027 夜は日ごとに貌を変え
「ふぅー……ぜんぜんダメだナ!」
斧を手放し、地面に横たわるキルリス。
僕は、数多くの木々をなぎ倒した岩の塊を眺めながら言った。
「僕だって編みだすまでに何年もかけたんだから。そう簡単には身につかないよ」
キルリスが言っていた“話したいこと”とは、僕の技を教えてほしい、という話だった。
彼女は街中でその訓練を行おうとしていたけれど、さすがにそれはまずい、と一緒に近郊の森までやってきたのである。
グラードを倒したあの一撃は、彼女にかなりのインパクトを与えたらしい。
確かに僕もあれには驚いた。
元の魔力が高ければ、あそこまでの威力が出るのか、と。
それをキルリスが身につけることができれば、彼女は現状のランクS級から、一気にランクSSS並の実力を手に入れることになるだろう。
そういえばグラードを倒してからギルドには行ってないけど、僕のランクもまた上がっていたりするんだろうか。
「よっシ! もう一回ダ。クリス、補助を頼ム」
「わかった。あんまり無茶はしすぎないようにね」
「あたしハそんなにヤワじゃナイ」
僕はキルリスの背後から抱きつくように腕を支え、彼女を誘導する。
慣れない動きは、自分で想像する以上に体に負担を与えているもの。
昨日の消耗も残っているだろうし、あまり無理はしないでほしいのだけれど。
しかしキルリスというのは強情な性格をしているので、僕が言ってもやめてはくれない。
さすがに一日や二日で身につけられるはずもないし、仮に可能だったら、それはそれで僕が悲しい。
「ストーンスピア!」
キルリスの魔法で、空中に尖った岩が浮かぶ。
何度も繰り返して、彼女の魔法に宿る魔力の流れは、だいたい見えるようになった。
問題は、それがキルリスにまったく見えないことなのだけれど――
「んー……やっパ見えナイな」
「長年の修行を積んで初めて見えてくるものだと思うよ」
「ウーン……」
「そこで僕を見ても意味は無いと思うけど」
「……光ってルナ」
「何が?」
「目ダ、目。少しダケど、赤く光ってルゾ」
「本当に?」
「あたしはお前ニ嘘なんてツキたくナイ」
つかないではなく、つきたくないと来たか。
要するに、それは事実ということで。
「もしカシてクリス、あたしタチと違うモノが見えてルンじゃないカ?」
「魔力の流れがそうだってこと?」
「フツー、そんなモノは誰ニモ見えナイ。仮に修行の賜物ナラ、モット前に、誰カがその境地にたどり着いてルハズだ」
「じゃあ、僕が修行として瞑想とかしてたのは――」
「無意味だったのカモな」
「そ、そんな……」
もうかれこれ何年も瞑想を続けてきた。
一般的に、魔法使いは瞑想で魔力を高めることができるというけれど、物理職にはあまり意味がない。
けれど、魔力の流れを掴むのにこれが有効だと思っていたから、僕は続けていたわけで。
それが無駄ってことは……僕は、一体どれだけの時間を……。
「クリス、崩れ落チルほどショックだったノカ?」
「あの時間を別の訓練に回せてたらもっと強くなれてたのに……」
「イヤ、あたしも絶対ニ正しいカハわからないゾ? タダ、目が光っテルってダケで」
「うん……無駄じゃなければいいんだけど、仮にキルリスの想像通りだとしたら……この訓練を続けるのも不毛だね」
「ダナァ、あたしもガッカリだけド、体質の問題ナラ仕方ナイ。デモ、クリスと訓練デキたのは楽しかったゾ! マタやろうナ!」
「うん、それには僕も賛成。やっぱり強い相手と一緒のほうが伸びるからね」
「今度はテイリーたちも一緒でイイカ? あいつらもクリスとやりタがってルンダ」
「もちろんいいよ。ただし、勢い余って本気で殺し合いとかにはならないように気をつけてね」
「勢い余っタラ、止める自信はナイ」
「そこは一番大事だと思うよ、訓練だからさ」
「シシシッ、ジョーダンだ、ジョーダン。いつかハ本気で殺し合ウのも面白ソウだガ、今は一緒に楽しいコトをシたいからナ!」
キルリスは僕に腕を絡め、ぐいっと体を押し付けた。
あれだけ大きな斧を振り回しているくせに、彼女の体はとても柔らかい。
「こうシテ抱きつくト、クリスの体ハあんまりゴツゴツしてナいナ。やーらカクテ心地イイ」
どうやら彼女も同じことを考えているようだった。
光源は、木にかけられたランプのみ。
互いの姿が淡く、黄橙色の光に照らされる。
ロマンチックな雰囲気になりそうな場ではあるが――
「ふぁ~あ……」
キルリスのあくびで、そんな予感は吹き飛ばされた。
「何か急ニ眠くなってキタ。そろそろ帰るカ」
「ふふっ、そうだね」
あまり遅くなると、またキャミィたちを心配させてしまうだろう。
僕らは街に戻ると、すぐにそれぞれが宿とアジトの方に向かい、別れた。
しかしその直後、キルリスは、
「あ、忘れ物シタ」
と言って僕のほうを振り向くと、タタタと駆け寄ってきて、思考の間を与えないほど軽く、何気なく、僕の唇に自らの唇を重ねていった。
そしてくるりと踊るように踵を返すと、
「今度こそじゃーナー!」
手を振って、あっという間に夜の闇に消えていってしまった。
僕はその場で立ち止まり、人差し指で唇に触れる。
「少し、ガードが緩すぎるのかな……」
ヴァイオラの『まさか片っ端から女をたぶらかすような執事だったなんて』――そんな言葉が、脳の中で響いていた。
◆◆◆
クリスと別れ、アジトに戻ったキルリス。
彼女が玄関の扉を開くと、甘ったるい匂いが漂ってきた。
嗅いだ途端に、彼女のお腹がぐぅと鳴る。
夕飯はしっかり食べたが、そのあとにクリスとあれだけ運動したのだ。
腹が減ってしまってもしょうがない。
広間に出ると、ちょうどクラッツが、白いクリームがたっぷり塗られたケーキを手でつかみ、口に放り込もうとする瞬間だった。
すでにいくつも食べたあとなのか、口の周りにはべっとりとそのクリームが付いている。
他の仲間たちも同様に、どこから手に入れたケーキなのかは知らないが、キルリスを待たずに食べ始めていた。
「おかえりなさい、お頭」
「ただイマ、テイリー。お前らナー、そんなイイもんを手に入レタなら、あたしを待っててくれヨナー」
唇を尖らせながら、斧を横に置き、ぼふんとソファに腰掛けるキルリス。
しかしエテルードはお構いなしにケーキをかじる。
「だっておいらたち、お頭がいつ帰ってくるか知らなかったし」
「こんなウマそうなケーキがあるのに食べられないなんて、俺にとっては生殺しと同じ」
「ムー、エテルードとクラッツならソウ言うだろーナ。それでコレ、どっカラ手に入れたンダ?」
「ミーシャが……持ってきてくれた。宿に戻ったあと、みんなで作ったって……」
「ヘー、ミーシャ一人デカ?」
「ええ、一人でしたよ。ヴァイオラは近くに待機していたんでしょうね」
「フーン」
「お頭の分の皿も持ってきますね、待っててください」
「ああ、頼んだテイリー」
台所へ消えるテイリー。
キルリスはその間に、ミーシャが持ってきたというケーキを観察する。
すでに半分ほどなくなっているが、そのサイズはかなり大きい。
手作りっぽさはあるが、果物もふんだんに使われており、この数時間で作ったのだとすれば――
(用意がイイな。最初から予定してたノカ?)
そう思わざるを得ない出来だった。
もっとも、あそこにはヴァイオラという執事がいる。
執事というのは武術のみならず、料理も極めているものなので、ケーキ作りぐらいはお手の物だろう。
「ニャンデリィ、コレおいしかったカ?」
「うん、すごくおいしかった……味にコクがあって、ふふ、まるで血でも混ぜたみたいな……」
「シシシ、ソレはさすがにあたしデモ気持ち悪いナー」
そう言いながらも、キルリスは小さな口でパクパクと食べるニャンデリィを見て微笑む。
そしておもむろにポケットからハンカチを取り出すと、彼女の口元をぐりぐりと吹いた。
ニャンデリィは少し恥ずかしそうだが、しかしされるがままだ。
子供扱いされるのは嫌だが、キルリスとのスキンシップ自体は嫌いじゃない――そんな心境だろうか。
彼女たち五人は、まさしくファミリーだった。
常に一緒に行動し、寝食を共にし、互いに命を預けあう。
スラム出身の彼女らは、本当の家族というものを知らない。
誰一人として、顔も覚えていない。
だから唯一、家族と呼べる存在が、ここにいる五人だけなのだ――
「はぶっ、ふぶっ、ふんっ、ふごっ」
優しい表情でニャンデリィを眺めていたキルリスは、思わず噴き出すように笑った。
クラッツだ。
彼が大量の食べ物を口に含んで、まるで豚のような鳴き声を出しているのだ。
キルリスは苦笑しながらそちらに視線を向けると――
「ごりゅっ、ぶしゅっ、ふ、ぐっ、ぱきっ、じゅるっ」
クラッツは口と鼻から赤とピンクの混じった液体を逆流させながら、必死に何かを咀嚼していた。
そして、彼の隣に座るエテルードの首から上がない。
その断面から“ぶしゅっ”と血が噴き出し、その後は泥々と、湧き水のように血が流れて体を汚す。
やがてエテルードの赤い体はとうに力を失っていたが、絶妙なバランスで、まるで彼がまだ生きているかのようにそこに座っていた。
隣にいるクラッツも、表情だけはさっきまでと何ら変わりない。
ケーキを頬張るようにして、美味しそうに、幸せそうに、仲間の頭部を咀嚼する。
わずかに開いた唇の隙間から、桃色の頭の中身や、骨片、噛み砕けなかったエテルードの歯が、ぼろぼろとこぼれだして、クラッツの胸元を汚していた。
その場にいる誰もが――何が起きているのか理解できない。
クラッツを除いて、時間が止まったかのように固まっている。
「すいませんお頭、小さいフォークが無かったんでこっちで――」
そこにテイリーが戻ってくる。
それが、時が動き出す合図だった。
「クラッツ……あ、危ない、お頭ッ!」
クラッツの頭部は肥大を始めていた。
より多くの獲物を食らう魔物と化すために、胴体の機能を捨てて“頭だけ”の生命体へと変わろうとしていたのだ。
唇は裂け、大きく開いた口から長い長い舌が何本も伸び、キルリスを捕らえようとしていた。
テイリーは手をかざして、魔法で妨害しようとしたが――何かに気づき、それを諦め、お頭に向かって飛びこむ。
ソファに座る彼女を突き飛ばすと、彼の体はクラッツの舌に巻き取られ、引きずられる。
「テイリィィィィィィッ!」
我に返ったキルリスは、斧を掴み魔法を発動させようとしたが、テイリーはそれを拒むように首を横に振った。
「逃げてください、お頭。どうやら、僕もとっくに――ぐ、あ、グアアアァァァアァッ!」
彼のその苦悶は、足を噛み砕かれた痛みのせいだけではない。
頭部の変形――テイリーもまた、人外への変貌を始めていたからだ。
どうして――何でこんなことが――キルリスがそれを理解するよりも早く、事態は進む。
助けたい。
助けたい。
けど、もう間に合わない――状況の理解は追いつかないくせに、それだけははっきりとわかってしまう。
涙が浮かぶ。
それが頬を伝う暇すらなく、キルリスはニャンデリィの手を引いてアジトの外へと走り出す。
「ちくショウッ! ちくショオォォォォウッ!」
理不尽に吼え、走る。
憤怒を吐き出し、駆ける。
キルリスは追ってくるクラッツの舌に、岩片を突き刺しながら逃げ続けた。
だがアジトから出たところで――ニャンデリィが足を止める。
「ドウしたニャンデリィ! 早く走レ、あたしタチだけでも生き残るンダ!」
「……ごめんね、お頭」
「何を謝っ……あ」
絶望の吐息が漏れる。
ニャンデリィの両腕には、赤い筋が現れ、激しく脈打っていた。
さらには、背中もぼこぼこと変形している。
もはや、彼女が理性を失った怪物になるまで、幾ばくの猶予も残されていなかった。
クラッツの舌が背後から迫る。
体を巻き取るそれに、ニャンデリィは抵抗しようとしなかった。
「急だけど……お頭に殺されるなら、本望かな。きっと、みんなそう思ってるよ……ふふ」
何を笑っているんだ。
何を幸せそうに諦めているんだ。
歯を食いしばる。
血がにじむほど強く斧の柄を握りしめる。
何が原因かはわかる。
ケーキだ。
ミーシャが持ってきたというケーキに、例の薬が入れられていたのだ。
じゃあ誰が悪い。
はっきりしている。
黒の王蛇は自分たちを潰そうとした。
薬に良くない感情を抱く自分たちが邪魔になって。
そして――自分たちの懐にまで入り込める刺客を、仕向けたのではないか。
「ミーシャ……ヴァイオラあぁァァァ!」
キルリスは憤る。
そんな彼女の前に、クラッツが迫った。
彼はかつてディヴィーナがそうなったように、頭部に足の生えた、蜘蛛型の魔物へと変異していた。
また、その頭部には三つの顔が浮かび、うつろな瞳でキルリスを捉える。
人の瞳では、真正面しか見えない。
魔物はより広い視野を得るために、食らったエテルード、テイリー、そしてニャンデリィの頭部を再構築の後、再利用したのだ。
それがさらにキルリスの逆鱗に触れる。
「許さねェ……絶対に許さネエからなアァァァァァアアアッ!」
斧を振り上げ、彼女はクラッツへと立ち向かう。
瞳から流れた涙が、虚しく宙に舞った。
◆◆◆
「らんっ、ららんっ、ららららんっ♪」
夜のティンマリスを、踊りながら歩く一人の少女の姿があった。
田舎町に似合わぬドレス姿のミーシャである。
街灯だけが照らす薄暗い通りを、顔に笑顔を貼り付けて、妙に上機嫌にくるりくるりと回っている。
「闇は深く、月も顔を隠して誰も見ていない。そして漂う血の香り、響く悲嘆の叫びに、絡み合う人の激情……ふふ、今日はとってもいい夜になりそうね」
手を大きく広げ、天を仰ぎ、またくるりくるりと回る少女。
「ふふふふっ、ふふふふふっ、あはははははっ……!」
彼女は街灯のない暗い場所までたどり着くと、ふっ――と煙のように姿を消した。
瞬間、ここは見捨てられた地となる。
責任者は不在。
理不尽は健在。
だから今宵は赤い夜。
一つ、また一つと、悲劇の卵が割れて、溢れ出す赤い穢れが、彼女たちの幸福を冒していく――
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