第48話 偽りの奇跡
暗い牢獄の中、俺はひたすら考え続けていた。
ここを出た後、何をなすべきか。
どう動くべきか。
ハンが俺の指示通りに動くのならば失敗はあり得ない――、そう自分を思い込ませて。
奴の実力は信頼しているし、采配の手腕も期待できる。
しかし、何が起こるか分からないのが運命だ。
失敗した時には、俺は潔く運命を受け入れるつもりであった。
過去の自分は悔やんだが、悔やむのはこれで終わりにしたかったからだ。
絶望に陥ることもなく、俺は身動きのない彫像のようになっていた。
そこへ耳慣れない足音が響いてくる。
ここを訪れる者は限られていて、そういう人間の足音は聞き分けられるようになっていたが、今近づいてきている足音は、初めて耳にするリズムだった。
(何か変化があったか……)
足音は扉の前で止まり、扉が軋む音を立てながらゆっくりと開く。
そこには光を背に暗い三人の影があった。
衛兵を従えた、枢機卿の服に身を包んだ一人の男。
だが、それは見覚えのない顔だった。
その男は俺に近づくと、労わるように肩に手を置き、口を開いた。
「セルベク司教枢機卿、もはや御身は自由の身です」
「お前は……誰だ」
俺は男を警戒しつつ、睨みつける。
「申し遅れました。私はレヒト枢機卿と申します。ハン大司教に通じる者……と、そう言えばお分かりでしょうか?」
(つまり、ハンに買収された人間ということだな)
そしてそれが意味することを、俺は理解した。
計画は成功しつつあるのだ。
「苦労を掛けたようだな」
「いえ、セルベク様ほどではございません。教会に裏切られた心中お察しいたします」
「なにほどでもない」
俺はさりげなく言う。
事実、当時教会が俺を裏切るのは時間の問題だったからだ。
それに対し、俺が甘く、足元をすくわれただけの話。
「すべての準備は整っております。あとはセルベク司教枢機卿御自身が、身だしなみを整え、民衆の前で演説するだけです」
「ソルデ教皇の言質は取っているのか?」
「もちろんでございます」
レヒト枢機卿は俺に向かって、ニヤリと笑った。
教皇庁の一角へと戻った俺は、レヒト枢機卿が勧めるままに、俺はゆっくりと湯浴みをする。
この半年間、味わえなかった感覚だ。
ゆるりと味わったところで、文句はあるまい。
ソルデ教皇の側近である四卿の使いが急かしに来るが、部屋の外で待機するレヒト枢機卿は、そのまま聞き流し、相手にしようとしない。
俺はそのやり取りを聞きながら愉快な気分になっていた。
俺を牢獄に閉じ込め、いい気になっていた者が今や慌てふためき、俺にすがりついているのだ。
状況はまさに、俺が画策したとおりになっている。
貴族たちが師弟として差し出した者たちは、良い人質となるだろう。
ラトス教の師弟関係では、師の言うことは絶対であり、逆らえば死後、天界の門は閉ざされるとある。
開祖もこうやって、絶対的な権力を手に入れていった。
商人たちからは国庫に値するほどの寄進が入ってきており、さらには国の穀物庫ともいうべきダガル州、ライゼル州を手中に収めた。
それはつまり、俺が封地の穀物をすべて廃棄せよと命令すれば、国民の大多数は餓死するしかないのだから、
ライツア五王国の国民全ての命を握ったと言っても過言ではない。
五王はそうならぬよう、俺に屈するしかないだろう。
皆、自らの首を絞めることになるとも知らず、自分たちの保身のためによく踊ってくれた。
そして、これからが最後の仕上げだ。
俺は真新しい枢機卿の衣服に袖を通し、髪をさっぱりとまとめる。
「さて、行くとするか……」
これから民衆の魂を操る術を施し、すべては完成する。
「レヒト枢機卿、扉を開けよ」
これから起こることに対する期待が、彼の表情にも見て取れた。
レヒト枢機卿は扉を開け、恭しく頭を下げる。
「セルベク司教枢機卿様、御身の時代の夜明けですな」
「レヒトよ。今後も俺に仕えるならば、栄華の一端をつかませてやろう」
俺は彼を見下げながら、言葉を投げてやった。
このレヒトという男が、ハンとは違った意味で使える男と直感で分かったからだ。
人間的な好き嫌いは、今の俺にとって不要な話。
これからはもっと多くの手駒が必要となる。
「ありがたき幸せ……! このレヒト、粉骨砕身し、必ずやセルベク司教枢機卿のお役に立ってみせます」
ハッキリと断言して言うレヒト枢機卿の言葉に、嘘偽りは感じられなかった。
俺が失墜しない限り、彼はどこまでも食らいついてくるだろう。
落ちた時は、すべてご破算。
だが、裏切られたところで何ほどにあろう?
俺はレヒト枢機卿の言葉に満足して、部屋を出る。
そしてようやく、ソルデ教皇が待つテラスへと向かったのだった。
半年ぶりに見たソルデ教皇は、随分年をとったように見えた。
顔には疲労の色が見え、眉間の皺は深く刻まれている。
「ずいぶんと湯浴みに時間をかけるな、セルベク司教枢機卿よ」
その苛立ちを隠そうともせず、ソルデ教皇が声をかけてくる。
「何せ、長きにわたり、石牢に閉じ込められていたものですから」
俺がすまして答えると、ソルデ教皇はぐっと言葉を飲み込み、舌打ちした。
「暴徒がすぐそこまで迫ってきておる! さっさと出て、鎮めてみせよ!」
テラスを指さし、ソルデ教皇は怒鳴るように言い放った。
「御意」
俺は不敵な笑みを浮かべて、ソルデ教皇に慇懃に返事をする。
今までの仕打ちを考えれば、これぐらいの行為をしても罰は当たるまい。
「くっ……!」
今の俺に機嫌を損ねられては困るソルデ教皇は、怒りを必死に堪えているようだった。
相手の足元を見て、優位に立てるというのは何とも楽しいものだ。
外の方からは、集まった民衆のものであろう。
「セルベク様を陥れた、教会の連中を許すな!」
「教皇は今すぐ退陣しろ!」
そんな教会や教皇に対する罵詈雑言の怒声が聞こえてくる。
俺はそれを耳にしながら、ゆっくりとテラスに足を運んだ。
開ける視界。
そして眼下には、民衆が広場いっぱい集まり、遠くからまだまだ詰めかけようとしようとする民衆の長蛇の列が見えた。
(さあ、ここで一世一代の大博打を打つ時。かつての開祖と同じ……。いや、それ以上かもしれんな)
ここで、失敗すればあとはない。
再び囚われ、今度は怒り狂ったソルデ教皇に極刑を言い渡されるだろう。
しかし、俺には十分に勝算があった。
俺は軽く息を吸い込み、息を整える。
体の緊張感を、心地よいプレッシャーに変える。
そして、俺はテラスの手すりに身を乗り出さんばかりに近づくと、怒鳴るのではなく、どこまでも通る声で語り始めた。
「神の敬虔なる信者である民衆よ! 怒りを鎮めよ! そして、私の言葉を聞いてほしい!」
俺の言葉に、民衆の何人かが教皇庁を見上げて、俺に気づく。
『英雄セルベク様だ!!』
『守護聖人様じゃ!!』
『セルベク司教枢機卿様!!』
その言葉は、瞬く間に集まった人々の間に伝播し、人々は口々に俺の名を叫び、連呼する声が響いた。
それは教皇庁の敷地内にこだまし、遥か上から見下ろす俺にまで、大きく聞こえた。
俺は彼らに向かってゆったりと手を振り、その声を制した。
それを見た民衆たちは連呼をやめ、一転、広場は水を打ったような静けさに包まれる。
「敬虔なる信徒諸君、私は一度死んだ。それは教皇庁が発したように、異教徒との戦いで命を落としたのだ。故に、教会に責任はなく、私自らの運命によって天に召されたに過ぎない。だからその怒りを鎮めてほしい」
俺は慈悲のこもった優しい笑顔で民衆に伝える。
『セルベク様……』
『お労しい……』
集まった民衆は、先ほどとは打って変わって、俺の境遇に嗚咽を漏らしながら、つぶやく。
後ろに控えるソルデ教皇が、暴徒が静まる様子を見てほっと息を吐いた。
しかし、次の俺の言葉にぎょっと目をむくことになる。
「私は、死して天界の扉をくぐり、神の御膝元まで行った。その時に神はこうおっしゃられた。『我が子よ、
よくぞ今まで下界で頑張った、これよりはわしの膝元で休むとよい』と」
この言葉に民衆がどよめく。
俺が神の子であるという言葉に。
そして、訳が分からないという顔するソルデ教皇を尻目に、俺は粛々と言葉をつないだ。
「私は神である父の言葉に従おうかと思ったが、地上で苦難にあえぐ信徒を見捨てることができなかった。そこで、父に言ったのだ。『どうか父に逆らう不幸をお許し下さい、父上と安らかに過ごしたいとは思いますが、地上で苦しむ同胞を見捨てることはできません。どうか地上に返してください』と。すると、神である父は悲しそうな顔をされたが『さすがはわしの息子よ。地上の者たちを救い、天界に導くがよい』とおっしゃられ、私を奇跡により生き返らせてくれた」
そう語り終えると、俺は振り返り、ソルデ教皇に向かってにやりと笑いかけた。
「その奇跡の一部始終をソルデ教皇もご覧になられていた……。そうですね?」
俺の言葉に絶句するソルデ教皇。
そして、しばらくすると顔を真っ赤にして何か叫ぼうとするが、すぐさま口を閉じる。
ソルデ教皇の背後には、ハンが司教服の下から隠し持ったナイフを突きつけていたからだ。
レヒト枢機卿の手引きにより、すでにハン以下、多くの部下が入り込んでいる。
ソルデ教皇は不服そうな顔をしながら、ハンに押されるまま、テラスに出て来て宣言する。
「信徒よ、余は確かに見た。大聖堂に突然強い光が降り注ぎ、気づくと聖台の上には、セルベク卿が眠っておった。まさしく神の奇跡と、その時、余は確信した」
命惜しさに、嘘をつくソルデ枢機卿。
声だけはいつもと変わらないが、顔は屈辱と苦悶に歪んでいた。
だが、ソルデ教皇の言葉が終わると同時に民衆の声が一気に爆発する。
『セルベク様!!』
『セルベク様は神の子じゃったのか!!』
『我らを救いに来てくれた救世主様!!』
地面が揺れるほどの歓声。
熱に浮かされた人々は言葉にならない声を上げ、俺の名前を連呼する。
感動のあまり泣き崩れる者も多くいた。
集まった人々は、もはや狂気にといってもいいような、異様な熱気に包まれている。
鳴りやまない歓声を耳に、ふと振り仰ぐと、雲の切れ間からは高貴な光が地面へ、そして俺へと降り注いでいた。
俺はこの瞬間、神の子となった。




