20. お会いできて光栄です
今日も今日とて天蓋付きのベッドで目覚めたリンソーディアは、数日経っても変わらぬ景色にうんざりと息を吐き出した。気分は今日も憂鬱。つまらなすぎる毎日に、眠ることすら飽きてきた。
しばらくベッドでぼんやりしていると、いつものように王宮メイドがやってきて、テキパキと身の回りの世話を始める。
そう、王宮メイドである。つまりここは、チェザリアン王宮の中なのだった。
「おはようございます、リンソーディア様。朝のお支度を手伝わせていただきます」
「…………」
言われるがままに起き上がって、顔を洗って、着替えをして、それから運ばれてきた朝食をなんの感慨もなく口に運ぶ。
王宮シェフが作ったものなのだからもちろん美味しいのだけれど、ハウエルが作る監獄食のほうが美味しいと思うし、なんならヴェルフランドが作ってくれる料理はもっと好きだった。あれだ、料理の隠し味は愛情とかいうが、あながち間違いでもないのかもしれない。
朝食が終われば、あとは昼食まで暇を持て余す。昼食のあとは夕食までひたすら暇を持て余す。この豪華な客室から出ることは許されていない。三食昼寝付きメイド付き監視付きのフルコース。実に優雅な監禁生活である。暇すぎてうっかり死にそうなくらい。
リンソーディアが自らここへ乗り込んできたのは、ひとえに情報収集のために他ならなかった。
あの日、なぜウィズクロークではなくチェザリアンの兵士たちが自分を追跡していたのか。謎に思って試しに王宮まで乗り込んでみたら、保護という名目で監禁された。が、監禁されているだけでなにも起こらない。
「リンソーディア様、本日はパトリシア王女殿下がこちらで一緒にお茶をしたいとのことです」
「……そうですか」
「パトリシア様はウィズクロークのクライザー皇太子殿下の婚約者であらせられます。リンソーディア様のことをいずれ家族になる方と思っておられるので、お会いできるのを昨日からずっと楽しみにしておられましたよ」
「………………」
リンソーディアは沈黙した。どこから突っ込むべきかじつに悩ましいところである。
まず、なにをどうしたら自分とパトリシアは家族になるというだろうか。まさか二人ともクライザーの妻になるから家族ですねってことなのか。そんな馬鹿な。
確かにクライザーからは求婚の手紙が送られてきていたが、それを受け入れる気などリンソーディアには微塵もない。それなのに結婚確定みたいな扱いをされても困る。
というか、婚約者がいるくせに他の女性に求婚するなんて、かの皇太子殿下はなにを考えているのだろう。不誠実にもほどがある。クライザーとパトリシアには、ぜひとも一夫一婦制で円満に過ごしていただきたい。
しかし、これでようやくチェザリアンとウィズクロークの繋がりが判明した。なるほど、結婚による同盟か。それでウィズクロークの要請通りリンソーディアを確保し、街道が通れるようになったら引き渡すつもりなのだろう。
そんなことを悶々と考えているうちに、パトリシアが訪ねてくる時間になってしまった。腹を括ったリンソーディアは、かつて社交界で身につけた処世術の粋を総動員して迎撃体制に入る。さあ、どこからでもかかって来るがいい。
「ごきげんよう、リンソーディア様。初めてお目にかかりますわね。やっとお会いできて嬉しいわ」
そう言ってにこやかに入ってきたのは、可愛らしい顔立ちに穏やかな笑顔を浮かべた年上の女性だった。迎撃する気満々だったリンソーディアは肩透かしを食らった気分になる。
「……チェザリアンの慈愛の姫君に、リンソーディア・ロゼ・ティルカーナがご挨拶申し上げます。お会いできて光栄です、パトリシア王女殿下」
「まあ、リンソーディア様。どうか顔をお上げになって。わたくしたちは同じ方の妻となる身、つまり対等の存在ですわ。あなたとは本当の姉妹のように仲良くなりたいと思っているのよ」
やはり、二人ともクライザーの妻になるから仲良くやっていきましょうねという話だったらしい。リンソーディアは気が遠くなった。自分のあずかり知らぬところで勝手に縁談が進められているとはこれいかに。
ふふ、と嬉しげに微笑むパトリシアに、リンソーディアは顔を伏せたまま答えた。
「いいえ、パトリシア王女殿下。あなた様はチェザリアン王国の宝であり、ウィズクローク大帝国の次期皇妃となられるお方。対してわたくしは一平民でございます。対等などとは口が裂けても言えるはずがございません」
ここへ連れてこられた当初から素性がバレているので説得力に欠けるかもしれないが、それでも故国が滅びた以上は元公爵令嬢だろうとなんだろうと、今やれっきとした平民なのだとリンソーディアは主張したい。
頑なに顔を上げないリンソーディアにパトリシアは寂しそうな顔をした。
「……そうよね。あなたが平民だなんてとんでもない話だけれど、現状そうなってしまうのよね」
「ご理解いただけたことに感謝いたします」
「でも、とりあえず顔を上げてくださいな。せっかくこうして会えたのだもの。一緒にお茶を楽しみたいわ」
「喜んで、パトリシア王女殿下」
用意されていたテーブルにつき、二人は改めて向かい合う。リンソーディアはまじまじとパトリシアを見つめた。
目を奪われるほどの華美さはないが、いくら歳を重ねても衰えることはないだろうと思える可愛らしさが羨ましい。人の良さそうな笑顔といい、穏やかな雰囲気といい、クライザーには勿体ないくらいの優良物件だ。むしろリンソーディアが彼女をお嫁に貰いたいくらいである。
「今日の紅茶はね、ルーダロットから取り寄せている王家御用達の茶葉なのだけど、お口に合うかしら」
チェザリアン王家御用達になるほどの紅茶の品種など限られてくる。リンソーディアの脳裏にはいくつかの品種名が浮かんだが、残念ながらどれも口にしたことはない。
しかし一口飲んで目を丸くした。飲んだことがなくともこの味には覚えがある。
「……これは素晴らしいですね。噂でしか聞いたことがありませんでしたが、これが希少な薄紅花実を使った『花実の囁き』でしょうか」
「まあ、さすがはリンソーディア様だわ! そうなの、わたくしこのお茶が大好きで。ふふ、お気に召していただけたようでなによりですわ」
どうやら当たっていたらしい。リンソーディアは安堵の息を吐いた。
ちなみに薄紅花実とは、その名の通り薄紅色で、そして多肉植物のように分厚い花弁が特徴の植物である。しかし興味深いことに、この花弁に見える部分はじつは花弁ではなく、花弁にそっくりな形の果実なのだ。なのでこの果実を食べる時には、まるで花を食べているような見た目になるところが面白い。
生で食べると桃に近い味わいの果実なのだが、この紅茶には微かに酸味が感じられた。火を通すとわずかに酸味が出るのも薄紅花実の特徴である。だが少しだけブレのあるこの酸味は……。
リンソーディアはちらりと部屋の隅に控えているメイドに視線を向けた。すると彼女もこちらを見ていたらしく、ぱちりと視線がかち合った。
「もうすぐ春になりますわね。雪が解けたらクライザー殿下がわたくしたちを迎えにいらしてくださるわ。楽しみね」
「…………」
初耳である。まずい。それまでに脱走だ、脱走。食っちゃ寝しながら呑気に情報収集している場合ではない。
「アークディオス帝国を逐われたあと、本当に大変な思いをされたでしょう。あなたを保護するまでに時間がかかってしまったことをどうかお許しください、リンソーディア様」
「とんでもないことでございます。こうして優しく接していただいているだけでも、この身には過ぎた誉れです」
今のリンソーディアにとってパトリシアの優しさは傷口に塩である。年上とはいえ、こんなに純粋そうな王女様を出し抜いて逃亡せねばならんのか。良心が痛むくらいには心苦しい。
それにしても、とリンソーディアは訝しんだ。先ほどから薄々感じてはいたのだが、どうにもパトリシアには事の全貌が正確に伝わっていないようなのだ。
リンソーディアはクライザーと結婚するのだと当たり前のように信じていたり、リンソーディアがチェザリアンに身を隠していたそもそもの理由を誤解していたりと、まるでクライザーにとって都合のいいことばかりを聞かされていたかのような。
「…………」
ここにきて、リンソーディアは唐突にクライザーが一夫多妻制を取り入れる理由を察してしまった。
あの恋文からして、もとからクライザーはリンソーディアを娶る気だったようだ。けれど、アークディオス帝国に忠誠を誓っていたティルカーナ家の人間を皇太子妃にするのは、さすがに周りからの反感を買いすぎる。
周りの言い分を理解した上で、それでもリンソーディアを娶りたいクライザーは、恐らくこう考えたのだろう。
ならば、適当な人物を皇太子妃にしたうえでリンソーディアも迎え入れればいい。
あくまで本命はリンソーディア。でも表向きの正妻は別の女性。
そしてその女性は、クライザーに愛されるリンソーディアに負の感情を向けないような、一夫多妻制に理解のある人物でなければならない。
そうして選ばれたのが、『慈愛の姫君』と名高いパトリシアだったわけである。
「リンソーディア様?」
不思議そうに声をかけてくるパトリシアに、リンソーディアはにこりと微笑みかけた。
「……パトリシア王女殿下、無礼を承知で申し上げます。どうか内々にお話させていただくことはできますでしょうか」
「もちろんですわ。イザベラ、少しのあいだ下がって――」
「い、いけませんパトリシア様! その女は危険ですッ!」
ずっと部屋で控えていたメイドのイザベラがいきなり声を荒らげた。その瞬間、リンソーディアはイザベラを床に叩きつけて組み伏せる。あまりの早業にパトリシアは咄嗟に反応できなかった。
「リ、リンソーディア様、なにを……」
「王女殿下の御前で手荒な真似をして申し訳ございません。しかし先ほどわたくしが飲んだ紅茶には毒が入っておりまして」
「毒……!?」
リンソーディアは頷いた。当然だが無味無臭、無色透明の典型的な毒である。しかし摂取した者の味覚をほんのわずかに狂わせるという特徴を持つこの毒は、じつは見分けるのがかなり難しい毒の一つに数えられていた。
「ただ誰が入れたのか確信が持てなかったので、この部屋の中にいる者でわたくしに敵意を持つ者をあぶりだそうと思ったわけですが……存外すぐに尻尾を出しましたね」
抵抗しようとしたイザベラの腕を捻り上げると悲鳴が漏れる。パトリシアは信じられなさそうに自分がよく知るメイドへと目を向けた。
「イザベラ……本当にあなたがリンソーディア様に毒を……?」
「だ、だって、この女はウィズクロークの兵を山ほど殺してチェザリアンまで逃げてきた血の公女なのですよ!? そんな女がパトリシア様と並んでクライザー殿下に嫁ぐなんて、考えただけでも恐ろしいじゃありませんか!」
喚き立てるイザベラを見て、リンソーディアは意外そうに目を丸くした。そして何を思ったのか、組み伏せていたその体勢から彼女を解放してやる。痛そうな顔をしながらも、イザベラはキッとリンソーディアを睨みつけた。
「なによ……こ、殺せるものなら殺してみなさいよ、この殺人鬼。言っておくけど王宮内でこんな騒動を起こしておいて、ただで済むとは思わないことね。あんたなんか早く処刑されちゃえばいいのよ」
「イザベラッ! 口が過ぎますわ!」
さすがのパトリシアも険しい表情を浮かべた。しかし当のリンソーディアは感心したような顔をイザベラに向ける。
「驚きましたね。ここまで真っ当な神経の方にお会いしたのは久しぶりです」
チェザリアンに来てからというもの、こちらの素性を知ってもなお理解を示してくれる人にばかり囲まれていたから。リンソーディアにとって今回のイザベラの反応は新鮮であり、同時に当然のことであると思い起こさせてくれるものでもあった。
叫ぶイザベラの声を聞きつけたのか、扉前にいた衛兵が血相を変えて飛び込んでくる。イザベラはすかさず衛兵に訴えた。
「早くこの女を捕まえて! 我がチェザリアン王国と同盟を結んでいるウィズクローク大帝国に牙を剥いた大罪人よ! 私のことまで殺そうとしたんだから!」
正確にはイザベラがリンソーディアを殺そうとしたわけだが、そんなことを知る由もない衛兵はすぐさまリンソーディアを取り押さえた。しかしパトリシアが衛兵に駆け寄って必死に訴える。
「待ちなさい! リンソーディア様は大罪人などではありません! むしろイザベラがリンソーディア様に毒入りの紅茶を飲ませたのです!」
「パトリシア様、だいぶ錯乱しておられるようですね。あの女が毒を飲んだというのなら、どうして今ケロリとした顔で生きているのです? でもあんな場面を見せられた直後ですもの。ああ、お可哀想なパトリシア様。お部屋で少しお休みになってくださいませ」
思いのほか強い力で押し留めてくるイザベラに、パトリシアは必死になって抵抗した。
「やめて、イザベラ! 離しなさい!」
「なにをしているの、衛兵。早くその女を地下牢に連れて行きなさい。まったく忌々しい。だから私は初めから客室ではなく牢獄にこの女を監禁するよう言ったのに……」
ブツブツと言い続けているイザベラだったが、「うがっ!?」という衛兵のくぐもった悲鳴に顔を上げた。
そうして見たものは、リンソーディアに軽々と投げられて床に倒れ伏す衛兵の姿。ぴくりとも動かないことから完全に昏倒していることは明らかだった。
「なっ……!?」
「なにを驚かれているのですか。私のことを危険だと言ったのはあなたではありませんか、イザベラさん」
リンソーディアは廊下へと目を向けた。さすがにこの騒ぎだ。衛兵が入ってきたときから扉は開けっ放しになっている。バタバタと兵士たちが走ってくる足音が聞こえてきた。
「パトリシア王女殿下」
呼びかかければ、パトリシアはびくりと肩を震わせながらも「なにかしら」と答えてくれた。大人しそうな外見に反して、気丈で勇敢な王女様だ。……友達になれなかったのは、少しだけ残念だけれど。
「血の公女と呼ばれるわたくしを庇ってくださったことに心から感謝いたします。クライザー皇太子殿下はわたくしにとって仇敵以外の何者でもありませんので、王女殿下と家族になれる日は永遠に来ませんが――どうか、お元気で」
「リンソーディア様!?」
最後までこちらの身を案じてくれるパトリシアの悲痛な声に、大丈夫だと笑顔で応えて、そうしてリンソーディアはなんの躊躇いもなく嵌め込み式の窓ガラスを割ってそこから飛び降りたのだった。




