのこと。以前はとても暗くて、口数も少なかったって」
「聞いたね。ご両親が変わり、屋敷が暗くなってしまったから、少しでも明るくなるよう、自分自身も変わったんだって」
「それね、私の妄想なのよ」
「一番近くにいたヴァイオラがそう思ってたんなら、一番真実に近い説なんじゃないかな」
「違うわ。私は最も有力な説を、わざと見ないようにしてた」
ヴァイオラは胸に手を当てると、ぎゅっと拳を握り、唇を噛んだ。
そして大きな深呼吸を挟んで、苦しげに吐き出す。
「ミーシャが変わったのは、薬のせい」
それは違う――そう反論しようとした。
けれど僕は言えなかった。
納得してしまったからだ。
以前の説明では、性格だけならまだしも、病弱だった彼女が元気になった理由が見つからないのだから。
「性格が明るくなったのも、体が健康になったのも、私に前よりたくさんの好意を示してくれるようになったのも、全部薬を飲まされたから。私たちの赤い糸は作り物なの。そう考えたら――旦那様に従って、何もかもを、私の命ごと終わらせるのが正しいと思えたのよ」
言葉に込められた、あまりに大きな無力感。
僕はそこに立ち尽くし、ヴァイオラに何も言葉をかけられずにいた。
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