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24. ちょっと私を口説いてみてください


 遠く離れたチェザリアン王宮でパトリシアが憂いている頃、リンソーディアは地図を描きながら迷いの森の中をせっせと歩いていた。背中の籠には途中で採取した珍しいキノコや薬草やその他諸々がたんまりと入っている。

 途中で毒性の強い植物やキノコの群生を見つけたら、目印と注意喚起の意を込めてその場所を地図に書き込む。野生生物に遭遇したら、人への害があるかないかに関係なくその情報も書き込んだ。念のためだ。


 最低限の安全を確保したうえで、村人たちでも自由に迷いの森に立ち入れるようにできないか――。そんな依頼を受けてリンソーディアがまず着手したのが、この詳細な地図を作ることだった。始めは真っ白だった紙も、数日かけて描きあげた複雑な地形と書き込みで埋め尽くされている。



「とはいえ、常人ならこの辺りが限界でしょうかねえ」



 もう少しで森の深部の入り口に到達するというところで、リンソーディアはぴたりと足を止めた。

 目の前に広がるのは濃密な闇。昼間だというのに、カンテラがなければ周りがほとんど見えないくらいの、まるで粘度がありそうな暗闇がそこに広がっている。リンソーディアはこの先の道を地図上で黒く塗りつぶした。



「ここから先は立ち入り禁止、っと。深部専用の地図は別に作るとして、あとはこの立ち入り禁止区域の正確な範囲を書き込めば、とりあえず一般向けの地図は完成ということで良さそうですね」



 この地図は数枚の複製を作ることになっていた。一枚は村長であり森の研究者であるサラサエル博士に、一枚は村人たちが共同で使うため酒場に貼り出してもらい、さらに数枚は森に入るときの護衛を務めることになるヴェルフランドの元部下たちに渡すのだ。


 サラサエル村は特産品もなく資源も限られている。他の街に買い物に行ったり、時折やってくる行商人に頼らなければ生活するにも不便な土地だ。

 しかし、この村には迷いの森がある。通常は負の存在としか思われない迷いの森だが、そこに自生する植物は稀少なものが多い。少量でも定期的に採取できれば、村の大きな収入源になるだろう。リンソーディアはぶつぶつ独り言を呟きながら森の中をうろつく。



「なにが起きてもすぐ逃げられるように、森に入るときの装備はとにかく身軽さを重視して……解毒薬だけは必須条件ですね」



 毒性の植物が多すぎて、空気自体がなんとなく毒っぽいと言われている迷いの森だ。あらかじめ解毒薬を服用してからでなければ一般人には厳しそうである。


 サラサエル村に来てから早一ヶ月。リンソーディアもヴェルフランドも、サラサエル博士のせいでじつに目まぐるしく忙しい毎日を過ごしていた。


 初めての顔合わせの際に、いきなり助手になってくれと床にガンガン額を打ちつけて懇願された時はぎょっとしたが、それはまあいい。事前にニールから聞いていた情報の通りである。

 しかし、助手になると答えた瞬間、突然ガシッと手を握られて結婚を申し込まれた時はさすがに「は?」と間抜けな声を出してしまった。リンソーディアが固まっている間にヴェルフランドが博士の手をべしっと叩き落としてくれたおかげで事なきを得たが、どうやら博士は同志の奥さんが欲しいらしいという、甚だどうでもいい情報を得ることになった。折を見て誰かを紹介すべきだろうか……心当たりなんて誰もいないけど……。


 その後はひたすら博士の家と迷いの森を往復するのが主な日課となっていた。森に入っては地図にその詳細を書き込み、希少種を見つけては背中に背負った籠に放り込んで博士に届ける。博士が狂喜乱舞していると、今度は別行動をしていたヴェルフランドがやってきて、幻の鼠と呼ばれる角鼠(ロークマウス)の番を渡したりするので博士はさらに発狂し、手をつけられなくなったあたりで二人揃って逃げ出すまでが最近の恒例行事となっていた。



「あ、お疲れ様ですディア様。これから博士のところで……うわあ、その籠の中身もしかして全部希少種ですか。すごいですね」



 森の浅いところまで戻ってくればニールと鉢合わせた。浅いとはいえ迷いの森の中である。そんな場所で誰かに遭遇する感覚はなかなかに新鮮で、リンソーディアは未だにちょっと不思議な感じがしていた。



「ええ、これからこの一部を博士のところに持っていって、残りは酒場に持っていって調理する予定です」


「……ディア様がですか?」


「いえ、フラン様がです。私もやると言ったんですが、『村の人口を減らす気か?』と真剣に止められまして」



 栄養満点なリンソーディアの手料理は、間違いなく村人たちを活性化させる一品となるだろう。が、活性化するまでには一晩かかる。そしてそれは苦悶の一夜となる。村人たちに対するヴェルフランドのなけなしの思いやりであった。

 ニールと別れたリンソーディアは、すっかり通い慣れたサラサエル博士の家へと向かう。玄関の鍵は開いており、訪問を知らせるベルもあるにはあるが、助手であるリンソーディアとヴェルフランドは鳴らさないで入っても良いことになっていた。



「まあ、ディア様」


「お疲れ様です、皆さん」



 博士の研究室がある二階へと向かう途中、皇宮ではよくお世話になっていた使用人たちがいたので挨拶を交わした。現在はサラサエル邸で住み込みで働いている彼らだが、未だにリンソーディアとヴェルフランドのことは様付けで呼んでくる。



「ディア様、お茶でも飲んでいかれませんか?」


「ありがとうございます。でもこのあと酒場で創作料理の試食会があるので、今日は遠慮しておきますね」


「創作料理! もしかしてまたフラン様が腕を振るわれるのですか?」


「先日の幻想茸(ゲンソウタケ)を使ったポタージュは絶品でしたね!」



 リンソーディアにとっては大変羨ましいことに、ヴェルフランドの手料理は使用人たちにも村人たちにも大好評であった。なお幻想茸に関しては、『食べると非現実的な幻想を見てしまう』という副作用を完全に取り除く技術を開発したサラサエル博士の功績もかなり大きい。

 二階へ上がって博士の研究室へと向かう。一応ノックはするが反応が返ってきたことは一度もないので、今日もリンソーディアは数秒待ってからすぐに扉を開いた。

 途端、なにかの香を焚いたかのような独特の香りが漂ってきた。思わず眉間に皺が寄る。……地下監獄で経験したような耐えがたい異臭ではないが、ここまで強い香りだと脳に直接ガツンとくる感じで軽く目眩がした。



「サラサエル博士……なにをしているんですか……」



 この部屋に入るたびに同じことを言っている気もするが、言わずにはいられないのだから仕方がない。



「おお、ディアくん。なかなか刺激的な香りだろう?」



 少し長めの髪を無造作にくくった白衣の男がにやりと笑って振り返る。部屋には相変わらず書物やら文献やら薬草やら羽根ペンやら実験器具やらが散らばっていて足の踏み場もない。

 しかし何度もこの部屋にお邪魔していると、この散らかり具合には一定の法則があるようだということに嫌でも気がつくことになる。どんな法則かまでは分からないが、いつ来ても同じものが同じ場所に『片付けられて』いるようだから、博士なりにこの状態は散らかってはいないのだろう。ならば理解できなくとも文句は言うまい。



「前から考えていたことなんだけどね、薬草って普通は調薬師に煎じてもらうものだろう? でも煎じないで焚いてみたらどうなるんだろうってずっと思っててさ。煎じた時と同じような効果が出るか試してるんだ」


「……ちなみに今焚いている薬草の効果は?」


「痛み止め。特に頭痛に効くやつ」



 それを聞いてリンソーディアは急に真顔になった。頭痛に効くものを試しているということは。



「博士、頭痛いんですか?」


「うん。これなら効いたらすぐ分かるでしょ」


「いやいやいや、そういうことなら普通に頭痛薬を飲んでくださいよ。なに効くかもわからない実験に健康を捧げているんですか。やるなら別の薬草で試してください」



 リンソーディアは焚かれていた薬草をさっさと消し、窓を全開にして換気をした。頭痛止めの効果があればいいが、焚いたことでおかしな成分が抽出されていないとも限らない。新鮮な空気を吸い込んでリンソーディアは深呼吸する。一方、実験がふいになった博士は不満げに唇を尖らせた。



「ひどいなあ、人がせっかく画期的な実験に身を投じていたっていうのに。仮にも助手なら上司であるボクの実験を応援してくれてもいいんじゃないの?」


「なに言ってるんですか、助手だからこそ止めたんですよ。あなたは私の雇い主です。つまり私はあなたからお給料をもらっているんです。あなたが死んだら安定した収入源がなくなるじゃないですか」


「……ああそう。キミって本当に身も蓋もないことを堂々と言うよね……」



 ぶつぶつ言っている博士に、リンソーディアは即効性のある粉末状の頭痛薬を手渡した。それを見た博士は「うげえ」と嫌そうな顔をしたが、薬草を焚くよりよほど効くことは確かなので、渋々水で流し込んでいる。



「忘れているかもしれませんが、そんな身も蓋もない女に初対面で求婚したのは博士ですからね。少しは我が身を恥じるがいいです」



 フンと鼻で笑うリンソーディアに、博士は「ん?」と首を傾げた。



「恥じるっていうか……確かにボクはキミにフラれたわけだけど、まだ諦めてはいないよ?」


「え?」


「フランくんもいないことだし、ちょうどいいや。今から口説くけど聞いていく?」


「あ、そういうのは間に合ってますんで結構です」



 リンソーディアは背中の籠からキノコと薬草をシュバッと取り出し、「今日の収穫です」と博士に押しつけそのまますぐさま回れ右。目を丸くする使用人たちに構わず凄まじい速度で玄関へと向かう。背後から聞こえる博士の笑い声がじつに腹立たしい。

 自分でもよく分からない感情のまま、とにかくリンソーディアは無心で走って走って走って、そうしてこの村唯一の酒場へと辿り着いた頃には、なぜか理不尽な怒りに満ちていた。



「――フラン様ッ!」


「ディア、遅かっ……ぅぐっ!?」



 全身全霊の体当たりを真正面から受けるハメになったヴェルフランドが呻き声をもらす。しかしリンソーディアは幼なじみの反応を無視して、八つ当たりのようにドスドスと彼の胸板を叩きまくった。



「なんであの場面で私の傍にいてくれないんですか。フラン様のバカバカ。役立たず。甲斐性なし。料理上手。かっこいい。もう知らない。一生ついて行きます」



 支離滅裂な罵倒と謎の褒め言葉にヴェルフランドは怪訝な顔をした。彼女がなにを言いたいのかさっぱり分からない。



「……要点はどこだ? 最初か? 最後か?」


「最初です」


「そうか。で、なにがあった」


「ううう〜〜〜」



 唸りながらヴェルフランドの胸板に額を押しつけ、延々ぐりぐりやっているリンソーディアの言動が全く以て意味不明である。

 かと思いきや、いきなりガバッと顔を上げた彼女は、剣呑な目つきで幼なじみを睨みつけた。



「……フラン様。耐性をつけたいんで、ちょっと私を口説いてみてください」


「は?」



 突拍子のないその言葉にヴェルフランドの目が点になる。しかし「早くしろ」と言わんばかりなリンソーディアの目力に本気を感じ、ヴェルフランドはとりあえず言われた通りに口を開いた。



「あー……そろそろ結婚するか? お前と一生添い遂げるのも俺としてはやぶさかじゃないぞ」


「……結婚できるくらいには好きということですか」


「まあ、地平線のはるか先まで届くくらいには好きだな」



 直後、ガッシャーンと派手に食器が割れるような音が酒場中に響き渡った。その音でおかしなことになっていたリンソーディアの情緒が正常な状態へと引き戻される。正気に戻ったともいう。



「あんたらねえ……イチャつくんなら外でおやり!」


「あ、ブリジットさん。いたんですか」


「いるに決まってるじゃないか! ここはあたしの店だよ!」



 カンカンに怒っている酒場の女主人に、二人はきょとんと互いの顔を見合せた。そこまで怒られる覚えはないのだが。そんな無自覚二人組の様子にブリジットはやってられないとばかりに重い溜め息をついた。



「まったく、こんな酒場のど真ん中でいきなりイチャつき始めるんじゃないよ! だいたいあんたら恋人同士ですらないんだってね? それなのになんだい、今のやりとりは」


「なにと言われましても。愛にはいろんな形があるんですよ、ブリジットさん」


「なんであたしの感性がおかしいみたいになってるんだい……」



 ブリジットは諦めたように肩を落とし、先ほど床に落としてしまった食器の破片を片付け始める。リンソーディアとヴェルフランドの一風変わった愛情論はひとまず置いておくとして。



「それで結局なにがあったんだ。まさか博士に口説かれでもしたか?」


「げっ、なんで分かったんですか」



 リンソーディアが不気味そうな顔を向けてくるが、当てずっぽうが的中してしまったヴェルフランドのほうが複雑な気分になった。別に当てたくて当てたわけではないのだが。

 しかしこれで彼女が不機嫌である理由が判明した。口説けとか耐性をつけるとか言っていたが、要は一番安心できるヴェルフランドでいろいろと上書きしたかったのだろう。

 ふむ、とヴェルフランドは思案する。どう言えば彼女の動揺を鎮めることができるだろうか。



「……参考までに訊くが、クライザーとサラサエル博士なら、どっちに言い寄られたほうがまだマシだ?」


「そりゃ圧倒的に博士のがマシですが」


「ならいいだろ。より最悪な相手を想定すると、どんな地獄も少しはマシに見えるものだ」



 滅茶苦茶な理屈ではあるが、リンソーディアは目からウロコとばかりに顔を輝かせた。納得したらしい。変なところで単純なのが彼女のいいところであった。


 余談だが、この日ヴェルフランドが考案した『愛の野苺フルコース』は酒場のランチメニューとして女性客から大好評を博すことになった。なおメニュー名に関しては、二人に振り回されたブリジットが嫌がらせの一環で命名したわけだが、野イチゴが好きなリンソーディアはメニュー名などにはまったく興味がなく、ヴェルフランドに至っては完全に無関心であった。不発に終わった嫌がらせに、ブリジットが悔しがったのは言うまでもないオチである。


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