4.『知らない事』に気づいたとき世界は少し広がります
「気を付けて、ヘカッテさん。そっちにナナシの怪物が向かっています……!」
ラダマントがささやきました。けれど、ヘカッテは困り果てたまま立ち尽くしていました。
カロンもメンテも何も言いません。ただじっと前を見ています。ヘカッテだけでなく、彼らにもナナシの怪物の姿は分からなかったのです。
「ヘカッテさん……!」
悲鳴の混じったラダマントの声に、ヘカッテはいよいよ恐ろしくなって、その場から離れました。何処へ逃げたらいいのかも分からないまま隅へと寄ったのです。すると、先程までヘカッテたちがいた場所の石ころが微かに跳ねるのが見えました。
「ふうむ、なるほど」
と、ヘカッテと手を繋ぐカロンが納得したように言いました。
「どうやら、ナナシの怪物というのは本当にそこにいるようだね」
非常に落ち着いた彼に、ヘカッテはそっと訊ねました。
「どうしよう、カロン。戦おうにも姿が見えないんじゃ……」
「確かに。姿が見えないと何もできないね。姿が見えるようになる方法ってないものかね」
何があるでしょう。ヘカッテは考えました。水をかければいいのか、砂をかければいいのか。だとしても、どうやって。焦りのせいでしょう、なかなかいい方法が思いつきませんでした。
「どうしよう……このままじゃ、みんな食べられちゃうかも」
弱音がその口から漏れ出した時、鳥かごの中のメンテが竪琴の音色でヘカッテにささやきかけました。
ヘカッテがすぐに耳を傾けると、メンテは歌いだします。それは、ヘカッテが小さい頃から好きだった子守歌の音色でした。
不思議な、不思議な、その音色は、ヘカッテの心を落ち着かせてくれます。そして、にごってしまった水がきれいになるように、焦りでごちゃごちゃになった頭の中がスッキリしていき、考えがさえわたるようになるのです。そうしてすっかり整理されたヘカッテの脳裏に浮かんだのは、先程も少しだけ思い出していたあの言葉でした。
──『知らない事』に気づいたとき世界は少し広がります。
両親から貰ったお手紙にあったあの言葉。それが浮かび上がった瞬間、ヘカッテは何をするべきかすぐに分かってしまったのです。
「ねえ、ラダマントさん!」
ヘカッテは、離れた場所に隠れるラダマントに声をかけました。
「ナナシの怪物について教えて!」
突然の言葉に、ラダマントはあっけにとられたような仕草でヘカッテを見つめました。そんな彼に、ヘカッテは恥を忍んで打ち明けたのです。
「私、ナナシの怪物について、何も知らないの。何にも知らないし、どこにいるかも分からないの。図書館の本にも書いていなかったから。だから、ラダマントさんが知っていることを教えて。本当に些細なことでもいいから」
知らない、ということを認めるのは、時に難しい事です。これを読んでいる皆さんの中には、知らないことを知らないということに何のためらいもない人もいるでしょう。
けれど、世の中にはそうじゃない人もたくさんいます。この時のヘカッテにとっては、勇気ある一歩でした。そして、その一歩こそが、この状況を変える鍵だったのです。
ヘカッテの言葉に、ラダマントはすぐにうなずきました。
「ナナシの怪物は、僕たちのちょうど真ん中あたりにいます。煙のような体を持っていて、自由に伸びたり縮んだりできるみたいです。何よりも怖いのがぎょろりとした目。大きな人間の目のようなものが、でんでん虫の角みたいに生えていて、左目で僕を、右目でヘカッテさんたちを見つめています。僕たちが一歩も動かないものだから、どうしようか迷っているみたいです」
と、ラダマントが説明した時のことでした。とても不思議なことが起こりました。ヘカッテの目にも、段々とそのナナシの怪物のことが見えてきたのです。ラダマントの言う通り、煙状の体にでんでん虫のような目がついているその怪物は、見るだけでぞっとするような恐ろしい生き物でした。
一度見えてしまうと、むしろ、何故これまで見えなかったのか不思議なくらい、ハッキリと分かります。確かにナナシの怪物は、そこにいたのです。
「なるほど、なるほど」
と、カロンが感心したようにナナシの怪物を見つめました。
「そこにいることを知って、それを信じることで見えるようになる怪物のようだね」
「図書館の本にはなんで書いてなかったんだろう」
ヘカッテが言うと、カロンは首を傾げながら答えました。
「もしかしたら、迷宮の怪物を研究している学者先生が、これが見えるという人の話を信じなかったのかもしれないね」
なるほど、と、ヘカッテは思いました。自分だって、ラダマントの言葉がなければ、見えなかったでしょうし、信じる事もなかったでしょう。けれど、いつかはきっとこの怪物のことも研究されて、図鑑に載る日が来るかもしれません。とはいえ、それは何年も先の未来の話です。今ここでどうすればいいかを知る術は、一つしかありませんでした。
「ラダマントさん、他には何かしらない?」
「他に、ですか?」
問い返してくるラダマントに、ヘカッテは言いました。
「ナナシの怪物に遭った時の対処法とかないの?」
「うーん、そうですねえ。あるにはありますが、故郷の子どもたちのウワサ程度のもので」
「それでいい。教えて」
「分かりました。ナナシの怪物は、音と火に弱いそうです。それも、いきなり現れる火花です。だから、大昔の冒険家は爆竹などを持ってこの辺りを冒険したそうです。残念ながら、僕は持っていません。故郷でも爆竹なんて売っていなかったので」
あいにく、ヘカッテも持っていません。日常生活において、爆竹が必要なことなんてなかったからです。けれど、ぴんときました。爆竹ではないけれど、爆竹のように火花を散らし、音がなる魔法はあったのです。
「分かった。じゃあ、これはどう?」
そう言って、ヘカッテはカロンから手を離し、一人で前に出ました。ナナシの怪物の両眼がヘカッテに向きます。戦うつもりらしいと分かると、そのままヘカッテに襲い掛かろうとしました。恐ろしい形相でしたが、ヘカッテは一歩も引きません。
ヘカッテはそのまますっと人差し指をあげて、指揮をするように空中に記号を描きました。魔女の教科書にのっていた魔法陣です。真面目なヘカッテがすぐに身を付けたその魔法は、日常生活を手助けするような役立つものではありません。人々の生活に彩を与える娯楽目的の小さな花火でした。
ボッと音がして、パラパラパラと火花が散ります。決して大きな花火というわけではありません。手持ち花火のような小さいけれど派手な花火です。魔女の魔法らしく火傷もしない不思議で幻想的なだけの花火でしたが、どうやらナナシの怪物を驚かせるのには十分だったようです。
目の前で急に花火が現れたのを見て、ナナシの怪物は目を見開き、不気味な悲鳴をあげました。そして、一目散にどこかへと逃げていってしまったのです。よっぽど怖かったのでしょう。そのまま戻ってくることはありませんでした。
「やった……」
ホッと一息つくと、カロンがメンテの入った鳥かごを抱えて近づいてきました。ほぼ同時にラダマントも恐る恐る物陰からやってきました。そして、安全になったことを確認すると、ふうと一息ついて、そっとしゃがんでヘカッテに視線を合わせ、帽子を脱いでから言いました。
「いやあ、助かりました。さすがは魔女さん。ありがとうございます」
そして、立ち上がって帽子を被りなおすと、ナナシの怪物の逃げていった方向を目のない顔で見つめながら続けました。
「それにしても、花火が有効だとは。爆竹はありませんが、花火なら故郷にも売っています。帰った時はみんなに教えないと」
ともあれ、ナナシの怪物を見事に退けた後はもう、暗闇ホタルの国はすぐそこでした。存在すら知らなかったその場所は、聞いていた通り真っ暗でした。ですが、うっすらと光る住民たちの輝きが幻想的で、知らないままでいるのは勿体ないような素敵な国だったのです。
しかしながら、その知らない国をすみずみまで知るには、少し時間が足りないようでした。暗闇ホタルの国にあった時計台によれば、あと数時間で夜明けの時刻だったのです。
夜明けは、迷宮で暮らすヘカッテたちにとって、眠りの時刻でもあります。迷宮の鏡が反射する太陽の輝きは、ヘカッテたちにとって眩しすぎるためです。帰り道のことを考えると、そろそろ引き返さねばなりませんでした。だから、とても残念ですが、ヘカッテたちが暗闇ホタルの国を観光するのはまた後日となりました。
「そうですか。とても残念ですが、お別れですね」
ヘカッテたちが事情を話すと、ラダマントはそう言って、旅の荷物からごそごそと何かを取り出しました。ヘカッテの手のひらにのせたのは、見たことのないコインと、星屑のような金平糖と、そして大粒の結晶でした。見たことのない宝石のようで、少し重たく、キラキラ輝いています。
「この結晶はなに?」
ヘカッテが訊ねると、ラダマントは答えました。
「月のかけらです。故郷ではそう呼ばれていました。幸運のお守りなんですが、親切にしてもらったと感じた人に、これをゆずるのが僕たちの風習なんです。月のかけらが次々に人の手に渡っていくと、結晶が輝き続けて、みんなに幸せが訪れるそうなのです」
「そうなんだ」
それもまた、図書館の本にはまだ載っていないお話でした。けれど、ヘカッテはにこにこ笑いながらラダマントに言いました。
「じゃあ、私もいつか、親切にしてもらったらその人にゆずればいいんだね」
ヘカッテの言葉にラダマントは静かに頷きました。顔は全く見えないのに、ヘカッテには彼が笑っているような気がしました。
それから程なく、ヘカッテたちはラダマントに見送られながら、暗闇ホタルの国をあとにしました。ドクロネズミに火の玉コウモリ、虹色ナメクジに月光タマムシ。さらにはナナシの怪物。ラダマントに教えてもらった名前を思い出しながら、ヘカッテたちは帰り道を歩みました。
恐ろしかったナナシの怪物も、もう怖くはありません。花火でちょっとおどかして、道をゆずってもらいながら、安全に進むことができました。
そして、馴染み深い道に戻ってきたころ、ヘカッテはカロンとメンテに言ったのでした。
「今日はたくさんの『知らない事』に気づけたね」
カロンも、メンテも、共感するようにうなずきました。すると、どうでしょう。よく知ったはずのこの道もまた、今までとはちょっと変わって見えたのでした。




