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28 アドルフは憮然とする。

 



「で、公園でカヌレを仲良く食べ、その夜も疲れて眠ってしまった奥方の寝顔を見て、結局のところ手を出さずにここに戻ってきたって? うそだろ?」


 休暇が終わり、伝統的なコの字型の海軍官舎に到着したところですぐにアシルに捕まった。アドルフは濃紺の制帽を脱いで脇に挟み、白手袋を外しながら嘘ではないよ、と苦笑しながら言った。


「つい一年前までパリで浮名を流しまくっていた奴が? この冗談をどう捉えたらいいんだ。さすがの俺も絶句する」

「アシルの口癖が無くなっているよ」

「いや、俺だって驚いた時ぐらいは普通になるさ。信じられねー」


 細長い黒々とした目が目一杯開いているので本気で驚いているのだろう。


「私だって大事な人の前では慎重になるよ」

「いや、それがありえない。ポンはどんな奴の前でも自分の欲に忠実だぜ。はぁー……いや、すげー奥方だ」


 まだぶつぶつ呟いているアシルに肩をすくめるだけに済ませて、アドルフは奥にある重厚な扉の前で止まった。

 見張りの憲兵に到着を告げると憲兵が敬礼をし、振り返ってドアをノックし、アドルフとアシルの名を声高に叫んで室内の者に告げた。


 承諾の声がかかり扉が開かれた所で、二人で脚を揃える。


「アドルフ・ポンティヨン。召集に従い到着しました」

「アシル=クロード・デュカス、同じく到着しました」

「入れ」


 落ち着いた、しかし響きのある声が二人を迎えた。二人の上官であり、ロリアンの基地を統括しているガストン・ベルナ-中佐だ。栗色の髪はオールバックになで上げられていて中肉中背のわりとどこにでもいるフランス人だが、その尋常でない鋭い眼差しが軍人の長であることをものがたっている。

 眼差し一つで部下を黙らせる上官は、窓際に設えられた大きな執務机の真ん中で腕を組んで待っていた。


「だいぶ遅かったな、ポンティヨン大尉」

「朝一番に屋敷を出て来ましたのでそれほどでも」

「もう一日早く来てもらいたかったのだがな」

「貴方が私と同じ状況でしたら従いますか?」

「いや? 蹴るにきまっている。妻が私を離さないのでね」


 しれっと本音をいうこの上司にアドルフもアシルも内心で敬意を払っている。今回も嫌味こそ言えどアドルフの意思を尊重できるように動いてくれたのはこの上司だ。

 休暇の短縮を抑えることができたという報告を受け、アドルフはすでにブルゴーニュ産のビンテージワインをベルナーの部屋へ贈っている。


「しかしまぁ、状況は悪い。パリから送られてきた手紙だ」


 ぴっと対面しているアドルフとアシルに向けて一枚の手紙を滑らせてきた。

 アシルに目線を送ると彼はアドルフに読めと二度と瞬きをしたので、アドルフは手紙を受け取り四つに折られている紙を開いた。


 手紙は私信と取れる内容のものが二枚あった。冒頭はパリの様子がつづられており、二枚目はその続きが書かれているのだが、噂として、との注釈をつけて書かれていたのが眉をひそめる内容であった。


「スペイン国王にホーエンツォレルン候を推す動き……? 馬鹿な、西にまでプロイセンの息がかかった者が就くなどと、皇帝(我が君)が黙っているはずがない」


 ドイツの覇権を争ったオーストリア・プロイセンの戦争ではプロイセン側が勝利し、ドイツはいまホーエンツォレルン候国を含むプロイセン公国が全てを担っている。

 スペインはその二年後にクーデターが起き、スペイン女王はフランスへ亡命をし、現在の王位は空位のはずだった。

 しかしいつまでもそのままにしておくこともできず、今、スペインは非常にバランスの悪い状態にある。


 東のプロイセン、西のスペインに挟まれているフランスにとってスペインの立て直しは急務であり、ナポレオン3世はスペイン女王と共に推挙する人物をみつくろっている矢先だったのだろう。


 そこへ西のスペイン国王に東の候国の一つであるホーエンツォレルン家の人間を推挙するなどと。アドルフからみれば、無理難題という札をつけて表に出しているようなものだ。


 アドルフははしばみの目をゆっくりと細め手紙をにらんだ。と、同時に脳裏にヨーロッパの地図が浮かぶ。フランス国境に近いライン川へ迫る、プロイセンの整えられた軍隊が浮かんでは消えた。


「プロイセン側の煽りと見ていいと思います」

「というと?」

「ホーエンツォレルン候を推挙しても、スペイン女王を通してフランス側が蹴る事を想定している、という事です」

「それによって何が引き起こされる?」

「スペイン国民は不安定な状態を放置するフランスに対しての不信感を募らせるでしょう。プロイセン側には蹴るという事で外交的に攻撃のカードをあちらに持たせてしまう」

「一発即発か?」

「何かのきっかけがあれば」

「もしくは作るか、だねー」


 じっと黙って話を聞いていたアシルの告げた軽いながらも重たい内容に、ベルナーは細く長い息を吐いた。


「戦闘配備を怠るな、と上に進言しよう」

「それと外交官にも慎重になるようにと申し出て頂けますか。スペインやプロイセンに反感を買わないように気をつけるようにと」

「徴兵もできれば増やした方がいいよねー」

「あちら側はすでに準備が出来ている、ということか」


 アシルの言葉を受けてベルナーが二人を見ると、アドルフとアシルは同時に大きく頷いた。


「準備が整ったから、動いてきたのです」


 重々しいアドルフの言葉に、ベルナーは顎を引いて頷いた。


石頭(陸軍)花畑(文官)の奴らに進言はしてみるが、皇帝(我が君)まで届くかわからん。しかし黙っているのはさらに悪いからな」

「出世コースから外させてしまってすみませんね、中佐」

「もともとロリアンに来ている時点で外れている。もう行け。いつ戦闘になってもいいように部下達を鍛え上げてくれればそれでいい」

「「アイ・サー」」


 アドルフとアシルは敬礼をすると司令官室を出た。長く続く廊下を二人、しばらく黙って歩く。


「いよいよ、かー」

「ああ」


 制帽を被り白い手袋をはめると、お互いあまり表情が見えない。

 いつもは陽気に茶化してくるアシルも言葉が出ない所をみると、胸中には去来するものがあるのだろう。


「……アシルと艦が別なのはラッキーだな」


 アドルフはあえてすました顔で言うと、ぶはっと隣で笑う気配がした。


「言ったなー、甲板で稽古しなくていいからだろー」

「そうだね。アシルの部下に上官が転がる姿は見せられないしね」

「そっくりそのまま返してやるぜー、次は負けねー」


 二人はパリで稽古をして以来、手合わせをしていなかった。情勢が変わりつつあり、そんな時間が無くなっていったからだ。


「おそらく一年後だ。それまでに生き残れるよう、稽古をつけよう」

「了解。リリーとアンジェラともたくさんあそぶぜー。ポンもな」

「まぁ、彼女次第だ」


 いつものアドルフからは信じられないほどの煮え切らない言葉にアシルはくっくっくっと制帽のツバを押さえながら笑った。


「健闘を祈るよー」

「言ってろ」


 こればっかりはどうにも出来ない、とでも言うように憮然とするアドルフの背中をアシルはバンと叩いて、二人はそれぞれの所属する鑑の元へと歩いていった。









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