026 レプリケイション
「はぁ……はぁ……やっと脱出できた……」
僕は命からがら、あの混沌から逃げることに成功した。
幸い、僕の体は清らかなままである。
部屋からはキルリスやミーシャ、キャミィたちが騒ぐ声が聞こえてくる。
もう少しあの場の空気を楽しんでいたい気もしたけれど――ヴァイオラの姿がないことが、どうにも気になったから。
途中、ミーシャも何度か外を気にする仕草を見せていた。
僕が行くことで、彼女が気兼ねなく笑えたらそれに越したことはない――なんてかっこつけたことを言ってみる。
まあ、どう言い繕おうとも、獣の眼差しを僕に向けるキルリスや、それに対抗するキャミィから逃げたかっただけなんだけど。
「……末しろ? いえ……それは……」
ヴァイオラの声は、建物の外から聞こえてきた。
窓越しに様子を伺うと、端末で誰かと会話をしているようだ。
その口調からして、目上の人間との通話か。
「わかっています。はい、はい……ですが、本気でそんな――」
話に夢中になっていたヴァイオラだけれど、彼女も気配で僕に気づく。
そして妙に慌てた様子で「来客です、またかけますっ!」と言って端末をポケットに隠した。
僕は玄関から外に出て、浮かない表情の彼女に、できるだけ軽い口調で話しかける。
「ジョッシュ・マリストールからの連絡?」
そう言うと、ヴァイオラはキッ、と強い目つきで僕を睨みつけた。
隠すのが下手すぎる。
「娘が行方不明になってるのに、全力で探さない貴族なんていないよ。それに、黒の王蛇の幹部であるキルリスとも一緒に行動してたし、誰かが“報告”してると考えるのは当然のことさ」
「……ミーシャには言わないで」
「別にそのつもりはないよ。でも、あんまりいい話じゃなかったみたいだね」
「放っておいてよ、あんたには関係ないんだから」
ふいっとそっぽを向くと、壁にもたれ、腕を組むヴァイオラ。
僕は彼女に近づき、隣に並んだ。
「近い。馴れ合うつもりはないわ」
「昨日は楽しそうにしてたくせに」
「なっ……そ、それは……私だけ遠慮してたら、ミーシャが楽しめないから……」
「ミーシャさんのことは、本気で好きなんだね」
「当たり前じゃない。前も言ったとおりよ、あの子は私の主でもあり、妹のような存在でもあるんだから」
「つまり、ジョッシュ・マリストールやその妻は――両親?」
「……まあ、ね。恐れ多いけど、私はそう思っていたわ」
ヴァイオラは過去形で語る。
今は……家族として接してくれるのは、ミーシャだけなのだろう。
「師匠とはいつ会ったの?」
「ここ二、三年のことよ。割と最近まで師事していたわ。あなたは?」
「その直前」
「続けてだったから、やたらとベアトリス師匠はあなたの名前を出してたのね」
「前も言ってたけど、僕のことそんなに褒めてた?」
「ええ、べた褒めだったわ。『クリスならこの程度の修行で音を上げることはなかったぞ!』って事あるごとに。おかげであなたのこと大嫌いだったのよ、私」
「風評被害だよ……」
「出会ってもその印象は変わらなかったわね。いや、むしろ悪化したわ。まさか片っ端から女をたぶらかすような執事だったなんて」
「僕、女なんだけど……」
「でもキャミィとキルリスは、性別なんて関係なしにあなたの虜よ。他にもそういう子がいるんじゃない?」
仲良くしていた、慕ってくれていた女の子ならいる。
けれどそれはあくまで、同僚の関係であって、たぶらかしたつもりなんてまったくない。
「ふふふ、困ってる困ってる。ざまあみろだわ」
「ひどいなぁ、まったく。それで、師匠はそのあとどうしてるの?」
「さあね。旦那様に愛想を尽かしたのか、ふらっといなくなったわ。またどこかで弟子でも取って、執事を育ててるんじゃないかしら」
「結局、師匠って何者なんだろうね」
「噂だけど、以前は有名な魔法使いに仕えてたって聞いたわよ。確か、【賢者】スクルドだったかしら」
「あ、名前は聞いたことある」
「実験中、大規模な魔法事故に巻き込まれて死亡。実験は魔導タワー絡みだったとも言われてるわね」
ふと、師匠が修行中に、物憂げな表情を見せていたことを思い出す。
あれは、かつての主のことを想起していたのだろうか。
「師匠も迷ってたのかも。あの人、とにかく『主に忠実であれ』って私たちに言い聞かせてたから」
「主を失った執事は、どこへ向かえばいいのか……」
「だから盲目的に従うしかないのよ。それが、正しい執事のあり方」
「……僕はそうは思わない。主が誤った方向へと進むのなら、それを正すのも執事の役目だよ」
「その正しさは誰が決めるの? 執事の主観が、主の意思を超えてしまっていいのかしら」
「物事には限度がある。正すべき事象と、受け入れるべき思想――その境界線は曖昧だけど、何もかもが、その線上に存在してるわけじゃない」
「問題が明確ならそれでいいわ。けど……その“境界線上”にある問題に直面したとき、私たちはどうするべきなのかしら」
ヴァイオラはうつむき、地面を見つめると、足元の小石を蹴飛ばした。
僕は道の真ん中に転がるその石を目で追う。
「広い広い大海原に投げ出された気分だわ。きっと、どこかに世界の選択肢は浮かんでいるけれど、それがどの向きに、どれだけ進んだ先にあるのかわからない」
「無責任かもしれないけど……自分が後悔しないように選ぶしかないと思う」
「私の主観で? 私の価値観で?」
「執事も人間だよ。人形じゃない。師匠だって言ってたじゃないか、『最後に信じられるのは自分自身だけだ』って」
「私は人形が理想ね。無駄なことなんて何も考えずにいられればよかったのに、っていつも思ってるもの」
今日のヴァイオラは、かなり気持ちが落ち込んでいる。
元々、根深い問題を胸に抱えていて、それが顕在化しているとでも言うべきか。
さっきの通話――ジョッシュ・マリストールは、一体何を彼女に命じたのだろうか。
「私ね、旦那様と奥様のことが大好きだった。両親が馬車ごと崖から滑落して死んで、沈むまだ幼い私を執事として雇ってくれたの。そしてミーシャが生まれたときは、『家族として一緒に成長していこう』とまで言ってくれたの」
執事とドライな関係を望む貴族も多い中、それは破格の待遇だったといえるだろう。
「最初の頃こそ、私は自分に『調子に乗るな、本当に家族になんてなれるわけがない。なれると思ってはいけない』って言い聞かせてた。だって私は執事だから。そうあるべきだから。けど……旦那様たちの優しさを前に、そんな自己暗示は無意味だった。溶かされて、温まって、染み込んで。私の無意識は、いつからかマリストール家の人たちに『私を家族として扱ってくれる』という期待を向けるようになっていたわ」
ヴァイオラが悪いわけではない。
きっとそうなることを、ジョッシュも望んでいただろうから。
「幸せだった。私なんかが味わってはいけないほど、至福に溢れていた。それは長く続いたわ。私は啓示の日に【闇使い】になり、さらにその地位を盤石のものにしていった。私はマリストール家にとって自慢の執事だった。マリストール家は私の自慢の主だった……二年前までは」
誰もが夢見る理想の主。
だからこそ、失ったときの反動も大きい。
「声が、顔つきが、変わってしまう。人はたったそれだけで、別人になったように感じてしまう。私はいつしかこう考えるようになっていたわ、『私が甘えたから、調子に乗ったから、悪魔が罰を与えにきたんだ』って」
「そんなことは……」
「わかってるわ! 馬鹿げた考えよ、でもそう思わないと、やってられないじゃない。いつも笑ってた旦那様が、黒の王蛇の連中と下品に嗤う。いつも優しかった奥様が、他者に悪意を剥き出しにして癇癪を起こす。もう、そこに私が好きだった二人の姿はなかったのよ。だから、ミーシャだって……」
「……ミーシャも?」
「ミーシャはね、元々、すっごく体が弱い子だったの。滅多に外に出られない、本人も外に出たがらない。口数も少なくて、表情も暗くて」
それは、今のミーシャからは、到底想像できない姿だった。
おそらくヴァイオラにとっても、その変化は驚くべきものだったのだろう。
「声だって滅多に聞けないぐらいだったわ。たまに私のことを、か細い声で『お姉ちゃん』と呼ぶ、それぐらいのもの。あとは身振り手振りで、どうにか意思疎通をしてたぐらい」
「それが、二年前を境に……」
「たぶんね、ミーシャはとても無理をしているのよ。旦那様と奥様が変わってしまって、屋敷の中は以前と比べ物にならないぐらい暗くなった。重苦しい空気が流れるようになった。それを少しでも変えようとして、ミーシャは自分自身を変えたの。そしてそれは、今も続いている……」
会話が途切れ、沈黙が流れると、屋内から騒がしい笑い声が聞こえてくる。
汚い男どもの声の中には、ミーシャのものも混ざっていた。
彼女だけは上品な声だから浮いていて、軽く意識するだけでよく聞こえる。
僕には到底、それが演技だとは思えなかった。
「僕は、ミーシャは本心で笑ってると思うよ。少なくとも、ヴァイオラの前で見せる笑顔に嘘はないと思う」
「私もそう思えたら、どれほど楽かしら。もしかしたら、万が一――そんな気持ちが膨らむと、こうしてミーシャと二人で旅していることも、正しいことなのかわからなくなる。一体、誰を、何を信じていいのかも……」
僕は、ヴァイオラの出すべき答えなど一つしかないと思っている。
けどきっと、それは僕の勝手な価値観に過ぎない。
彼女の苦悩は、少し話を聞いただけの僕なんかじゃ考えられないほど、深く、辛いものなのだろうから。
ただ、“今”はっきりしていることが一つだけある。
僕がヴァイオラの手を握ると、彼女は眉をひそめてこちらを見た。
「ミーシャは笑ってたけど、ずっとヴァイオラを探してた。きっと寂しいんだと思う。それを埋めることができるのは、君だけだ」
「……そう、ね。悩んでも答えが出ないのなら、今できることをするしかないのよね」
これは納得じゃない、妥協だ。
僕も、彼女を納得させられるだけの答えを見つけることはできなかった。
けれど、どうせ一人で悩んでいたって、ろくな結論なんて出ないんだ。
それはミーシャに抱きつかれ、温もりを感じながら考えるぐらいで、ちょうどいい。
◇◇◇
その後、僕たちは昼食を求めて街に繰り出した。
テイリーたちもすっかりミーシャを気に入って、エテルードはまるでお姫様のように彼女をエスコートし、下品な言葉を教えようとするたびにクラッツに注意される。
ニャンデリィも彼女なりにミーシャに好意を抱いているらしく、ぼそりと耳元でつぶやき、エテルードよりもヤバそうな言葉を教えていた。
ヴァイオラはそんな彼女の様子を、少し後ろから微笑ましく眺める。
時折、眉間に皺を寄せて悩んでいたようだけれど、そのたびにミーシャが彼女の手を握り、沼から引き上げるように笑いかけていた。
一方で、僕はキャミィとキルリスに両側をがっちりホールドされ、まるで重罪人が連行されるような状態で、街を歩くことになった。
それが昼食探しだけで終わればよかったんだけど、食事を採ったあとも、テイリーたちがミーシャを案内する流れになってしまった。
昨日、僕らが彼女にそうしたのとはまた違う、ディープな“裏側の”ティンマリスを、時にヴァイオラから『この店はミーシャにはまだ早い』とダメ出しを食らいながら回っていく。
そうこうしているうちに、あっという間にときは流れ、日が暮れる。
キルリスたちは、どうも僕たちをまた飲みに誘おうとしていたらしいけど、今日は断らせてもらった。
唇を尖らせたって無駄だ。
キャミィなんてまだ二日酔いから完全復活できてないってのに、あんなのを続けてたまるものか。
それに、いくら手を組んだとはいえ――距離が近すぎる。
少しだけ間を置いて、考えたいこともあったから。
後ろ髪を引かれながら、「また明日ナ」と二組に別れる僕たち。
キルリスとその仲間たちはアジトに戻り、僕とキャミィ、ヴァイオラ、ミーシャは宿へと向かう。
こうして、忙しい一日は終わりを迎えた――かのように思えた。
夕食を終え、キャミィたちが順番にシャワーを浴び始めた頃、端末に連絡が入る。
メッセージの送信主はキルリス。
『話したいことがある、ギルド前まで来てくれ』
と記されたそのメッセージにしたがって、僕は単身宿を出た。
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