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29 エドマはマティスと演奏する。

 



 アドルフの言った通り、暗いうちから屋敷を出ていった夫は、二日たっても三日たっても帰ってこなかった。


「あの、聞いてもいいかしら?」


 エドマはカーラに午後のお茶の用意をしてもらいながら、居間で控えているマティスに尋ねる。


「はい、いかがなさいましたか?」

「アドルフさまの事なのだけど」


 右手で紅茶のカップをもち、一口飲んで落ち着くと、エドマは疑問に思っている事を聞いた。


「一度屋敷を出てしまうと、戻られないの? 今は港にいらっしゃるとの事だから、たまに夜には帰っていらっしゃるとか……」

「いえ、戻られません。艦内におられるか、海軍の官舎におられると思います」

「そう」


 少し落胆ぎみにエドマが肩を落とすので、マティスも、なにか悩みどころがあるのだろうか、と言葉にはしないが、エドマの側を離れなかった。


 まだカップに残っている紅茶を見ながら、エドマはふぅ、とため息をついた。


「正直に言うわね。やる事がなくて、どうしたらいいか分からないの」


 マティスはそっとカーラに視線を送ると、カーラは困った顔をして瞼を一度伏せた。


「……私が絵を描いていたって、マティスは知っているかしら」

「ええ、存じ上げております」

「実は結婚するまで、ほとんどの時間を絵を描くことで過ごしてきたのよ」

「さようで……」


 マティスはエドマの言わんとしている事に想像がついた。

 おそらくこの若い女主人は、普通は嫁いでくるまでに心得としてやっている刺繍や、ダンス、などの事をやってこなかった、もしくは少ししか嗜んでこなかったのだろう。


「エドマさま、刺繍やダンス、以外で興味がある事や、なにかやってみたい事とかはお有りですか?」

「……ないわ」

「読書はいかがでしょう?」

「実家から持ってきた本も、カーラが貸してくれた本も読んでしまったの。しばらく活字はいいわ。また読みたくなったら声をかけたいわ」

「わかりました。それでは……リコーダーはいかがですか?」

「リコーダー?」


 はい、とマティスは頷くと、しばしお待ちを、と一旦居間を離れると、布で巻かれた二つの物体をもってきた。

 マティスはとても丁寧にローテーブルに置くと、するするとサテンの布を開いた。


 そこには木で出来た笛が並んでいた。

 小さなものが二つ、中くらいのものが一つある。


「もう二つ、これより大きいものと、さらに大きいなものがありますが、初めての方はやはりこちらの方がよいので」


 マティス、私は音楽は、とエドマは本当は言いたかったが、出会ってからあまり表情が変わらないマティスが少し頬を上気させ、こう持ちまして、ここで吹くのですが、と丁寧に説明してくれるものだから、エドマは微笑ましくなり黙って聞いていた。


「運指表がありまして、エドマさまは音符を読むことがお出来になるのでありがたく……まずはソを吹いてみて下さい」


 マティスにソの音の指使いを教えてもらい、そっと吹くと、マティスが隣でミの音を吹いた。


「まぁ……綺麗だわ」


 ソとミの音だけで柔らかく響き合った音に、エドマは思わず笛を口から離して呟く。

 その横でマティスは初老とは思えないほど目を輝かせて、エドマさま、ソー、ラー、ラー、ソー、と伸ばして下さい、と言った。


 エドマはマティスの言う通りにゆっくりと吹くと、マティスはミー、ファー、ファー、ミー、とエドマに合わせて三つ下の音を吹いた。


 ただ、それだけで美しく二つに響き合った旋律に感動していると、マティスはエドマ以上に身を震わせていた。


「マ、マティス、大丈夫?」

「……エドマさま、マティスは、マティスは嬉しゅうございます……まさかこのロリアンでリコーダーを共に吹ける方と巡り合うことができようとは……」

「あ、いえ、私以外の方でも簡単だから吹けると思うけれど……」


 いいえっ とマティスは珍しく大きな声を上げた。


「ただ吹くだけなら誰でもできます。しかしエドマさまは私の音と共に響きを聴きながら吹いて下さった……それがアンサンブルなのです。なかなか出来ることではありません。素晴らしいです」


 マティスは少し涙ぐみながら、エドマさま、もしよろしければこの老いぼれの楽しみに付き合って下さいませんか、と懇願してきたので、エドマはマティスの賞賛に気を良くして頷いた。


「ピアノよりも気軽に楽しめそうね。お互い時間があるときにまた吹き合いましょうか」

「はい、ぜひにとも!」


 マティスは喜んで深々と礼をすると、では今日はこの辺で終わりにしましょう、とささっと二本のリコーダーを片付けると、午後のお茶の用意を用意して参ります。と軽い足取りで居間を出ていった。


 エドマはその後ろ姿をくすくす笑いながら見送った。


「マティスがあのような趣味をもっているだなんて知らなかったわ」

「私もです」

「まぁ、カーラも?」


 マティスと長年一緒に勤めている様子がうかがいしれるカーラも知らなかったとは、ずっと内緒にしていたのだろうか。


「楽譜が読めるか、と聞かれた事はあります。私はピアノの事だとばっかり思い込んでいたので、読めないと伝えてありましたが、まさかリコーダーとは……」

「カーラはメロディだけなら読めるの?」

「あやしい所です。歌は好きですが」

「あら、素敵ね」


 最近の流行歌ではあれとそれが好きで、とカーラも楽しそうに話してくれるので、マティスのおかげで時間を忘れて音楽談義となった。


 マティスがサーブしてくれる午後のお茶を頂きながら、エドマもピアノはどれくらい弾けて、でもあまり好きではなくて、と正直に自分の腕を吐露していく。


「そうですか。ピアノはやはり弾けた方がよろしいかと思いますのでそのまま練習して頂いて、息抜きにリコーダーを吹くのはいかがでしょう」

「やっぱりピアノは弾かなければいけない?」

「触らないと腕が落ちますし、申し訳ありませんがコルネリー・モリゾさまのご息女とご存知の方がいれば、そのような目で見られますので」

「そうね、それもそうだわ……ピアノ、真面目に練習しておけばよかった」

「あら、エドマさまは不真面目な生徒さまだったのですか?」

「まったく興味がなかったもの。練習なんて、レッスンの朝にちょっと弾くだけよ」


 そう言って少しだけ舌をだした女主人に、それは、お母上の心持ちが眼に浮かぶようです、とマティスが神妙に言うと、カーラはまぁまぁ、と口に手を当て、ころころと笑った。


 その日からエドマは、アドルフの居ない平日を少しずつ楽しむ事が出来た。女主人としてやらねばならぬダンスやピアノの練習も取り入れながら、ゆっくりとこの屋敷での過ごす一日の営みを身体に慣らしていく事が出来た。






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