21. みんな通る道ですよ
呆れた目をしたヴェルフランドの前で、リンソーディアは地面にめり込むくらいの土下座を披露していた。
「お前もう少し穏便にできなかったのか……」
「面目もございません……これが私の限界だったのです」
最低限の伝手を辿って王宮近くに潜伏していたヴェルフランドだったが、リンソーディアがものすごい勢いで追っ手の兵士たちを蹴散らして爆走しているのを見たときはさすがに仰天した。慌てて彼女を回収し、現在二人は絶賛逃亡中の身の上である。もはや国際指名手配犯とか言われても反論できない。
ヴェルフランドは溜め息をついた。そして地面にめり込んでいたリンソーディアをひょいと拾い上げて軽く抱きしめる。
「まあ逃亡生活は二度目だし大したことじゃない。ウィズクロークだけじゃなくてチェザリアンにまで追われているが、それだって大した問題じゃない」
「ではフラン様的にはなにが問題なんですか?」
抱きしめられていることに関しては特になにも思わず、リンソーディアはヴェルフランドの胸板に顔を埋めたままもごもごと尋ねた。問題だらけにしか見えないのだが、どうもヴェルフランドの視点は違うところにあるらしい。
「お前が怪我して帰ってきたことだな。大問題だ」
「窓ガラスをぶち破って脱出する必要があったもので」
「……お前が怪我するところはあまり見たくないんだ。察しろ」
ぎゅっと抱きしめてくる力が強くなった。リンソーディアの頭上に疑問符が浮かぶ。戦場ではもっと酷い怪我をしたこともあったのに、怪我には慣れているのに、どうしてここまで心配するのだろうか。
しかし仮にヴェルフランドが怪我をしたとして、確かにリンソーディアもその怪我を見逃すことなどできはしないなと思い至った。どんなに小さな怪我だったとしても、彼が傷つくところなんて見たくはない。
「あー……なるほど。ごめんなさい、フラン様。気をつけます」
「そうしてくれ」
お互いの気持ちを理解できたところで、リンソーディアはずっと気になっていた合流するまでの経緯についてヴェルフランドに訊いてみる。
「ところでフラン様が使った伝手とは具体的にはどのような?」
「ダンハウザー侯爵家とレーベルト伯爵家だな。王家に目をつけられるかもしれないことを承知の上で力を貸してくれた。……正直ちょっと予想外の助力だったからな、さすがに驚いた」
「そうですか……グレース様のところと……え、レ、レーベルト伯爵家?」
レーベルトといえば、セラフィーナの家名である。
「か、看守長って伯爵家の人間だったんですか!?」
「ああ見えてれっきとした伯爵夫人だぞ。知らなかったのか?」
どうやらヴェルフランドは初めてセラフィーナの名前を聞いたときから、彼女が伯爵家の人間だと気づいていたらしい。彼の頭に入っている貴族名簿にはいい加減驚かなくなってきたが、知っていたなら教えておいてくれてもいいのではと思ってしまう。
「あいつの夫が監獄長官なのは知っているな? つまり、ガイアノーゼルを掌握しているのはレーベルト伯爵家ということになる」
「ほほう」
ヴェルフランド曰く、ガイアノーゼルには独自の法律や規則がある上、街を丸ごと封鎖したとしても衣食住には困らないくらいの生産力と経済力がある。むしろ監獄を擁しているぶん、レーベルト伯爵家を敵に回すと困るのは王家のほうらしい。
そのため、ガイアノーゼルは王家でもそう簡単に手を出せる領域ではないのだという。ということは。
「私たちを助けたことで看守長たちになにかしらの害が及ぶなんてことは……」
「ゼロではないだろうが、気に病むほどでもないはずだ。心配しなくていい」
安堵のあまりリンソーディアはへたり込みそうになった。良かった。本当に。
そしてダンハウザー侯爵家のほうだが、こちらも特に問題はなさそうだとヴェルフランドは判断した。
薄々わかっていたことだが、チェザリアンにおけるダンハウザー侯爵家の威光はかなり大きい。侯爵自身は有能な宰相として日夜働いており、長男も王宮内で要職に就いており、長女は王家との婚約が決まっており、次女も王立学院で常に首席の才女である。
そんなダンハウザー侯爵家を下手につつけば藪蛇どころでは済まなくなるかもしれない。こちらに関しても王家は下手に手出しできないだろうというのがヴェルフランドの見解である。
幼なじみによる的確な分析にリンソーディアは苦笑した。初めこそ貴族と関わって足がつくのはまずいと思っていたはずだが、今は彼らのおかげで随分と助けられている。もちろんそれは相手が良かっただけで、いつもこうだとは限らない。
だからこそ、感謝しなければならなかった。次にいつ会えるかなんて分からないけれど。もしかしたら、もう二度と会えない可能性だって十分あるけれど。いつか必ず、絶対にお礼をしなければ。
「そのためにも、なんとかして逃げ延びないといけないですねえ」
諦めないで生きていく理由がまた増えた。こう考えると、いつだってリンソーディアを生かしてきたのは彼女自身の力ではなくて、リンソーディアのことを思ってくれる人たちの意思の力だった。それを痛感する。
「フラン様、今後の動きについてなんですけど」
「ああ、俺もさっきから考えていた。現実的な選択肢は二つだな」
ヴェルフランドが指をぴっと二本立てた。
「ひとつは、ルーダロット王国か櫻花皇国に向かうこと。どっち行くにしてもそれなりに危険を伴うが、ウィズクロークやチェザリアンにいるよりは多少はマシな状況になるだろう」
ルーダロットはウィズクロークの向こう側に位置しているため、行くためには必ずウィズクロークを通らなければならない。
一方、海の向こうにある櫻花皇国へ行くには必ず船に乗る必要がある。もしも船上で正体がバレるようなことになれば、逃げ場のない船内で延々と鬼ごっこをするハメになるかもしれない。
「そしてもうひとつは、元部下たちの力を借りてウィズクロークの安全地帯に身を潜めることだな。灯台下暗しを狙う」
「元部下たちって……あっ、すっかり忘れていました!」
以前ラシェルが言っていた。皇宮落城を生き残った部下たちのうち、一部はウィズクロークに残っていると。
「さすがにもうダンハウザー侯爵家やレーベルト伯爵家に頼るわけにはいかないからな。っておい、なんだその世界の終わりみたいな顔は」
「あの冷血漢なフラン様が人様に迷惑をかけないよう配慮する日がくるなんて……! 私まだ死にたくありません」
「なんで俺が人に配慮すると世界が滅亡するんだ。いくら俺でもそこまでの影響力はないぞ」
あったら困るからなくていいのだ。至極真面目に答えるヴェルフランドが逆に怖い。そこまでの影響力はないとか言っているが、どこまでの影響力ならあるのだろうか。怖いのでリンソーディアはそれ以上考えることをやめた。
「えーと、その元部下の方々とは連絡を取り合えるんですか?」
「ラシェルかノルベール経由じゃないと難しいな。だが、そいつらがどこにいるのかは聞いている。事前連絡なしになるが、そこに直接乗り込むことは可能だ」
一か八か感は否めないが、いま選べる選択肢の中ではそれが一番いい気がした。
「ちなみに彼らはどこにいるんですか?」
「迷いの森に一番近い小さな村だ。サラサエル村って聞いたことないか?」
サラサエル村。リンソーディアは目を見開いた。
「隻眼の天才研究者、エド・サラサエル博士が作った村じゃないですか!」
未だほとんど進んでいない迷いの森の生態調査に命をかけている、迷いの森研究の第一人者。それがエド・サラサエルだ。
彼は研究への情熱から迷いの森のすぐ近くに家を建てて勝手に住み着き、森にやってきた自殺希望者とよく遭遇しては、「捨てる命ならボクによこせ!」と家の雑用係として強制的に連れ帰ったりしていた。そしてそんな雑用係が十人を超えたあたりでさすがに博士の家は狭くなり、雑用係たちは博士の家の周りに自分たちの家を建てて、結果的にそれが村になったわけである。現在はだいたい百人弱くらいが住んでいるはずだ。
「隻眼になったのは調査の途中で大熊王に遭遇して、片目と引き換えに九死に一生を得たからだと聞いていますが、本当ですかね?」
「知らん。俺は有毒植物にかぶれて顔が爛れて、薬を飲んで治ったあとも片目の視力は失ったままになったとか聞いたが」
「うわ、そっちも有り得そうですね……」
どちらにせよ彼が変人なのは間違いないだろう。そうでなければあんなイカれた森に好き好んで近づくはずがない。
「私たち迷いの森に造詣が深いんです、とか言ったら食いついてくれたりしますかねえ」
「逆に信じてもらえない可能性もあるが、やってみるだけの価値はあると思うぞ。もし村から追い返されたとしても、とりあえず迷いの森にいれば追っ手は誰も近づけないだろうしな」
どうやら次の目的地が決まったようだ。目指すはサラサエル村、もしくは迷いの森である。
しかし、街道が未だに通行止めのままであることを忘れてはいけない。そして開通しないとチェザリアンから出ることもできない。さて、どうするか。
「……大山脈踏破か。さすがに久しぶりだな」
「あまり気乗りはしませんけど、そうも言っていられませんしね」
だが二人の中ではその問題はすでに解決済みのようだった。常人には考えられないような気が狂った解決方法で。
「フラン様、踏破のご経験はおありでしたよね?」
「二回だけだがな。どっちもティルカーナ家の地獄の特訓に巻き込まれたときの話だ」
「あー、うちでは大山脈踏破できない人は前線に出ちゃいけないことになっていたんですよねえ。みんな通る道ですよ」
そう言うリンソーディアは四回踏破を果たしている。その四回というのは春夏秋冬で一回ずつ、要はどの季節でも踏破できるようにという訓練の一環でだ。
「すごく大変ですが、引きずってでもあなたを大山脈の向こうまで連れて行きますので、大船に乗った気分でいてくれていいですよ」
「引きずるな。頼むから俺が自分の足で踏破できるようにしてくれ」
そうして二人は冬の大山脈踏破を敢行することになった。はっきり言って気が狂っているとしか思えない行動だが、本当に狂気であれば生きて大山脈の踏破などできはしない。つまり、二人は紛うことなき正気である。
「さあ、行きますよフラン様! いざ行かん、地獄の大山脈越え、冬の陣!」
ヴェルフランドにとって、落城してから一番過酷な経験だったとのちに振り返ることになる、想像を絶する登山が幕を開けた。




