29. 僕のことで傷つかないでください
リンソーディアとクライザー、そしてヴェルフランドの三人が対面する。クライザーは素早くヴェルフランドの背後にある牢の中を確認した。
ソティーリオがいたはずの牢は空っぽになっていた。その代わり、鍵が開け放たれた牢の前にヴェルフランドが立っている。
「リオならとっくに外に逃がした。さすがに筋力が落ちまくっていて歩くのも大変そうだったが、介助人がいるから大丈夫だろ」
介助人という言葉にリンソーディアが目を瞠った。てっきりヴェルフランドが単身で乗り込んできたとばかり思っていたが、違ったらしい。しかし一体誰を連れてきていたのだろうか。ニールとかそのあたりか。
それと同時に、本当に兄が生きていたのだとわかって泣きそうになった。ヴェルフランドの言葉からしてもまず間違いないだろう。
あの絶望的な戦場でも、この日の当たらない地下牢でも、兄は生き延びていてくれたのだ。
しかし安堵したのも束の間、リンソーディアの全身がざわりと総毛立った。
目の前でふたつの殺気が激突した。ひとつはクライザーの、そしてもうひとつがヴェルフランドのだ。
「まだ、生きていたのか……どこまでも僕の神経を逆撫でする男だ」
「お互い様だな。お前とは分かり合える気がしないという一点のみでは意見が一致しているようだが」
ソティーリオに逃げられたことよりも、ヴェルフランドが生きて目の前に現れたことのほうが、クライザーにとってはよっぽど許せないことだったらしい。普段は温厚な瞳が、激しい怒りを宿して燃え盛っている。
見張りの兵士たちが軒並み昏倒して縛り上げられているのを見た時点で、クライザーはまさかとは思ったのだ。しかし蟻一匹すら入る余地のない鉄壁の守りを敷いているこの皇宮に、いかなヴェルフランドといえども侵入できる余地などない。侵入できたとしても、痕跡ひとつ残さずにそんなことができるはずもなかった。それなのに。
クライザーは憎々しげにヴェルフランドを睨みつけた。不可能に思えることを、いつだって軽々と成し遂げてしまう天才。どれだけ努力しても、どれほど成果を上げたとしても、遥か高みからこちらを見下ろしてくる男。
「フラン様……」
クライザーの後ろにいたリンソーディアが小さな声で呼びかけた。するとクライザーはバッと振り返って彼女の体を抱きしめる。視界が遮られる形になった彼女の肩がびくりと跳ねた。
「ダメです、リンソーディア様。見ないでください」
「離してください、クライザー殿下。彼は私の大事な……」
「嫌です。だって彼と会ってしまったら、あなたはきっと彼のところへ行ってしまう」
悲痛なクライザーの声に、リンソーディアは押し黙った。……彼の言うことは正しい。いつだって、何度だって、リンソーディアは選ぶのはクライザーではなくヴェルフランドなのだ。
カタカタと、クライザーの体が小さく震えていた。先ほどまで凄まじい殺気をヴェルフランドにぶつけていたのとはまるで別人だ。そのくらい彼はリンソーディアを失うことを恐れているのだ。こんな些細なことで人が変わってしまうくらいに。
「リンソーディア様……どうか僕の妃になってください」
謁見の間では聞かずにすんだその言葉を、皇宮最下層の地下牢で聞くことになるとは。
「あなたが僕を愛していないことくらい、知っています。ここへ来てくれたのだって、直接僕に会って断るためだったんでしょう。そのくらい察しています。でも」
抱きしめる力が強くなる。リンソーディアは眉根を寄せた。クライザーから寄せられる本気が、体を締めつけられる力よりもずっとリンソーディアを困らせた。
ヴェルフランドは腕を組んで二人の様子をただ見つめる。クライザーはこちらに背を向けっぱなしだったが、無防備なその背中を斬ろうとは思わなかった。その必要がなかったからだ。今はまだ。
「それでも僕は、あなたを妃にします。あいつを殺してでも」
「――っ!」
リンソーディアが息を呑む。それと同時に、クライザーが腕をほどいた。止める間もなく、彼はヴェルフランドに斬りかかる。
ギン、と凄まじい音がした。剣と剣の間に火花が散るのを、リンソーディアは確かに見てしまった。
ヴェルフランドは顔色ひとつ変えずに、片腕だけでクライザーの一撃を防いでいた。クライザーはヴェルフランドを睨めつける。視線だけで人を殺せそうなほどの強い目だった。
「君がいる限り、リンソーディア様は絶対に僕のものにならない……!」
次々と繰り出される、その一撃一撃が重かった。応戦していたヴェルフランドも途中から真剣な表情になる。
ここまでの強敵は久しぶりだった。彼が両手で剣を操って応戦するほどの敵などそうそういない。クライザーほどの強敵が、本気で、全力で、殺す気で剣を振るうのだ。いくらヴェルフランドといえど、一歩でも読み間違えれば確実に死ぬ。
それでもヴェルフランドはクライザーに一言もの申したい気分だった。殺されることになったとしても、これだけは言っておかねばなるまい。
「……勘違いも甚だしいな。俺がいなくたって、ディアはお前のものにはならないぞ」
「そんなこと――!」
思わぬ力に押し負ける。ヴェルフランドは舌打ちをして、大きく後ろに飛び退いてクライザーから距離をとった。
「――そんなこと、ずっと前から知っている!」
敵味方関係なく、すべてを滅ぼし尽くす破滅の皇子クライザー。ヴェルフランドは覚悟を決めた。手加減すればこちらが死ぬ。ならば。
目の前のクライザーに全神経を集中させていたヴェルフランドは、リンソーディアの動きに気づいていなかった。だから、風のようにひゅっと自分たちの間に割って入ってきた彼女が、なにをしたのか。……瞬時には、把握できなかったのだ。
「ぐぅっ……!」
クライザーの動きが止まる。彼の後ろにいたはずのリンソーディアが、いつの間にか前に来ていて、そしてその手には短剣が握りしめられていた。
その切っ先は、ぶすりとクライザーの胸を貫いている。
クライザーはその短剣を見つめて、目を見開いた。短剣かと思ったが、これは……。
「鉄、扇……」
その名の通り、鉄でできた扇。畳めば鈍器としても使えるし、先端が刃物のように尖っているので短剣の代わりとしても使える。広げれば即席の盾にもなるし、羽根を一枚一枚バラすと飛び道具にもなる。
謁見にあたり、リンソーディアが所持していた武器は残らず没収されていた。しかし淑女の嗜みとして持つ扇は没収されずにすんだのだ。目ざといキリアンならば気づいただろうが、あいにく身体検査をしたのは同性である女性騎士だった。だからこそ扇は見逃されたともいえる。
弓も剣も短剣も槍も、どんな道具も人並み以上には使えるリンソーディア。だが一番の得物はそのどれでもなく、他でもないこの鉄扇だったのだ。
「ディア!」
血相を変えたヴェルフランドが、自分の剣を投げ捨ててリンソーディアの肩に手をかけた。
「もういい、手を離せ! 殺したくないって言っていただろう!」
すぐそばにいるはずのヴェルフランドの声が、やけに遠くで聞こえた。
脳裏で、いろんな人の声がごちゃまぜに聞こえてくる。
『いやー、殺さないあたりディアちゃんは十分優しいと思うよー』
『殺したくなかったから、殺さなかった。それでいいんだ。その感覚を忘れんじゃねーぞ。それはきっと、いつかお前のためになるからな』
『――その時は、俺があいつを殺しに行く。たとえお前に永遠に嫌われることになったとしても』
殺さなくていい。そう言ってくれた人たちのことを思って、胸が苦しくなった。
戦場では数えきれないほど人を殺めておいて、本当に今さらだ。それでもクライザーを殺したくなかったこと、今まで殺さずにすんでいたことで、リンソーディアは確かに救われていた。まだ自分にもその感情が残っていることに、安堵していた。
でも、もう。
「リ、……ソ……ディア、様……」
「……あなたのことは、別に嫌いではありませんでした。初めて顔を合わせたあの日からずっと。できれば殺したくなかった。今も」
殺したくなかった。本当に。
でも決めていた。迷いの森でひとり星を眺めていたリンソーディアを、ヴェルフランドが迎えに来てくれたあの夜に。
全部この手で終わらせよう。たとえそれでクライザーを殺すことになったとしても。自分の気持ちを自分で裏切ることになったとしても。
大切な幼なじみの命を狙うあの人を、好意を寄せてくれているあの人を、この手で終わらせよう。
ヴェルフランドのためにとは、言いたくなかった。大切な彼を、人を殺す理由にはしたくなかったから。
「ディア!」
ヴェルフランドの手が、鉄扇を握るリンソーディアの手に重なった。貼りついたように離れなかった手が、あっさりと外れる。
クライザーがどさりと床に膝をついた。リンソーディアの体も力が抜けたようにぐらりと傾ぐ。それを彼女の背後にいたヴェルフランドが受け止めた。
「……フラン様……」
「…………」
「全部、なくしちゃいました……」
アイザックに言われてからずっと、大切にしていた心。
……どうしてクライザーのことは殺したくなかったのだろう。あれからリンソーディアは何度も考えた。
別にクライザーのことには興味も関心もない。死んだところでどうでもいい。それなのに、殺すのは嫌だなんてどういうことだろう。
考えて考えて、そうして今になって、ようやくリンソーディアはひとつの結論に辿り着いた。
クライザーは、初めて出会った頃のヴェルフランドに少しだけ似ていたのだ。心も感情も、人としての倫理観も欠落していた、あの頃のヴェルフランドに。
皇室図書館で一人きり、無表情で一言も言葉を発さず、ただ黙々と大量の本を読み漁っていた人形のような少年。積み上げた何百という本に囲まれていた彼は、ゼンマイ仕掛けの人形のようだった。誰かがネジを巻いてやらないと、永遠に動かなくなってしまいそうな危うさがあって。
「大丈夫だ。お前はなにもなくしていない」
後ろからぎゅっと抱きしめられた。背中から伝わる体温に、かつてゼンマイ仕掛けのようだった少年が、本当に温かみのある人間になったのだと知れて。
血を流したクライザーの口から苦しそうな息が漏れる。は、は、と息をしながら、クライザーが顔を上げた。
「……ヴェル、フランド」
呼ばれて、ヴェルフランドはクライザーに目を向けた。
「悪いけど、この鉄扇を抜いてくれないか」
「出血が酷くなるぞ」
「構わない。これはリンソーディア様の大切な武器だ。お返ししないと」
青ざめた顔のリンソーディアが、苦しげに笑うクライザーを見つめる。彼女からの視線に、クライザーは満足そうに笑みを深めた。
「この傷も、痛みも、死すらも僕のものです。あなたは僕からはなにも受け取らない。でも僕は、あなたから与えられたものは全部受け取る。……だから、泣かないで」
言われて初めて気がついた。リンソーディアは泣いていた。あまりにも静かに涙を流していたものだから、背後にいたヴェルフランドも気づかなかった。気づいたのは目の前にいたクライザーだけ。
息をするのも苦しいはずなのに、クライザーは言葉を続ける。飛びそうな意識と霞んでいく視界を必死に繋ぎとめながら、リンソーディアの姿をその目に焼きつけようと真摯に見つめた。
「僕のことで傷つかないでください。僕はあなたに惜しまれるほど上等な人間じゃないし、あなたもそれを知っているはずだ」
「クライザー様」
「あなたに出会えて良かった。それだけで生きてきた価値があった」
リンソーディアの顔が歪んだ。彼女が浮かべるどんな表情も、クライザーにとっては新鮮で愛おしかった。
「……私も、そんな上等な人間じゃないのに」
「はは、それならお揃いですね。ああ、もっと早くあなたに出会えていたら。できるならヴェルフランドよりも先に出会いたかった」
ヴェルフランドは無言でクライザーに近寄ると、その胸から鉄扇を引き抜いた。思わず「うっ」と呻いてしまったが、予想外に痛みが少ない。これは恐らくヴェルフランドが上手かったというより、クライザーが痛みを感じられなくなってきているのだろう。
意識が遠のく。体が床に倒れ込むのを、意外なことにヴェルフランドの腕が支えてくれた。笑って振り払いたかったが、もうそんな力は残っていなかった。屈辱。
そんなことを考えていたら、不意にあたたかいものがクライザーの手を包み込んだ。驚いてそちらを見ると、リンソーディアの手だと気づいた。
「忘れな――でください、クラ――ザ――様。あな――の――そばに――よりも――う――がいる――を」
せっかく彼女がなにかを言ってくれているのに、クライザーの耳はもう上手く機能してはくれなかった。けれど彼女の声も、言葉も、大事に貰っていくことにした。
クライザーは目を閉じる。さすがに血を流しすぎた。少し眠ろう。そもそも目が覚めるかどうかも怪しいところだけれど、まあ、……いいだろう。




