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27 アドルフはどこまで大丈夫か模索する。

 



 マルシェの通りを抜けて海岸線に向かう道路の手前に、街中であっても林に囲まれた公園があった。道路に面した所からは見えないが、少し中へ入っていくと水辺に出る。池というには大きく、湖と呼ぶには小さなその湖畔へアドルフはエドマを連れて行った。


「アドルフさま、カモがいるわ」

「ほんとうだ、渡りかな?」

「アドルフさまでも知らない事がおありなのですね」


 エドマが少しだけ驚いたように目を見張るので、アドルフは苦笑する。


「知らない事だらけだよ、私は」

「なんでもご存知のように見えます」

「買いかぶりすぎだよ」


 アドルフが肩をすくめて水面に目を向けると、一羽のカモが前を行くカモを追うように後ろから距離をつめていた。

 前方のカモは前を向いたまま器用に速度を合わし、やがて寄り添うように左から右へと通り過ぎていく。


「カモをうらやましいと思うようになるとはね……」

「え?」

「いや、なんでもない。さ、座ろうか」


 アドルフは近くにある木枠のベンチへとエドマを誘うと、胸元のハンカチーフを取り出し敷いてエドマを座らせた。

 エドマにもハンカチを膝に出してもらい、先程買ったカヌレを手渡す。手袋を外したエドマはカヌレを触ったとたん、目を輝かせた。


「まだ温かいです……!」

「焼いてから時間がたってはいないみたいだね」

「……美味しい」


 茶色い目を細めて嬉しそうに頬張る姿は、出会ってから初めて見る。何度も初めての表情を見せてくれるエドマ。少しずつ心を許してくれているのがわかる。


 ゆっくり二人で過ごす時間をこれほど欲しいと思った事はない。

 明日の朝、屋敷を出たら一週間は戻ってこられない。一月後には、乗艦だ。


「マティスには言ってあるのだか、海軍には陸にいる勤務と、海にいる勤務とあってね。陸にいる時は六日軍部に居て、一日休みだ。その一日に帰ってくる。海の勤務は乗艦したら基本的に任務が終わるまで戻ってこない。その時々で違うのだか、直近は、陸が一ヶ月、海が一ヶ月だ」

「……明日からはおかえりが一週間ごと、それが終わったら次のおかえりは一ヶ月後、ということですね」

「飲み込みが早くて助かるよ」


 エドマは手に持っていたカヌレを全て食べると、膝にのせていたハンカチーフをはたいた。

 小さなポーチに丁寧に畳んでしまうと、隣に座るアドルフに少しだけ身体をかたむけ、顔を見上げてきた。

 オークブラウンの瞳は落ち着いた光を帯びている。


「アドルフさまがいらっしゃらない間、なにか私が預かる事はありますか?」


 理知的で、すでに女主人としての自覚を持っているエドマに敬意を持ちながらアドルフはそんなにないよと笑って首を横にふった。


「貴女にやってもらいたい事といったら、私の屋敷に慣れて、気持ちよく過ごしてもらう事や屋敷に出入りしている街の人々と仲良くなるぐらいかな。時間を持てあましたらアシルの屋敷を訪ねてみるのもいいかもしれないね」

「リリーさまと、アンジェルさま」

「そう、夫が船に乗っている時に屋敷でどう過ごすか教えてくれると思うよ」


 そうですね、そうさせて頂きます、とエドマはほっとしたようにはにかんだ。


「なにをしてもいい、というのは、なかなか私には難しくて」

「……私が言うのもなんだけれど、絵を描いてもいいんだよ」

「……」


 エドマの眼が少しだけゆらりと揺れてアドルフを見ている。やがて目を閉じて、ほぅと儚げなため息をついた。悲しげに寄せられた眉は、やはりアドルフの心も抉る。


 エドマの深い傷は、自分がつけたものだ。


「……アドルフさまは、絵を描く、という事がどういう事か、ご存知ないのですわ」

「きっと、そうなのだろうね。貴女のようすを見ると」

「……心が動かなければ、描けないのです」

「こころ、か」


 エドマはアドルフから目を移し、湖畔を見つめた。たとえば、と呟くように小さく語りかけてくる。


「こんな穏やかな午後で、目の前には春の日差しに煌めいた湖があって、湖に移る木々の緑、楽しそうに泳いでいく渡り鳥、何もかも、以前の私なら目に焼きつけて屋敷に帰ったら真っ先にスケッチしたと思います。……でも今は……」

「今は?」

「心が、動かないのです。描きたいと思わない」

「そうか」


 静かにそう語る横顔に涙はない。

 事実を述べているその顔には、下げられた眉尻だけがエドマの心を語っていた。


 やはり、かける言葉がない。


 イーゼルの用意がしてある事を伝えたかった。フランスから取り寄せた画材と共に、気が向いたらすぐに絵筆が持てるように。

 自分がいない間、時間があるのだからまた描き始めたらいいんじゃないか、と安易に考えていた。


 心を折ってからだいぶ経つ。笑顔を見せるようになってきたエドマだったがやはりその一点だけは癒えるには時間がかかるのだとアドルフは感じた。


「アドルフさまの事は、正直、複雑です」


 エドマは視線をこちらに向けて、少しだけ微笑んだ。


「私の大切なものを折ったのに、私にお優しいのですもの……」

「無理難題も押し付けているけどね」

「それも、私と屋敷の者を守る為です」


 今はまだ、とエドマは微笑んだまま少しだけ目を伏せた。微笑みながら寂しさが見えるのがこれから告げられる言葉を物語っているが、アドルフは黙って耐える。


「まだ、貴方に心を開く事が出来ないのですが、少しずつ変わっていけると思うのです。それまで、待って頂けますか?」


 暗に閨の事を言っているのだとアドルフは解釈した。本音を言えば、いいとは言い難い。

 アドルフには時間がない。先々に起こるであろう事柄を考えるならば、少しでも機会を逃したくはない。


 でもそれは、アドルフというよりは、ポンティヨン家の事情なだけだ。

 白いままでいれば、もしもの時にはまた別の道が開ける。それもまた、エドマの為だ。


「いいよ、出来うる限り待とう。……なるべく早く決めてくれると嬉しいけどね」

「ありがとうございます、善処しますわ」


 エドマは肩の力が抜けたようにふわりと笑った。ゆるんだ素の笑顔に胸をつかれる。


「……身から出た錆とはいえ、拷問だ……」

「アドルフさま?」

「キスは許される?」

「……っ」


 妻はしゅっと顔を赤らめて目を伏せた。

 だめと言われても無理だな、とアドルフは素早く算段する。


「そ、それも私が決めることですか?」

「一応、どこまで大丈夫なのか確認したい」

「…………その時によります」


 小さな小さなエドマの返答は、どちらとも取れて愛しさがこみ上げてきた。どこまでも正直なエドマ。嫌なら嫌とも言えるのに。


「あなたの心の中に私は存在している?」

「どうでしょうか……今はまだ、よくわかりません」

「じゃあ、確かめてみようか。こうやって触れるのはいやかな?」


 アドルフはそういうと、エドマの頬に触れ、ゆっくりと親指で下唇をなぞる。薄く見える唇は思いのほか弾力があり、突然触れられ見開いているオークブラウンの瞳が否と言う前にアドルフはエドマの頤を捕まえて素早く奪った。


 一瞬こわばった腰を抱き寄せ、優しくでも逃れぬ強さで捉えていく。ゆっくりと角度を変えて食むと、頑なな身体が少しずつ緩んできたので、弛緩するエドマを支えながら顔を離した。


「少しだけでも、私はあなたの心に残ったかな?」

「……しりません」


 エドマはそれだけ言うとぽすんとアドルフの肩口に身体を寄せてきた。込み上げる笑みを堪える事ができない。


「笑わないで……」

「可愛らしすぎて、それは無理だ」

「可愛くなんて、ないです」


 そんな事、言われたことなんて、ない、と顔を伏せたまま呟くので、では私が初めて言った男だね、と返しておいた。



 穏やかな風が頬をなでる。

 いつかまたここに来られるように、生きねばならないな、とアドルフは腕の中の温もりを抱きながら心に誓う。


「あなたを貰ってよかった」


 自分でも思いのほか真摯な響きになった言葉に、エドマが顔を上げる。


「私は幸せ者だな」


 エドマを見ながらそう言うと、可憐なルリマツリは嬉しそうにふわりと笑った。

 言葉はなくとも、アドルフにとってはその笑みだけで充分だった。







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