26 アドルフはエドマの傷がまだ癒えていないことを知る
屋敷内をあらかた見終わる頃には昼食の時間となり、アドルフとエドマはそのまま食堂へ行ってジェルマンが作ったランチに舌鼓を打った。
エドマはアドルフの言ったとおり、ランチも午前と同じドレスで食べ、今日の外出は着替えてもいいか、と聞いてきた。いいよ、とアドルフが頷くと、ほっとしたようにありがとうございます、と言い、身支度を整えに二階に上がっていった。
「無茶を言っているというのに、順応性があるのも彼女の資質だな。頭が柔らかい」
「驚くべき資質です。あなたの言動を受け止めているだけで脅威的な事だと自覚して下さい」
「はは、相変わらず歯に衣を着せぬ物言いだな、マティス」
エドマの身支度まで居間で待つ事にしたアドルフはマティスが差し出した紅茶を受け取り、立ったまま庭へと続く窓を覗いた。
アドルフの屋敷は丘の上にあり、比較的ゆったりと取ってある庭の先には遠くだが海岸線が見える。ここからはまだ見えないが、アドルフが乗艦する艦もすでにロリアンに停泊している。部下たちは既に乗っており、訓練中だろう。
「いかほどに、プロイセンは来ますでしょうか」
マティスの静かな声に、アドルフは視線を動かさず、ごくりと紅茶を飲む。口に広がるほのかなオレンジの風味に一度目を瞑ると、マティスに向かい合った。
「どうかな、エドマには数年の内にとは言ったが。外交が上手くいかなければ早まる可能性も高い」
「……乗艦される前に奥さまには自立して頂かねばなりませぬな」
「ああ、頼むな、マティス」
マティスは黙って目礼をした。是、と言い難いのだろう。エドマに見込みがない訳ではなく、マティスはこちらを心配しているのだ。
冷静沈着なこの家令はポンティヨン家に長く執事として勤めていた。アドルフが海軍に士官し、度々家を離れるようになってからこちらの専属となり、影に日向に支えてくれている。
付かず離れずの付き合いだと思っていたが、一筋の情で結ばれていた事にここで気付くとは。
「陸にいるのは一ヶ月、乗艦したらまた一ヶ月は帰ってこない予定だ。あくまで予定だが。通常勤務で帰ってこられるよう祈っておいてくれ」
「承知いたしました」
やっと是と言ったマティスに苦笑しながら頷くと、お待たせしました、と丁度エドマが居間に入ってきた。
アドルフはエドマのオフホワイトのドレスに目を惹かれてさっと上から下まで眺める。
流行のバッスルスタイルにワンポイントとして腰に蒼い光沢のある幅広の天鵞絨を巻いているのが都会的だ。ドレスと同じ生地で作られた帽子には薄青いリボンが結ばれ、新妻らしい愛らしさにアドルフは満足する。
「あなたの装いをみると、節制しろと言っている自分を殴りたくなるな。私との外出の時は良しとしよう、そうしよう」
「ご自分で仰ったのに」
呆れたように上目遣いでいうエドマ。少しずつ色々な表情を見せてくれるのが愛おしい。この屋敷にいる時はなるべく側に居ようと固く誓った。
「さ、天気も良く出かけ日和だ。街でここに出入りしている店を紹介するよ、仲良くなるとおまけしてくれるんだ。妻だと言ったらどんなお土産をくれるか楽しみだ」
そんな事を話しながら玄関ホールにエスコートすると、本当に貴族らしくないのですね、とくすりと笑われた。
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ロリアンに赴任する事が決まってから出張の度に通っていた市場にエドマを連れて行くと、早速馴染みの果物屋が声をかけてきた。
「おや、珍しい。ポンティヨンさまがフロックコートなんて着ていらっしゃる。さてはお隣の美人さんが奥さまですね?」
「やぁ、マキリ。ご明察だ。今日の朝食にマキリおすすめのイチゴを食べたよ。新鮮なものをありがとう」
「エドマです、こんにちは。私も一緒に頂きました。とても甘くて美味しかったです」
旬なものですからね、でも奥さまにまで褒められると嬉しいやらむずがゆいやら、と果物屋は肩をすくめながらにっかりと笑った。
その後も次々と声がかかる。
「新鮮な葉物が入荷したよ、明日お屋敷に届けるわね」
「ああ、よろしく頼む。楽しみにしているよ」
「ワインはいかほど届ければいいですか、ポンティヨンさま、奥さまはお好きです?」
「すまない、エドマは嗜み程度だよ。今までと同じ量でかまわない」
「今日は小さなお菓子屋さんが来ているよ、奥さんを連れていってあげたら?」
「ありがとう、ぜひ行ってみるよ」
かわるがわる店主に応えるアドルフにエドマもにこにこしながら頷いていたが、おすすめの菓子屋に向かうときには、ふぅ、と一息ついた。
「大丈夫かい?」
「ええ。あなたが町の人に人気者なのがよくわかったわ」
そう言いながらも思慮深く何かを考えている。何の意図もなくマルシェに来た訳ではないだろうと踏んでいるのだ。所々で見せるエドマの思考する姿が好ましい。ただ妻として付き添っている訳ではないという事が見える。
「何か気づいた事でも?」
やはりこの人は面白い、そう思いながら訊ねると、アドルフの表情を見てエドマはむぅと眉を寄せた。
「私を町の人に紹介して、何かの折には助けを求められるようにしている、というぐらいしか分からないわ」
「それだけ分かっていれば十分だ」
アドルフは目を細めて頷いた。エドマは、屋敷で告げた戦時下になる可能性を自分なりにきちんと捉えている。
どこに居ても大事なのは食糧の確保。普段は新鮮な食べ物を気持ちよく提供してもらい、有事の際はこちらにも食べ物を融通してもらえるように。
実際はそんな暇もないかもしれないが、退去する際に声をかける事が出来る関係をエドマにも築いておいてほしい。
その時に自分はおそらく側にはいない。
屋敷の者を守るのはエドマだ。
軽やかにアドルフの腕に手を添えて隣を歩くエドマは口元に微笑みをたたえて物珍しそうにマルシェに視線を送っている。
舞踏会にもほとんど出席しない深窓の令嬢は絵画に夢中で、こういった街並みに出てみることも無かったのだろう。
オークブラウンの瞳は年相応に煌めいていて、本来もっている積極的な好奇心が表に出ていた。
「いや、もしかすると義父殿は愛しすぎて極力出さなかったのかもな。分からないでもない」
「はい?」
心の声が思わず出てしまったようだ、途端にエドマは眉をひそめてこちらを見る。消えてしまった素のエドマをアドルフは少し残念に思った。
「いや、なかなかこういう所に来た経験がないのだろうなと思って」
「確かに……室内に居ることが多かったですわね」
少しだけこわばる顔に、まだ傷が癒えていない事を知る。頬を親指の腹で触れると、ハッとしたようにエドマの瞳が揺れて伏せた。
ほぐれてきた表情とは裏腹に、心の中ではある一点を持って自分を許してはいないのだろう。昨晩の拒絶も、その延長線上にあるのだ。
アドルフは滑らかな頬を撫でながらどうしたものか、と思考する。
エドマのアドルフに対する意識は、パートナーとしての意識だけだ。アドルフ・ポンティヨンの妻のしてここに居るが、それはただの役割にすぎない。
その中にアドルフへの心はないのだ。
それなのにこうやって触れれば顔を赤らめてうろたえる。今もしばらくは大人しく撫でられるままにしていたが、もうやめてほしいのか頬を染めて上目遣いで小さく離してください、というのだ。羞恥で目を潤ませて。
「罪つくりだなぁ」
「はい?」
「自覚なしの煽りに応えたら怒るだろうしね」
「なんの話です?」
「貴女の話」
せめて頬だけは奪っておく。ここはお外で、とかなんとか言っているがキスしたくなる顔をしているのが悪いと思う。
いつもあなたは突然で、と珍しく続けて怒っているので、アドルフはちょっと待ってて、と目当ての菓子屋の屋台でカヌレを買ってにこりと笑顔をエドマに向けた。
「近くの公園で食べませんか、奥さん。このカヌレは美味しいと評判らしいよ?」
「あなたは……私の話を聞いていますか?」
「ゆっくり聞きたいから誘ったのだけど?」
エスコートの為に片腕を差し出しながら問うと、エドマは口をむう、とつむって内心はどうだか分からないがそれでも応じて手を添えて歩き出した。




