27. まさか誰も死んでいないとは
応接間にぴりっとした緊張が走った。パトリシアは真剣に、彼女の後ろに控えていたキリアンたちは、威圧するような目でヴェルフランドを睨みつけている。
けれど彼らとまともにやり合う気などないヴェルフランドは「さあな」と答えただけだった。途端にいきり立った護衛たちがヴェルフランドを取り囲む。
「貴様、妃殿下に対して無礼だぞ!」
「亡国の皇子風情が何様のつもりだ!」
躊躇いなくヴェルフランドに剣を向けた護衛たちに、キリアンが慌てて「やめろ、彼に剣を向けるな!」と叫んだ。しかしその警告も間に合わず、護衛たちは凄まじい殺気に当てられて全員がその場に凍りつく。
永久凍土のように冷たい双眸が護衛たちを真っ向から捉えた。まるで獲物を捕捉した百獣の王を前にしているかのように、誰も動けない。声すら出ない。
「……つまらん連中だな。その程度でよく皇太子妃の護衛など務めているものだ。よっぽどの人手不足か、あるいは俺たちが舐められているのか」
今、指一本でも動かせば、殺される。気を失いたくなるほど極限の緊張感。
それなのに、今にも跪いてしまいそうなほどの、圧倒的な覇者の雰囲気がそこにはあった。さすがに主君以外に膝をつくほど愚かではない護衛たちだったが、一瞬でも気を抜けばその場にひれ伏してしまいそうなほど、支配されたいという狂った感情が呼び起こされる。
ヴェルフランドは目の前で小刻みに震えている剣先を一瞥すると、素手で無造作にその刃を押し返した。剣を構えていた護衛たちはぎょっとする。
しかし、ヴェルフランドの手から血が流れることはなかった。手が切れない角度で、そして絶妙な力加減で押し返しているからだ。
「いつもなら俺に剣を向けた時点で全員の首を落としてやっているんだがな。そこの妃に免じて一度だけ見逃してやる。……今すぐ剣を下ろせ。そうすれば殺さない。今はまだ」
ヴェルフランドがそう言えば、ほとんど反射のように護衛たちが一斉に剣を下ろした。全身から冷や汗がどっと吹き出る。へたり込みそうになったが、そこは護衛としての矜恃で必死に踏み留まった。
キリアンは深く息を吐いた。この場にいるウィズクローク勢の中で、彼だけはヴェルフランドに剣を向けることの恐ろしさを知っていたのだ。
パトリシアがいなければ、本当に、あの瞬間に、護衛三名の首は落ちていただろう。しかし助かったと思う反面、キリアンは疑問に思った。……どうしてパトリシアに免じて、などとヴェルフランドは言ったのか。
「……あなたが思い留まるところを初めて見ましたよ、ヴェルフランド・セス・アークディオス」
「正当な理由さえあれば俺だって思い留まるさ。まあ、そこの妃がチェザリアンでディアを助けていなければ、お前たち全員とうの昔に皆殺しにしていたがな」
早まった護衛たち三名だけではなく、キリアンとパトリシアの首も落とすつもりだったらしい。皇太子妃を暗殺する気かと言いたかったが、ヴェルフランドならば躊躇いもなくやるのだろう。たとえそれで残りの人生の全部を逃亡生活に費やすことになったとしても。
助ける理由があるから助けるように、殺す理由があるから殺すのだ。少なくともヴェルフランドは理由なく人を殺したことなど一度もなかった。クライザーとは違って。
「……ご温情に、感謝いたします」
かすかに震える声でパトリシアがそう言った。そういえば彼女の場合、本気の殺気を向けられること自体が初めてだったのではなかろうか。よりにもよって初めての体験がヴェルフランドによる超弩級の殺気だったあたりトラウマにでもなりそうだが。
「ですが、わたくしも手ぶらで帰ることはできません。なんとしてもリンソーディア様をクライザー様のもとへお連れしなくては。どうか、リンソーディア様に会わせてはいただけませんか」
「…………」
ヴェルフランドは感心した。どうやら彼女は思った以上に図太い神経の持ち主らしい。それはそれで結構なことである。
「クライザーのところに行くかどうかはディアが決めることだ。行くなら俺は止めないし、行きたくないならそう言うだろう。お前たちがなんと言おうと、決定権はディアにある。クライザーはそのことを分かっていない」
あの手この手でリンソーディアを手に入れようとしているクライザーだが、果たして彼がリンソーディアの意思を尊重しているかに関しては甚だ疑問なところであった。
どんな手段を使ってでも手に入れたい何かがあるというのは、悪いことではないとヴェルフランドは思う。だがその対象がリンソーディアということであれば、少し話が違ってくるのだ。
「まあ、そのあたりの詳しいことは本人に訊けばいい。少なくとも逃げるつもりはないようだからな」
「は?」
キリアンが眉をひそめたのと、応接間の扉が開いたのとはほぼ同時だった。
「……おや、これは奇遇ですね。ご機嫌麗しゅうございます、パトリシア様。と、お付きの皆様」
そこにいたのは仮面の微笑みを浮かべたリンソーディアだった。丁寧な物腰とは裏腹に、口調はどこか慇懃無礼で演技じみている。
なぜかスコップ持参でやってきた彼女は、ヴェルフランドのそばまで来るとぐるりと室内を見回した。そして意外そうに目を丸くする。
「血の匂いがしないのでもしやとは思いましたが……予想外ですね。まさか誰も死んでいないとは」
「お前は一体なにを想定していたんだ?」
「もちろんフラン様に殺された方々の死体の処理についてですよ。でもこの分だと必要なかったようですね」
彼女がスコップ持参でやってきた理由がなんとなく察せてしまって嫌である。キリアンが顔をしかめた。証拠隠滅だか死体処理だか知らないが、どちらにせよまともではない思考回路だ。
使わなかったスコップを使用人に渡したリンソーディアは、ソファーに腰かけて呆気に取られた顔をしているパトリシアに近づいた。そして完璧なまでの淑女の礼を披露してみせると、パトリシアも顔をほころばせる。
「チェザリアンでお会いした時にはあまり友好を深めることができず残念に思っておりました。こうして再びお会いできて嬉しく思います」
「わたくしもよ、リンソーディア様。思っていたよりもお元気そうで安心しました。また会えて本当に嬉しいわ」
普段よりも幾分くだけた口調のパトリシアに、ウィズクローク勢は少なからず驚いたような顔をした。彼女たちの会話からも窺えることだが、確かに二人の間にはそれなりの信頼関係があるように見える。
友人とまではいかなくても、お互いに合う合わないくらいは短時間の交流でも察し合えるものだ。リンソーディアとパトリシアの場合は、あの短いお茶会で「友人になりたかった」と思えるくらいには馬が合ったのだろう。
女性二人が再会の挨拶を交わすなか、キリアンは人知れず溜め息をついていた。
……隙あらばヴェルフランドを始末しようと思っていたわけだが、この感じだと絶対に無理だった。先ほどの覇気に当てられて未だに指先が震えているのだ。
とりあえず今回はリンソーディアの確保に集中しよう。ヴェルフランドの暗殺は、また別の機会を窺ったほうが良さそうだ。
「ところでパトリシア様。このような辺鄙な村までわざわざ足を運ばれたのは、わたくしに会うためだと聞きました。わたくしになにかご用でしょうか?」
訊くまでもないことだと思いつつ、リンソーディアは一応尋ねる。そして返ってきた答えは、やはり予想通りのものだった。
「迎えに来たのですわ。リンソーディア様、わたくしと一緒に皇宮へ参りましょう」
「皇宮……」
「ええ。といっても、ウィズクロークの皇宮ではなく、かつてのアークディオス皇宮のほうに向かうことになりますわ。クライザー様は現在そちらを拠点に活動されていますし、リンソーディア様にとってもそちらのほうが馴染み深いでしょう?」
アークディオス皇宮。確かに、馴染み深い。いい思い出も悪い思い出もあるという意味で。できればもう二度と足を踏み入れずに済めば良かったのだが。
複雑な気持ちでいると、背後からヴェルフランドの視線を感じた。気遣わしげなそれに、わだかまっていた感傷が一気に馬鹿馬鹿しくなってしまった。
皇宮自体は、悪い場所ではないのだ。そこで起きたいろいろな出来事を、リンソーディアがどう思っているかが問題なだけで。
そう、いい思い出も、確かにあったのだ。それこそヴェルフランドと初めて出会ったのも、皇宮内にある皇室図書館だったのだから。
「……アークディオス皇宮ですか。確かに懐かしいですね」
「また一緒にお茶したいわ。リンソーディア様のお気に入りの場所はどこだったのかしら?」
「しいて言うなら皇室図書館でしょうか。でもお茶をするには不向きな場所なので、パトリシア様のおすすめの場所でご一緒させていただければ嬉しいです」
ウィズクローク勢が村に来てから初めて穏やかな空気が流れた。けれどそれも一瞬で霧散する。
リンソーディアが来てからもずっと黙って成り行きを見守っていたサラサエル博士が、ここにきて突然口を挟んだのだ。
「あー、ちょっといいかな? いや、そもそもこの家の家主はボクだから、発言の許可を得る必要なんてないのかなあ」
「なにブツブツ言ってるんですか博士。言いたいことがあるならどうぞ」
「うん。あのさ、なんか駆け引きみたいなのしているところ悪いんだけど、結局ディアくんはこの村から出ていくって流れでいいのかな?」
その場にいる全員の顔が引きつった。白黒はっきりさせたい研究者気質ゆえの発言だと分かってはいるが、決定的な明言を避けていた貴族的会話の結果がこれである。リンソーディアは凍りつきそうな笑顔のままギギギと博士に顔を向けた。
「博士、村長としてはっきりさせたいのは分かりますが、もう少し空気を読んでください」
「うーん、村長としてというより、好奇心で訊いただけなんだけど」
「なるほど。さすが腐っても研究者ですねえ。でも好奇心は猫も殺すらしいので、くれぐれも気をつけてください」
それを聞いて押し黙ったのは博士ではなくヴェルフランドだった。同じようなことを以前リンソーディアの兄に言われたことがあるのだ。似なくていいところまでよく似ている、タチの悪い兄妹である。
「パトリシア様、出立はいつになさいますか」
リンソーディアが訊くと、パトリシアはキリアンに視線を送った。それを受けてキリアンがこほんと咳払いをしてから半歩前に進み出る。
「できるならば今すぐにでも。そうすれば日が沈む前にここから一番近い街に到着できますので、馬車で夜を過ごすことは避けられます。そして翌朝出発し、順調にいけばその日のうちに帝都の端にある街には辿り着けるでしょう。そこでもう一泊したのち、皇宮へ向かう予定となっております」
キリアンの説明に、リンソーディアは思わず首を傾げた。……皇宮を落ちて迷いの森へ逃げ込んだ時のことを考えると、皇宮まで二泊三日というのはいささか遅すぎる気がする。
しかし馬車を連ねての道行きであるし、なによりパトリシアに負担のない速度を考えるとこれでいいのだろう。リンソーディアは納得した。
「そうですか。じゃあもう出発しましょう」
「ではリンソーディア様、すぐに荷物をまとめてください」
「いえ、結構です。持っていくものなどありませんので」
あっさりとしたリンソーディアの答えにパトリシアが心配そうな顔になる。キリアンも解せぬという表情を浮かべた。
「いいんですか、リンソーディア様? クライザー様の妃になった暁には、もうこの場所には帰ってこられないかもしれませんよ。大切な持ち物があるなら持っていったほうがいい」
「そうですか? では……」
リンソーディアは真顔でキリアンに問いかけた。
「フラン様を持っていくことは可能ですか?」
「天地がひっくり返っても不可能ですね」
にべもなく即答するキリアンである。なお持ち物扱いされたヴェルフランドは、喜べばいいのか悲しめばいいのか怒ればいいのか分からず、結果的にいつも通りの無表情を貫いていた。
「ならいいです。家になにかを取りに戻る必要はありません。いつでも出発できます」
実際、リンソーディアの持ち物は極めて少ない。武器と水薬と塩だけ持って皇宮から脱出し、レーベルト伯爵家からもらった背嚢ひとつでチェザリアンから脱出したのだ。洋服などの個人的な持ち物は、ヴェルフランドの荷物と合わせても鞄ひとつに収まる量しかない。
だから代わりのきかないものなんて、いつも隣にいた幼なじみくらいだった。それを持っていけないというのなら、他に持っていくものなんてひとつもない。
「そうですか。ではパトリシア様、少し強行軍になってしまいますが、すぐに出発したいと思います。よろしいでしょうか?」
「リンソーディア様が良いのであれば、わたくしに異論はありません」
キリアンが護衛たちに指示を出すと、彼らのうちの一人が足早にサラサエル邸から出ていった。恐らく村の入り口のところで待機させている馬車と、他のウィズクローク兵たちを呼びに行ったのだろう。
リンソーディアはくるりと振り返り、無表情の幼なじみに笑いかけた。ちょっと失敗した笑顔になってしまったが特に問題ないはずだ。
いま行かなければ、次こそクライザー本人が乗り込んでくるに違いない。パトリシアが派遣されているうちについて行ったほうがまだマシだろう。あの男は人探しと村狩りの区別がついていない気もするし、行かなければ関係ない村人たちの命まで危うい可能性もある。
ついに離れ離れになる時がきたのだ。覚悟していた日が来ただけ。……それだけだ。
「フラン様、あとはよろしくお願いします」
「ああ」
なにを、とは言わなかった。言わなくても分かることだった。
そうしてリンソーディアは、パトリシアと一緒にサラサエル村をあとにした。




