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25. ならば私も、あなたのために


 最近、村の小さな女の子たちがしきりに「お姉ちゃん、お姫様みたいね」と言ってくる。そのたびにリンソーディアは無難に「ありがとうございます」と笑顔で返していた。変に否定すると周りの大人たちに訝しがられるだろうし、かといって照れるような性格でもない。



「いやそれ、おかしくないか?」



 だからヴェルフランドにそう言われたとき、始めは喧嘩を売っているのかと思い、彼をじろりと睨んでしまった。



「どこがおかしいんですか。ふっ、どうせ私は戦場でしか姫と呼ばれなかった血の公女ですよ。すいませんねえ、お姫様ってガラじゃなくて」


「なに急にやさぐれてるんだお前は……。俺が言っているのはそういうことじゃなくてだな」



 なにやら自虐的なリンソーディアだが、美人など掃いて捨てるほどいたアークディオス皇宮の中でも、彼女の美貌と品位の高さはいつでも際立っていた。

 たとえドレスを着ていなくても、たとえ戦場の最前線にいたとしても、彼女の品位が損なわれることなど決してない。幼なじみの贔屓目抜きで、リンソーディアは名実ともに姫と呼ぶにふさわしい人物だった。それはヴェルフランドが一番よく知っている。……けれど今は。



「お前、村人たちの前で眼鏡を外したりしたか?」


「まさか。もはやこの瓶底眼鏡は私の顔の一部で……あ」



 ようやくリンソーディアも気がついたらしい。急に難しい顔で黙り込んでしまった。

 そう、瓶底眼鏡をかけたリンソーディアは、さすがにお姫様とは言いがたい姿をしているのだ。元が良すぎるゆえに、どうしても育ちの良さは滲み出てしまっているが、瓶底眼鏡のおかげで彼女の正確な顔の造形を知っている村人は誰もいない。それなのに。



『お姉ちゃん、お姫様みたいね』



 さすがに、ぞくりとした。リンソーディアの顔も血筋も知らないはずの子供たち。……誰かになにかを吹き込まれたと考えるのが妥当か。



「気をつけたほうがいい。どうしてそう見えるのかとか、さりげなく訊いてみてもいいかもしれないな」


「……フラン様がいなければ気づけないままでした。ありがとうございます」



 どうやらこの村も、確実に安全というわけではないようだ。クライザーの出方によっては、またぞろ逃亡生活を送るハメになるかもしれない。

 リンソーディアは空を見上げた。次はどこへ行こうか。というか、いつまで追っ手を気にする生活を送らねばならないのだろうか。



「……いい加減、疲れましたねえ」



 リンソーディアがぽつりと呟けば、ヴェルフランドもさすがに苦笑する。彼もまた同じことを考えていた。

 大事な幼なじみがずっと一緒にいるから、今みたいな生活でも全然苦には思わなかった。けれど、大事な人が一緒だからこそ、いつまでもこんな生活を続けていくわけにはいかないとも思う。



「なあ、ディア」


「はい?」


「いつか、なにもかも窮屈で、面倒臭くて、全部投げ出して、怯えることも警戒することもなく、笑って自由に生きていきたいと思う日が来たら――」



 その時は、俺が。




✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎




 クライザーはここ数ヶ月、休むことなくリンソーディアを探していた。

 キリアンからの情報でチェザリアンにはすでにいないことが確定してからは、他国にも捜索の手を伸ばしつつ、ウィズクローク内にもくまなく探りを入れていた。大きな町だけではなく辺境の村にも、旅人に扮した部下や報酬を握らせた行商人を派遣し、しらみ潰しに候補地をどんどんと絞っていく。

 そして先日、ついに彼女がとある辺鄙な村にいることが判明したのだ。しかし見つけた場所が問題だった。



「迷いの森の近くか。これは厄介だね」



 アークディオスの秘境。未踏の死の森。それが迷いの森だ。

 クライザーは悩ましげに額を押さえる。異国の者が迂闊に近づけばすぐに死ぬか発狂するという噂を信じ、腕利きの兵士たちすら一歩も立ち入ろうとしないその森の近くに、リンソーディアがいる。

 もっともクライザーはそんな噂など信じていない。異国どころか地元の人間でも、あの森に立ち入ればほとんどが死ぬか気が狂う。生き残れるのはタチの悪い歴戦の猛者か、よほどの偶然に恵まれた人間くらいだ。



「森の深部に逃げられたらさすがお手上げだな。その前になんとか、リンソーディア様だけでも確保したいけど……」



 確かにヴェルフランドをこの手で処刑したい気持ちはあるが、彼の死を確認できさえすれば、奴が森で野垂れ死のうがクライザーとしてはどうでもいい。問題はリンソーディアのほうだ。彼女だけは無事に保護したかった。


 そもそも警戒されるから毎回逃げられるのだ。つまり警戒されなければ逃げられない。

 いや、警戒されてもいいから話さえできれば、とりあえずはそれで良かった。だが誰を派遣すればリンソーディアは逃げずに話を聞いてくれるだろうか。彼女が逃げない相手で、クライザーの味方でもある人物だなんてそうそういないのだが。



「クライザー様……少しよろしいでしょうか」


「パトリシア? どうしたんだい?」



 執務室にやって来たのは、少し前にクライザーのもとへ嫁いできたパトリシアだった。彼女は控えめに、けれど躊躇わずに話を切り出す。



「リンソーディア様が見つかったという話を聞きました。迷いの森のそばにある村にいると」



 彼女のこういうところはクライザーも気に入っていた。ただ弱いだけの妃ではない。パトリシアは続ける。



「それなのに、迷いの森にはあまり近づきたくないと、大臣たちも使用人たちも、兵士たちさえ言っておりました」


「……そうだね。あの森はそういう場所だ」


「ならば、わたくしをリンソーディア様のもとに行かせてはいただけないでしょうか」



 毅然としたその言葉に、さすがのクライザーも目を丸くした。



「君は迷いの森が怖くないのかい?」


「怖いですわ。でも誰も行きたがらないのであれば、わたくしを派遣してくださいませ。グレースとも約束しておりますの。リンソーディア様をお助けすると」



 グレース。……もしや、グレース・ダンハウザーのことか。意外な人物の名前が出てきたことにクライザーは瞠目した。

 しかし考えてみれば、パトリシアはチェザリアンの王女で、グレースは侯爵令嬢なのだ。社交界で顔を合わせていてもおかしくはない関係である。年齢だってそれほど離れてはいない。



「……わかった。君がそこまで言うのなら」


「わがままを聞いていただき感謝いたします、クライザー様」


「いや、礼を言うべきなのはむしろ僕のほうだ」



 ずっとクライザーの頭を悩ませていた、『リンソーディアが逃げない相手で、クライザーの味方でもある人物』。こう考えるとパトリシア以上の適任は他にいないだろう。



「僕の問題に巻き込んでしまってすまないね。この埋め合わせは必ずするから」


「とんでもないことでございます。クライザー様のお力になれること自体がわたくしの喜びですわ」



 吟味に吟味を重ねたうえでの人選だったとはいえ、本当によく出来た妃である。パトリシアは「出立の予定が決まりましたらお知らせくださいませ」と告げて執務室から出ていった。彼女のことだから、いつでも出発できるよう今すぐにでも出立の準備を始めるはずだ。


 クライザーは腕を組んだ。できるだけ早くリンソーディアを皇宮に招き入れたい。彼女を受け入れる準備自体は整っているのだ。

 だが、皇太子妃であるパトリシアがリンソーディアを迎えに行くということは、お忍びでもがっちり護衛する必要があった。とりあえずキリアンは決定として、残りの人選に少し時間がかかりそうだ。

 それでも、物事は着実に前進している。悲願の達成まであと少しだ。



「リンソーディア様……早くあなたにお会いしたいです」



 クライザーにとってパトリシアは想像以上に重要な存在になりつつある。けれどリンソーディアはまた別格の存在だ。クライザーの人生を左右するほどの人物なのだから。



「あなたを手に入れるためにも、僕は今度こそヴェルフランドを始末する」



 これまで一度も負かすことができなかった憎き宿敵、ヴェルフランド・セス・アークディオス。いつもリンソーディアのそばにいる彼の存在を知ってから、クライザーは何度も彼を暗殺しようと試みては失敗してきた。

 戦場では直接ヴェルフランドの首を狙っていたし、皇宮では内通者を送り込んで暗殺の機会を窺い続けた。しかしどの計画も、ヴェルフランド本人か、優秀すぎる彼の部下たちによって阻まれて、結局一度も実現することはなかった。


 でもそれも、もうすぐ終わる。今度こそヴェルフランドを確実に仕留めるのだ。幼なじみである彼の死をリンソーディアは悲しむだろうが、そこは自分とパトリシアがそばにいればそのうち癒えることだろう。


 それに、こちらには切り札がある。リンソーディアはもちろん、ヴェルフランドですらも降伏せざるを得ないほどの切り札が。



「できれば使いたくなかった手だけど、そうも言っていられないからね……」



 リンソーディアを皇宮に迎え入れたらすぐに引き合わせてあげるつもりだったのだが、まさかこんなに逃げられるとは思いもよらず、あれから随分と時間が経ってしまっていた。

 このままでは『彼』を交渉材料か脅しに使うことになってしまいそうで、甚だ不本意ではあるが仕方あるまい。


 ヴェルフランドに次いで殺しておくべき人物で、けれどヴェルフランドと違って殺すにはあまりにも惜しい人材。一応、治療したうえで四肢を拘束して猿轡を噛ませて自害できないようにはしてあるが、さてどうしようか。



「まあ、いっか」



 どうせリンソーディアは皇宮へとやって来ることになるのだ。その時までは彼を丁重に扱おう。

 彼女と同じ髪と瞳を持つ彼を殺すことなんて、クライザーにはとてもできないことである。だからまあ、よほどのことがない限りは見逃してあげよう。

 そう決めて、クライザーはパトリシアの護衛を務められそうな人材の選定に取りかかったのだった。




✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎




 迷いの森の奥のほうで、リンソーディアはひとり寝転がって星を眺めていた。深部ギリギリの場所であるため、村人たちはまず入って来られないし、夜行性の動物たちも気配はあれど近づいては来ない。一人きりで考えごとをするにはもってこいの場所だった。


 日中、ヴェルフランドの助言に従って顔見知りの子供たちに探りを入れてみた。すると返ってきた答えは「行商人のおじさんから聞いた」というものだった。行商人。村の外からやって来る部外者。……クライザーの手の者か。



「…………」



 どうしてそこまで、と思う。彼に好かれていることは、チェザリアンにいた頃に送られてきた恋文でもう知っているけれど、それならどうして放っておいてくれないのか。

 好きな人には、大切な人には、幸せになって欲しいと願うものだ。できることなら自分がその人のそばにいて幸せにしてあげられれば一番いいが、それができないなら身を引くこともひとつの愛だ。辛くても、悔しくても、大好きなその人が笑っているならそれでいいと。


 リンソーディアには分からない。恋をしたことがないからだ。だからクライザーの言動が理解できない。

 同時に、理解できなくていいとも思った。あれに共感できるようになったら、いろいろと終わりな気がするから。



『なあ、ディア』



 不意にヴェルフランドの言葉が脳裏をよぎった。いい加減、逃げ回るのに疲れたとこぼした時、彼は真っ直ぐこちらを見つめて言ったのだ。



『いつか、なにもかも窮屈で、面倒臭くて、全部投げ出して、怯えることも警戒することもなく、笑って自由に生きていきたいと思う日が来たら――』



 星空を眺めながら、リンソーディアは笑った。今にも泣きそうな笑顔だった。



『――その時は、俺があいつを殺しに行く。たとえお前に永遠に嫌われることになったとしても』



 殺したくない。リンソーディアのその願いを、ヴェルフランドはちゃんと覚えていた。そのうえで、必要ならクライザーを殺すと宣言した。()()()()()()()()()()()()()と。

 けれどそれは、リンソーディアの願いを踏みにじってしまう行為だとヴェルフランド思っているようだった。だから嫌われる覚悟でそうすると言ったのだろうが。



「……初めてですよ。ここまで愛されていると実感できたのは」



 嫌われても、恨まれても、それでもリンソーディアを自由にするため。たくさん愛するけれど、別に愛されたいとは思っていない不器用な幼なじみ。

 ……いつも思っていた。ヴェルフランドの愛はとても身勝手で、そしてこれ以上ないほどの無償の愛でもあると。


 誇張でも自慢でも自惚れでもなく、彼にはもうリンソーディアしかいないのに。

 それでも。たとえ掌に残っている唯一のものを、永遠に手放すことになったとしても。

 すべては自分ではなく相手のために。

 これほどの愛を、リンソーディアは知らない。



「ならば私も、あなたのために」



 自分の願いすら踏み越えて、二人で一緒にその先へ行こう。


 それにもともとリンソーディアは、相手がクライザーだから殺したくないと思ってるわけではないのだ。むしろクライザー自身には興味も関心もない。

 アイザックにも言ったように、どうして彼を殺したくないと思っているのかは自分でもよくわからない。でも、もしクライザーが死んだという知らせを受けたとしても、リンソーディアはきっと何も感じないことだろう。


 そこまで考えたところで、起き上がった。カンテラすら持たずに歩いてくる、夜目が利くのであろう誰かの気配と足音がしたから。



「ディア。もう遅い。そろそろ帰るぞ」



 そう言って、当たり前みたいに迎えに来てくれた幼なじみに、いつもとは違う意味でリンソーディアの胸は締めつけられた。



「はい。一緒に帰りましょう」



 差し出された手を取った。強くて優しいその手を、リンソーディアはもう二度と離す気にはなれなかった。


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