3.知らなかった世界
月のしずくで癒されたとはいっても、ラダマントの歩むはやさはとてもゆっくりでした。そんな彼に付き添いながら、ヘカッテは時折、周囲をちらちらと確認しました。
もっとも警戒していたのは、もちろん、モノ探しの怪物です。いつ彼らが現れても戦えるように心構えをしていたのです。そんなヘカッテの警戒をよそに、ラダマントはのほほんと歩き続けました。
暗闇ホタルの国があるという道を進む彼を、ヘカッテはしばらく好きに歩かせていました。ですが、ある地点に現れた分かれ道で、ヘカッテはとうとう声をかけてしまいました。
「待って、ラダマントさん。そっちは行き止まりだよ」
行き止まりというのは怖いものです。なにしろ、この怪物のさまよう迷宮においては、逃げ道がどこにもないということなのですから。だから、呼び止めずにはいられなかったのです。ですが、ラダマントは立ち止まると、こう言いました。
「いえいえ、行き止まりなんかじゃありませんよ。この先なんです。この先に、暗闇ホタルの国はあるのです」
そして、そのまま歩いて行ってしまいました。ヘカッテは困りました。カロンと手を繋ぎ、メンテの入った鳥かごを持ったまま、途方に暮れてしまいました。ですが、カロンがそっとヘカッテを見上げ、ささやきかけました。
「ついて行ってみよう。私たちもついているから」
カロンのこの言葉を聞いて、ぬいぐるみとお花に何ができる、と、思ってしまう人もいるかもしれません。けれど、ヘカッテにとっては心強い言葉でした。なにせ、甘えたい盛りの年頃に一人ぼっちで両親のもとを離れてからずっと、ヘカッテによりそい続けたのはカロンとメンテなのですから。
ふたりの存在に背中を押され、ヘカッテは勇気を出してラダマントについていきました。この先が行き止まりであるはずなのは確かです。月のつららもありませんし、ヘカッテがそちらの道を通る事があるとすれば、迷宮でいなくなってしまった誰かをさがしている時くらいのものです。ですので、ラダマンテについていって、突き当りが早くも見えてきた時には、何と言って説得しようかずっと考えていました。
ところが、ラダマントは迷いなく壁へと向かって歩いていってしまいました。
「ラダマントさん?」
ヘカッテが思わず声をかけてみたその時でした。魔女であるヘカッテにとっても不思議なことが起こりました。ラダマントさんが岩の壁に触れた瞬間、すっと、その先に道が現れたのです。
「えっ」
ヘカッテは驚きながら近づいて行きました。目の錯覚だったのでしょうか。どうやら行き止まりだと思っていたその先に道が続いているようです。
「知らなかった。こんなところに道があったなんて」
思わず呟くヘカッテを、ラダマントは振り返りました。
「おや、そうなのですか。私はこの先から来たんです。ナナシの怪物のせいであの場所まで迷い込んでしまったのですけれどね」
そう言いながら、彼は先へと進みました。こんな近くに、こんな変わった場所があるなんて。そう思いながら、ヘカッテもまた続きました。
歩み始めてすぐ、ヘカッテはさらに驚きました。周囲できらめく鉱石も、月光を反射する鏡の形も、すべてが真新しいものだったからです。どうやらここはヘカッテが普段歩む道とはだいぶ違うらしい。図書館の本にも載っていない未知なる世界のようでした。
「ねえ、ラダマントさん。このあたりはなんという場所なの? あの小さな光はなに?」
と、ヘカッテが指さしたのは、迷宮の隅っこでキラキラと輝く光の群れでした。鉱石がいくつか集っていて、月光をそれぞれ反射しているのでしょうか。それにしては不思議な輝きです。炎の揺らめきのように光っていました。それを見て、ラダマントは、ああ、と、小さく声を漏らしてから答えました。
「あれはですね、ドクロネズミたちの集落ですよ」
「ドクロネズミ?」
初めて聞く名前にヘカッテが首を傾げたその時、ちょうど小さな光の中からヘカッテの親指くらいのサイズの生き物たちが現れました。小人のようにお洋服を着たその生き物こそが、どうやらドクロネズミというものらしいです。
なるほど、確かにそのお顔はドクロで隠れていて、お洋服を着た体はふっくらしたネズミのもののようでした。複数でチュウチュウと会話している様子から、ただのネズミではないことが分かりました。きっと迷宮に暮らす知能の高い魔物なのでしょう。
「この辺りの小さな世界で暮らす方々です。あまり余所者とは交流しないようですが、こちらが何もしなければ、あちらも何もしてきませんよ」
そう言って、あっさりと先ヘと進むラダマントに、ヘカッテは慌ててついて行きました。図書館の本にはドクロネズミなんて紹介されていませんでした。きっとまだ迷宮の本を出す学者さんたちが、ドクロネズミの研究を進めていないのかもしれません。
ヘカッテは少し心細くなってしまいました。どうやらこの道は、自分の知識にないことが待ち受けているらしい。そう分かって来たからです。
このヘカッテの不安は当たりました。ラダマントと共に進む先で次々に待ち受けているものが、いずれも知らないものばかりだったのです。
火の玉コウモリに胞子のお化け、虹色ナメクジに月光タマムシなどなど、はじめて聞く名前ばかりラダマントの口から飛び出してきます。図鑑では見た事もない生き物ばかりで、初めて目にするたびに、ラダマントから安全なのかどうかを聞かねばならないほどでした。
幸いなことに、いずれの生き物もおとなしく、襲ってくることはありません。ですが、ヘカッテは段々と心配になっていきました。
ここまでくれば、もう疑いようもありません。きっとラダマントの言う通り、暗闇ホタルの国はあるし、ナナシの怪物というものもいるのでしょう。
恐ろしいのはナナシの怪物です。モノ探しの怪物と比べて、どれだけ厄介で恐ろしいものなのでしょうか。緊張しながらヘカッテは、カロンの手をぎゅっと握りました。カロンがヘカッテの不安に気づいているかどうかは分かりません。ただ、ヘカッテに答えるように、彼もまたぎゅっと握り返してくれました。
さて、進んでいくにつれ、道は段々と暗くなっていきました。月光を反射させる鏡が一部壊れているようで、光が少々乏しくなっていたのです。
しかし、この暗がりこそが、暗闇ホタルの国が近い事の証だったようです。途中で見つけた月のつららの傍で休憩をしながら、ラダマントは興奮気味にそう言った話をヘカッテたちにしました。
「ヘカッテさんたちは、妖精たちの国ランプラをご存じですか?」
ランプラとは、いつも郵便配達をしてくれるモルモとラミィの暮らしている国です。
「ええ、勿論」
「あそこの郵便局にお世話になっているからね」
ヘカッテがうなずいた後で、ひげをなでながらカロンがそう言うと、ラダマントは帽子を揺らしました。どうやら何度も頷いているようです。
「ご存じの通り、あそこはふんわりとした優しい光に包まれた国ですね。あの光はもちろん月の光も多少はあるのですが、妖精たちが発する光の影響もあるのですよ。暗闇ホタルの国も少し似ていて、暗闇ホタルと呼ばれる妖精たちが、自分たちの発する光を頼りに暮らしているんです」
「初めて聞いたわ」
ラダマントの説明に、ヘカッテは眉を寄せてしまいました。
「図書館にあった『迷宮冒険記』には暗闇ホタルなんて書かれていなかったもの」
すると、ラダマントは手袋をはめた両手を合わせて頷きました。
「そうでしょう。それに、迷宮を研究する学者先生たちも、まだお越しになっていないようです。というのも、迷宮は広すぎますからね。あいにく、暗闇ホタルの国のそばには、知らない事を探ろうと奔走するような研究者というものがいないのです。かわりに、僕のような旅人はたくさんいるんですけれどね」
表情は見えずとも、照れたように言うラダマントに、ヘカッテもまたくすりと笑いました。そして、ふと、両親から貰った手紙の事を思い出したのです。
──『知らない事』に気づいたとき……か。
ラダマントと出会わなければ、暗闇ホタルはもちろん、ドクロネズミも、火の玉コウモリも、胞子のお化けも、虹色ナメクジも、月光タマムシも、知らないままでした。
知らなくたって、ヘカッテの魔女修行には関係なかったでしょう。けれど、知っているヘカッテと、知らないヘカッテでは、見える世界の広さが違ったのも確かです。
──こういう事、だったのかな。
納得と共にしばしの休憩を終え、ヘカッテたちは再び、ラダマントと一緒に暗闇ホタルの国を目指しました。暗闇ホタルの国まであと少し。ここまで平穏無事に進むことができたのは、まさしく幸運以外の何物でもありません。しかし、良い事というものは、なかなか続かないものです。あともうちょっとで暗闇ホタルの国が見えてくるぞという時に、ふとラダマントが歩みを止めたのです。
「どうしたの、ラダマントさん?」
ヘカッテが訊ねると、ラダマントは黙ったまま手袋のはまった手で行く先を指さしました。ヘカッテは視線をそちらに向けました。先程よりもさらに暗くなった道が続いているだけです。心細いけれど、何一つとして見えません。少し困って再びラダマントへと視線を向け、問いかけようとしたその時、ラダマントは震えた声で囁いてきました。
「あれです……あれがナナシの怪物です」
顔が見えずとも分かるその怯えた様子に、ヘカッテは慌てて前を確認しました。正面に左右、それに上下。目を凝らしたり、魔法で目の力を強くしたり、色々とためしながら、ラダマントの言う怪物の姿を見つけようとしました。でも、駄目です。どうしても、そのナナシの怪物とやらは見えませんでした。
「あ、あの、ラダマントさん」
と、ヘカッテが困惑しながら問いかけようとしたその時でした。ぐおおおお、と、大きな音が響きました。風の音でしょうか。しかし、猛獣の声にも似ています。もしかして、ナナシの怪物の声なのでしょうか。
「た、大変だ。気づかれてしまった。こっちに来る……」
焦りながら物陰に身を隠すラダマントに、ヘカッテも焦りました。けれど、どんなに焦ったところで、ラダマントの言うナナシの怪物の姿は見えないままでした。




