011 赤い傷、腐食する感情
僕とリーゼロットは同い年の幼馴染だ。
お互いの両親が知人同士で、物心付く前から仲がよかったらしい。
身分の差を越えて、姉妹同然に育った僕と彼女は、たぶんそのまま、一生一緒に生きていくんだろうと――お互いに、そう確信していた。
それが変わったのは、僕らが十三歳になった日のこと。
啓示の日、僕は【暗殺者】になり、彼女は【賢者】になった。
僕はリーゼロットを守れる人間になりたかったのに、たった一日で、その夢は破れた。
この世界における“職業”という概念は、かつてここが、神様の遊び場だった頃の名残だと言われている。
役割を明確にすることで、遊びやすくするための“システム”の一つ――それが、神様がこの地を去った今でも残っているのだから、無責任なものだと思う。
けれど、決まってしまったものはどうしようもない。
周囲の人々から、まるで人が変わったように蔑まれる僕に、リーゼロットと両親だけは優しく接してくれた。
けれどリーゼロットには領主の娘として、そして【賢者】としての役目がある。
領内の魔物を殲滅するために屋敷を留守にすることも多く、また、魔法の修行のために遠征することもあったので、僕らが顔を合わせる機会はどんどん減っていった。
そんなある日のことだ。
僕はそれでも、どうにかしてリーゼロットのために生きられないかと、鍛錬を続けていた。
馬鹿にされることもあった。
魔法使いになった元友達に、その実験台に使われることもあった。
体には生傷が絶えず、けれどそれも修行だと自分に言い聞かせた。
その頃には師匠はもういなかったから、僕はひたすら一人で耐え続けて、耐え続けて――
夕方頃に家に帰ると、両親が首を吊って死んでいた。
優しかった二人が、大好きだった二人が、青黒く顔をうっ血させて、目玉を飛び出させて、舌をでろんと吐き出して、上からも下からも体液と排泄物を垂れ流している。
異臭が部屋中に充満して、僕はそれが、両親から発せられているものだとは信じたくはなかった。
膝から崩れ落ちて、顔を覆って、現実から目を背けるように顔を横に振って、それでも揺れる両親の死体は消えなかったから、耐えきれずに外に飛び出したんだ。
だけどまともに走ることもできない僕は、すぐに転んで、泥だらけになった。
みじめだった。
ただでさえ報われない人生なのに、どうしてここまで奪われなければならないのか。
全てを呪った。
いいや、今も呪い続けてる。
憎しみ続けている。
するとそこに、両親を引き連れたリーゼロットがやってきて、しゃがみ込み、僕を見下すように笑いながら手を差し伸べたんだ。
そして彼女はこう言った。
『かわいそうなクリス。もしよければ、私の執事にならないかしら?』
きっと、その時点で、僕に逃げ場なんてなかった。
未来への希望も、頼もしい師匠も、親しかった友達も、そして大切な両親も失っていた僕には、もうすがれるものはリーゼロットしかなかったから――
◇◇◇
「……あの、クリスさん、少し待ってください」
キャミィは具合が悪そうに顔を手で覆いながら、気まずそうに僕に言った。
彼女はベッドの縁に、僕と並んで座っていた。
「それってもしかして、ご両親を殺したのは……あ、いや、あまり言わないほうがいいですかね、これ」
「いいよ、言って」
キャミィは気まずそうに言葉を止めた。
けどそれはたぶん、僕が考えていることとまったく一緒だ。
「……殺したのは、リーゼロットさんなのでは?」
ああ、やっぱり。
たぶん僕じゃなくても、誰だってそう思ったと思う。
そしてきっと、それは真実なんだ。
「僕もそう思ってる」
「だったらどうしてですか! まだそんなリーゼロットさんのことが好きなんですか!?」
キャミィの怒りはもっともだし、怒ってくれたことが何より嬉しい。
でも、その怒りが向くべき矛先はリーゼロットじゃないんだ。
「だって考えてもみてよ。リーゼロットは少し前まで元のリーゼロットだったんだよ? 彼女の両親だって、僕の両親と仲がよかった。それが両親を自殺に見せかけて殺してまで、僕を追い込もうとするだなんて、異常だと思わない?」
「変わりすぎ、ということですか?」
「もしも徐々に変わっていたのなら、僕もリーゼロットを憎んだのかもしれない。けれど、その変わりようがあまりに異常だったから、僕は彼女の向こうにいる“何か”を憎むようになっていった」
「じゃあ、クリスさんはその頃から……」
「いつか僕が彼女を救わなきゃ――そう思ってた。冗談みたいにこき使われたけど、それも修行だと思ってやってきたよ」
「……愛、深いんですね」
「ずっと一緒だったから。それが僕の夢でもあったから……とかかっこつけてるけど、予定ではもう少し後に出ていくはずだったんだけどね」
「我慢できなかったって言ってましたね。人間らしくて少しほっとします」
「そう言ってもらえると救われるよ。それから一年後ぐらいかな、リーゼロットの両親が病気と言って表に出てこなくなったのは」
どれだけ心配しても、リーゼロットは僕を彼女の両親と会わせてくれなかった。
そしてリーゼロット自身も、不思議と両親を心配するような素振りは見せなかった。
「リーゼロットさんのご両親、今はどうされてるんですか?」
「顔も見てない。それから四年間、その部屋はリーゼロット以外立入禁止で、それを破った人間は死ぬとまで言われてた」
「実際に死んだ人間は?」
「いない。でも……『部屋を見てみる』って言った翌日に、退職扱いになって行方不明になった子ならいた」
「それ完全に死んでますって! 然るべき場所に報告するべきですよ!」
「報告したところで……リーゼロットは【賢者】で領主だから。多少の悪事も、権力があればもみ消せるのは、まさに今、黒の王蛇が証明してることじゃない?」
「ううぅ、その名前を出されると何も言えませんね……では、黒の王蛇を倒して、リーゼロットさんを助ける方法が見つかったら、屋敷に戻るんですか?」
「もちろん。戻る気がなかったら、もうとっくに執事服は脱いでるよ」
「そういうものですか」
「『執事服は忠誠の証明。それを脱がない限り、その生命は主とともにある』――師匠が言ってた執事理論だよ」
「執事ってそんなのでしたっけ……」
少なくとも僕が知ってる執事はそうだった。
師匠は執事道とでも言うべき強いポリシーを持っていて、僕をはじめとする弟子たちに、それを叩き込んでいったのだ。
「さあ、僕は話したんだから、次はキャミィの番だよ」
「クリスさんと比べると地味な話になってしまうと思いますが」
「地味なんて、そんなことないよ。キャミィだって辛かったはずなんだから」
僕は病棟に繋がる分厚い扉を見ながら言った。
あれは、正常と狂気を隔てる壁だ。
「優しいですね、クリスさんは。あんまりきゅんきゅんさせないでください、寄っかかっちゃいますから」
「胸ぐらいは貸せるよ」
「サイズでは負けません!」
「どこで張り合ってるんだか……」
「んへへ。とまあ、冗談はこれぐらいにしておいて。私の両親があーなっちゃったのは、二年前のことです。それまでは、父は私と同じ【商人】でして、そこそこ稼いでました。ただ職業柄、家に戻ってくることは少なかったですが」
職業は遺伝することが多い。
だから魔法使いは魔法使い同士で結婚し、さらに特権階級の様相は強まり、格差は広まっていく。
だが一方で、両親ともに魔法使いでない家から魔法使いが生まれることもあるし、逆もまた然りだ。
少なくとも、僕の家には【暗殺者】なんて一人もいなかった。
一方で、キャミィはおそらく父からの遺伝だったんだろう。
「お母さんは家でキャミィと一緒に暮らしていたの?」
「いいえ、父の仕事を手伝うことはありましたが、結構遊んでばっかりでした。家にもよく知らない男の人を連れ込んだりしていましたし。父も……出先では、浮気し放題だったみたいですね。そんな家庭環境で私は育ちました」
「……」
「引かないでくださいよぉ」
「引いてない。ただ、キャミィの明るい性格からは想像できないなと思って」
「だって……とりあえず笑っておけば、男の人の機嫌は取れるじゃないですか」
聞いたことのないほど暗い、キャミィの声。
僕は思わず彼女の顔を見た。
虚ろな瞳で床を見つめる彼女は、おそらく初めて、僕の前で心の中の闇をさらけだしていた。
あまりに儚げで、今にも折れそうで、僕は不安になって、彼女の手をそっと握った。
「っ……く、クリスさん、だからそういうところなんですって……」
「僕がしたいと思っただけだから」
「余計に悪いですぅ! ここは引くところなんですからぁ!」
「期待に添えなくてごめんね。その男の人っていうのは、お母さんが連れ込んだ人のこと?」
「はい……そうです。これまた趣味が悪くてですね、来るのは酒癖の悪いろくでなしばっかりですよ。母も似たようなもんなんですが」
「殴られたりしてたわけだ」
「まあ、そうなりますね。自然とご機嫌取りのための笑顔が、顔に張り付いてました。今も消えません」
「じゃあ……普段から愛想笑いばかり?」
「染み付いちゃってるので、何が愛想で何が普通なのかはわかりません。ただ、はっきりしてるのは――」
キャミィは打って変わって、心からの笑みを僕に向け、言った。
「クリスさんの前では、本心から笑えてるってことです」
とくん、と胸が高鳴る。
キャミィは、癖こそ強いものの、魅力的な女の子なのは間違いない。
きっと、誰もそれに気づいていないだけなんだと思う。
「そっか、嬉しいよ」
「本気で思ってますぅ?」
「思ってる。キャミィの笑顔は、見ててすごく元気になるから」
「ふむ……リーゼロットさんさえいなければもう落ちてそうなんですが。さすがに無限貌に並ぶ賢者と言われる方が相手では分が悪いですね」
「何か怖いこと言ってない?」
「うへへ、気のせいですよぉ」
ごまかす気もないな、この子。
「んまあそんなわけで、私はあんまりよろしくない家庭の中で育ったわけですが、二年前にいきなり、両親揃っておかしくなっちゃったわけですよ」
「前兆はなかったの?」
「これっぽっちもねーです。今まで仲悪かったくせに、急に揃ってですからね。こんなときだけ夫婦らしさを発揮されても困るって話ですよ。んで私は、両親の知り合いだったニールせんせーに相談して、あそこの病室に入れてもらえるよう手配したわけです」
「それからずっと、あのままなわけだ」
「ぜんぜん回復の兆しはないですね。せんせーもお手上げだって言ってます」
「最初から魔薬のせいだとはわかってた?」
「いーえ、それは最近のことです。精神に異常をきたした冒険者がせんせーを頼ってきて、その結果として生まれたのがあの検査方法なんですよ。それを父と母にも試してみたら、見事に反応が出たというわけです。ディヴィーナさんの話を聞いていたときも、薄々そうだろうなとは思ってましたけど……両親のこともあったんで、あんまり関わりたくなかったんです。ごめんなさい」
「謝ることはないよ。誰だってそうしただろうから」
「クリスさんは優しすぎますよ。ちょっとぐらい叱ってください」
「こらっ」
「あいたっ……ってちょっとすぎません!?」
「怒ってないからこれが限界」
「むぅ……」
世の中には、思いっきり怒られたほうが罪悪感が少なくなるから楽、と思う人がいることは知っている。
けれど僕は人を怒るのにあまり向かない人間だから、軽く小突くぐらいが限界だった。
さて、これでお互いの過去と目的がはっきりしたわけだけど――
「僕たちがこうして出会ったことって、運命みたいだよね」
「これは完全に口説いてますね」
「この広い世界で、偶然にも目的が同じ人間が集まるなんて」
「スルーしやがりましたね……言わんとすることはわかりますが。本当に、奇跡的な偶然です。何もわかってないのに、『ひょっとしたら治療法が見つかるかもしれない』って、馬鹿げた希望を抱くぐらいに」
「頼りにしてるよ、キャミィ」
「頼られても恥ずかしくないようがんばります。なので私も、クリスさんのことを頼らせてくださいね」
「任された。じゃあまずは手始めに、ディヴィーナさんの依頼を片付けることにしよう」
「彼女が目を覚まさないとどうにもならねーですよ?」
「じきに目を覚ますよ、そういう気配がする」
「気配でわかるものなんですかね……」
ディヴィーナが眠るベッドは、カーテンで覆われている。
僕とキャミィがじっとそこを見ていると、薄っすらと見えるシルエットがむくりと上半身を起こした。
そして頭を抱え、首を左右に振る。
「う……うぅ、ここは……?」
「ほ、本当に目覚めました……執事って人間と違う生き物なのでは?」
僕はカーテンを開き、彼女に声をかけた。
「おはよう、ディヴィーナ。目覚めはどうだい?」
「クリス? キャミィまで。ここは一体どこなんだ? 私はどうなっていた?」
「ここは診療所です。ディヴィーナさんは、料理に混ぜられた薬を摂取して、興奮してクリスさんを襲ったあとに、気絶して今まで寝てたんですよ」
キャミィは僕の後ろに隠れながらそう言った。
一応、槍は離れた場所に置いてあるけれど、たぶん彼女は素手でも強いからね。
武器なんてなくても、魔法そのものは使えるわけだし。
もっとも、これだけまともに会話が成立するのなら、もう警戒する必要もないんだろうけど。
「なるほど……くっ、頭が……ガンガンする……まさか、あの酒場まで連中の手に落ちていたとはな……ここまで運んでくれて礼を言う」
「どういたしまして」
「まずはお礼じゃなくて謝罪だと思いますけど」
「そうか、襲ってしまったんだったな。すまない……心から申し訳ないと思っている」
「よし、許してやろう!」
キャミィって、人にマウントを取るときが一番生き生きしてるよね。
「頭痛はそんなにひどいの?」
「いや……ふぅ、少しずつ弱まってきた。おそらくは、一時的な、ものだろう……はぁ、はぁ……ところでクリス、私はどれぐらい眠っていた?」
「かれこれ七時間近くになるかな」
僕がそう告げると、ディヴィーナの形相が一変した。
「なんだって? もう日付は変わっているのか!? まずい、リジーナを助けに向かわなければッ!」
ベッドから飛び出し、部屋を見回して槍を探すディヴィーナ。
「何かあるんですか?」
「街の南東あたりにあるたまり場で、黒の王蛇の集会が行われるんだ。あいつら、集会のたびに順番で“儀式めいた何か”を行ってるらしい。それを受けた冒険者は、例外なく行方不明になっている……!」
「もしかして私たちに助けを求めたのって、それがあったから……」
「助けなければ、手遅れになる。あの子が、リジーナがッ! それだけは阻止しなければならないッ!」
ディヴィーナはまるで獣のような動きで、部屋の隅に立てかけてあった槍を手に取ると、あっという間に診療所から出ていってしまった。
すっかり置いてけぼりの僕とキャミィは、見つめ合って途方に暮れる。
「どうしましょ……いや、クリスさんなら追うって言いますよね」
「魔薬に繋がる手がかりだからね」
「たまり場っていうからには、敵がたんまりいるはずです。たまり場だけに!」
「……」
「き、気をつけて向かいましょう」
「笑ったほうがよかった?」
「いいです! 掘り返さないでくださいー!」
「というか、キャミィも行くの?」
「行きますよぉ、ここに一人で残されるほうが怖いです!」
「まあ、たしかに狙われる可能性もある……か」
「さあクリスさん、私を抱えるのです! その両腕で! まるでお姫様のように!」
キャミィ……もしかして、あの抱っこをされたいだけなのでは?
しかし走ってもスピードの差が大きすぎる。
僕は仕方なく、彼女の体を両手で持ち上げた。
「おおぉ……これが夢にまでみた……」
「キャミィって――」
「ふふ、わざわざ言わなくてもわかってますよ。こういうときのお約束セリフですよね。大丈夫です、きゅんきゅんする準備はできています!」
「思ったより重いんだね」
「この失礼執事ぃぃぃぃぃッ!」
「痛い痛いほっぺた痛い」
「まったく、無駄話してないで早く行きますよ! 南東でたまり場にできる場所なら、心当たりがあります!」
「ナビゲートよろしく」
「イエッサー、任されましたっ!」
僕は診療所を飛び出す。
そして思ったよりも軽いキャミィの体を抱えて、夜の街を駆け抜けた。
ディヴィーナの姿は闇に溶け込み、すでに見えなくなっていた。
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