016 フェイタリィ
その日、リーゼロットは朝早くから屋敷を出た。
彼女を迎えに来た馬車には、亜麻色の長い髪の少女が、帽子を深く被って座っていた。
その少女――ミーシャは、現在クリスがいる街を含む地域の領主、その娘である。
つまり、リーゼロットにとってはお隣さんというわけで、以前から親しくしていた。
リーゼロットが馬車に乗り込むと、青い髪をした女性の御者が鞭を振るい、前に走り出す。
領地の人間からしてみれば、帽子の少女とリーゼロットが、ともに馬車に乗ってどこかに向かうのは、見慣れた光景である。
しかし、少女の正体がミーシャであることを知るものはほとんどいない。
そう、クリスでさえも、『誰かと一緒に遊びに向かっている』という情報しか得られなかったのだ。
◇◇◇
二人が向かった先は、深い森の先にある、こぢんまりとした小屋だった。
屋内に入ると、そこでミーシャはようやく帽子を脱ぎ、リーゼロットと並んでソファに腰掛ける。
そして持ってきた革製のケースをテーブルの上に置き、開くと――そこには様々な色をした薬物や、複数個の注射器が収納されていた。
「ねえミーシャ、聞いてほしいの」
「うん、聞いてあげる。何があったの?」
「クリスがね、クリスがいなくなったの。あのクリスが私を捨ててッ! クリスは、クリスは私がいないとダメなのに!」
「そうなんだ、ついにあのクリスが。大変だね、クリスはリズがいないと何もできないものね」
「そうよ、あの子は私がいないと!」
「あなたのせいで」
「そう、私のせいで!」
「あなたがあんなことしたから」
「私があんなことしたからっ、クリスは私のものじゃないと。クリスは私が、私がいないと……! ああ、でもダメなのよ。クリスのことを考えると、頭がどうにかなってしまって……ねえミーシャ、どうしたらいいの? 私はどうしたらいい!?」
「落ち着いてリズ」
「でもッ!」
「今日の調整をはじめるね、おとなしくして」
「っ……ええ、わかったわ」
リーゼロットはミーシャに言われるがままに、袖をまくり、腕を差し出す。
ミーシャは人差し指でこめかみを叩き、考え込むような仕草を見せながら、薬品のうち一つを手にとった。
それをリーゼロットに投与する。
「リズは私に、どうしたらいいのって聞いたよね。どうしたらいいか、教えてあげる」
「はぁ……はぁ……ありがとう、ミーシャ」
「いいの。リズは私に従っていれば幸せになれる。私はリズを幸せにしてあげたい」
「あぁ、ありがとう、ありがとう……」
「執着心はいい。クリスがいなくなったことで、リズの中の感情が高ぶって、魔力の高まりも感じる。そのままでいいよ、リズ」
「本当に?」
「ええ、私の言葉を疑うの?」
「そういうわけではないわ。けれど、胸が苦しくて、頭が痛くて、クリスのことを考えるとどうにかなってしまいそうだから……私、クリスのことを考えないほうがいいのではないかしら?」
「リズッ!」
「ひっ」
ミーシャは鬼のような剣幕で、短く、しかし強くリーゼロットを怒鳴りつける。
リーゼロットはまるで飼い主に怒られた犬のように、怯え、体をすくませた。
「あなたは罪人よ」
「私は、罪人」
「あなたは取り返しのつかないことをした」
「私は、取り返しのつかないことをした」
「なのにクリスのことを忘れるだなんて、ひどい子ね」
「違う……違うわ、私はそんなつもりっ……」
「だったら、私の言うことを聞かないと。ね?」
「う……うん、うんっ、聞くっ! 私、ミーシャのいうことを聞くっ!」
「よかった。それじゃあ言うとおりにして。もっと、もっと強くクリスのことを想うの。胸が苦しい、頭が痛い。それでいいの。もっともっと、壊れてしまいそうなぐらい、クリスのことを考えて」
「わかった……私、クリスのことを考える。たくさん、たくさん考えるわ」
「大丈夫、あなたが逃げさえしなければ。今回は興奮系の薬を多めに投与しておくからね。せっかく今日まで大事に育ててきたんだから、もっと大きく完成してもらわないと困るの」
「はぁ……はあぁ……う、く……グウゥ……う、あ……」
「かわいいかわいいリズ」
「ぐあぁぁあっ……あ、ガアァァアッ!」
「かわいい。かわいい。早く完成してね、リズ。私、ずっとずっと、待ってるんだから」
「うあっ、ああぁっ、クリスッ! クリスウゥゥゥゥゥッ!」
赤い薬物がリーゼロットの体内に入るたびに、彼女は額に汗を浮かべ、苦しげに叫ぶ。
その腕には薄っすらと光の筋が浮かび、リーゼロットの瞳もまた、同じように光を灯す。
それを見ながら、ミーシャは実に愉しそうに、薄ら笑いを浮かべていた。
御者をしていた青い髪の女性は、部屋の入り口に直立不動で立ち、虚ろな瞳でその光景を傍観する。
◇◇◇
――リーゼロットが屋敷を出てから数時間。
いつもならまだ、彼女が戻ってくるまでしばらくの猶予がある。
仲間には止められたが、クリスを慕うメイドの一人として、彼女はリーゼロットの蛮行を見過ごすことはできなかった。
「誰が止めても、私はやり遂げてみせます。どうせ今のままじゃ、近いうちにクビになるんです。ここから出ていったって行く場所なんてないんですから。だったら――」
彼女が立っているのは、絶対に立ち入ってはならないと言われている、リーゼロットの両親の部屋であった。
ベテランの使用人に聞けば、かつては旦那様も奥様もごくごく普通に顔を見せていたらしいのだが、ある日を境に表に出てこなくなったのだという。
「誰がどう見ても不自然ですよね。ですが、クリスさんですらこの部屋の中を見ることは叶わなかった」
部屋の前に立ち、物々しい装飾が施された扉を見上げる。
埋め込まれた魔石や、刻まれた模様は決して飾りなどではない。
この部屋には普段、魔法を用いた鍵がかけられている。
しかも、【賢者】であるリーゼロットが作り上げたものだ、この世に開けられる魔法使いはほぼ存在しないだろう。
もちろん、メイドは魔法使いではないので、解除は不可能。
クリスも同じ理由で、この中を調べることはできなかったのだろう。
「しかし私は知っています。今、この部屋に鍵がかかっていないことを」
近頃、リーゼロットの様子は明らかにおかしい。
クリスがいなくなったことで精神的に不安定になり、普段ならありえない見落としやミスが多発している。
先日も、雑魚魔物を倒し損ね、擦り傷を負って帰宅したこともあったぐらいだ。
そして昨日、リーゼロットがこの部屋から出る際、施錠をせずに離れていった姿をメイドは目撃している。
「さあ、行きますよ。怖くありません。私は、失うものなんてないんですから、怖くなんて……怖くなんて……」
もちろん、怖い。
リーゼロットに見つかればどうなるかわからない。
最悪――いや、最低でも殺されてしまうだろう。
それでも、今のままのこの屋敷で、何も知らないふりをして働き続けるのはもう無理だから。
「勇気を出せ、私。怯えるな、私!」
彼女がそう自分に言い聞かせていると、外から馬の蹄が地面を叩く音が聞こえてきた。
振り向き、窓から外を見ると、出かけていたはずのリーゼロットがちょうど戻ってきているではないか。
そして馬車から降りて、彼女はふいに屋敷のほうを見上げ――メイドと、目が合った。
穏やかに友人と話していた表情は一変し、睨みつけるような目つきになると、リーゼロットは駆け足で玄関へと向かう。
「まずい……気づかれた!? だったら、余計に行くしかありませんッ!」
もう覚悟している時間なんてない。
メイドは意を決して扉を開き、禁じられた部屋の中に入ると――その“顔”を見上げて、目を剥いた。
「嘘……魔物……?」
高さは3メートルほど、体毛は白。
鋭い爪の生えた足は四本、犬にも似た顔は二つ。
そいつは黒い眼でメイドをじっと見つめると、顔を近づけ、尖った牙が並ぶ口を大きく開いた。
「あ……嫌……っ」
後ろでパタリと扉が閉じる。
まだ施錠はされていないので、開くことはできるだろう。
だが、今から逃げようとしたところで、もはや間に合うはずもない――
「クリスさ――」
◇◇◇
リーゼロットは急いでその部屋の前までやってくると、勢いよく扉を開いた。
「お父様、お母様ぁッ!」
顔を真っ赤にした彼女は、部屋に入るなり声を荒らげた。
そして獣が獲物を探すがごとく、室内に侵入者がいないか、くまなく見渡す。
――どこにも、あのメイドの姿はなかった。
「メイドがここに入ってきたはずです。見ませんでしたか、お父様、お母様!」
両親は――二つの首を同時に、横に振った。
だがリーゼロットはそれをさらに否定する。
「そんなはずはありませんわ! 施錠だけではありません、誰かがこの部屋に入れば、私が気づくようできているのです! 本当に誰も入って来ていないのですか!?」
なおも彼女は引き下がらなかったが、両親は首を縦には振らない。
本当なのか。
あるいは、どうしてでも隠さなければならない事情があるのか。
どちらにせよ、それが敬愛する両親の意思である以上、リーゼロットにそれ以上の追求はできなかった。
「……わかりましたわ。お父様とお母様がそうおっしゃるのなら、そうなのでしょう」
時間の経過で少し気持ちも落ち着いたのだろうか。
入ってきたときよりも穏やかに、リーゼロットは部屋を出ていった。
しかし、外に出た途端に、
「ふざけるなぁぁぁぁああああッ!」
廊下に飾られていた壺を振り払い、砕け散らせる。
そして彼女は髪をかき乱すように頭を抱え、体を震わせ、腹の奥底から呪いの言葉を振りまいた。
「おかしいじゃない、おかしいわ。クリスがいなくなったからよ。クリスがいなくなってから何もかもおかしくなったの。私が鍵を付け忘れたのもそう。あのメイドが私に歯向かったのもそう。何もかも、全てうまくいかないのはクリスのせいなのよ。あの子が! あの子は! 私の近くにいなければならないのにッ! そのくせに勝手に出ていって! 悪い子、悪い子、悪い子! どうして戻ってこないよ、クリスはぁぁぁぁああああッ!」
今度はその感情に合わせて体から魔力が放出される。
生じた衝撃により、廊下の窓ガラスが一斉に割れた。
「クリス、クリス、クリス、ねえクリス! クリスどこなの! ねえぇぇぇっ! ねええぇぇぇええっ! 私は悪くないわ、クリスが悪いの、クリスさえいれば、クリスさえ戻ってくれればぁッ!」
なおも魔力の暴走はとどまることを知らない。
リーゼロットの瞳は赤く輝き、体にも赤い筋が浮かび上がる。
その異常とも言える激情を――メイドの少女は、部屋の中で聞きながら、体を縮こまらせ震えていた。
「何なんですか……一体、何が起きてるんですか……?」
もっとも、彼女が困惑しているのはリーゼロットのことだけではない。
なぜこの魔物は、自分を食べなかったのか。
なぜこの魔物は、体の影に自分を隠して、リーゼロットからかくまってくれたのか。
恐る恐る、その顔を見上げると、黒くてつぶらな瞳が、優しげにメイドを見下ろした。
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