18. 殺したくなかったんですよ
たとえ街道が全面通行止めになっていても、外部からの情報は最低限入ってくるようにする必要がある。
そのためによく用いられる手段が伝書鳩だった。特にチェザリアンの固有種である書状鳩は帰巣本能が極めて高く、優秀な伝書鳩として国内外で広く使われている。
そんな書状鳩を使って送られてきた手紙が、今日も配達人によって第十三監獄に届けられていた。今日は一通だけ。受け取ったアイザックは差出人を確認し、それからぎゅっと眉根を寄せた。
――ウィズクローク大帝国から、リンソーディア宛てに送られてきた手紙だった。差出人の名前はなし。それが余計に嫌な予感をかきたててくる。
「とうとう来やがったか……」
自分でも驚くほどの低い声が出てアイザックはぎょっとした。……どうやら自覚していた以上に自分はあの二人のことが気に入っていたらしい。我ながら、ちょっと意外だった。
まるで親書かと思うほどの美しいその封書を、アイザックは詰所番をしているリンソーディアのもとへと持っていく。この手紙を見て彼女がどんな反応を示すのか、まったく予想できなかった。たぶん、怒ったり怖がったりはしないだろうが。ものすごく嫌そうな顔をするか、清々しいまでの無関心か……このあたりな気がする。
「おーい、ディア。お前宛ての手紙が届いてたぞ」
できるだけ深刻そうな顔はせずに、いたって気楽な口調で手紙を渡してやる。これで少しは彼女の気が楽になればと思ったわけだが。
「ありがとうございます。どこからの手紙で……おや。……ふふ、ふはっ……は、あはははは!」
受け取ったリンソーディアは、差出人不明なその手紙を見るなりいきなり弾けるように笑い出した。思わぬ反応にアイザックは目を丸くする。どんな反応をするのだろうと思ってはいたが、まさか急に笑い出すとは。しかも彼女がこんな笑い方をするなんて。
ひとしきり笑い終えたあと、リンソーディアは意外なほど丁寧な手つきでその手紙を開封した。そして内容に目を通し、再度「ふふふ」と笑い始める。
「これはまた……くく……いやあ、まさかあのクライザー様がねえ……」
「お、おいディア……?」
「ああ、これは失礼しました。アイザックさんも読みます? なかなかの傑作ですよ」
封書と同じ美しい紙をひらひらさせながらリンソーディアはニヤニヤと笑っている。差し出された手紙をアイザックは恐る恐る受け取った。封書には送り主の名前は書かれていなかったが、リンソーディアの言葉からするとウィズクロークの皇太子であるクライザーが送ってきたものらしい。彼女は傑作だと言うが、一体なにが書かれているのだろう。
「……。…………。…………なんだこれ」
「なにって、紛うことなき恋文ですが」
「求婚じゃなくてか」
「そういう言い方もできますかねえ」
相変わらずニヤニヤしているリンソーディアの顔を見て、アイザックの額にじわりと冷や汗が滲んだ。ニヤニヤしてはいるが、彼女の目だけはさっきからずっと笑っていなかったことに今さらながら気がついてしまったのだ。
そして思い出す。ここへ来た当初、ヴェルフランドがクライザーを非常に警戒していたことを。
アイザックは必死に過去の記憶を探った。他国の皇族ではあるが、クライザーの顔くらいは騎士隊長時代に何度か見たことがあった。
皇太子という立場にありながらその物腰は柔らかく、誰に対しても優しい微笑みを浮かべ、極めて優れた頭脳と広い視野を持つ、まさに絵に描いたかのように完璧な皇太子殿下。それがアイザックの知るクライザー・ラノン・ド・ウィズクロークである。
僕のことを覚えておいでですか、という文字をリンソーディアは指先で撫でた。切実さが滲むその一文に、リンソーディアは歌うような口調で答える。
「ええ、クライザー様。覚えていますとも。あまりにも酷いあの有様は、忘れようにも忘れられません」
言葉を交わしたのはたったの一度。あの日、すべてが終わったあと。リンソーディアはわざわざクライザーを探すために死体が転がる国境沿いへと出向いたのだ。
「あなたは優しくて、穏やかで、有能で、とても理想的な皇子様。そう、あくまで表向きは」
表向き? アイザックは首を傾げた。あの皇太子に裏の顔なんてあるのか。
リンソーディアはただ笑う。おかしくておかしくてたまらないと言わんばかりに。
「アイザックさん、クライザー様の初陣についてはご存じですか?」
「初陣? いや、知らねえな。有名な話なのか?」
「そうですね、一部では有名でしょう。でも他国とはいえ騎士隊長だったアイザックさんでも知らないということは、本当にごく少数だけが知る話になっているようですね」
箝口令でも敷かれたのだろうか。まあそれも当然かとリンソーディアは一人で納得する。あれは確かにいろいろと酷かったから。
「三年ほど前でしょうか。私たちからすれば遅すぎる初陣ではあったのですが、とにかくクライザー様の初陣の日。彼は一人で百を超える兵を屍にしました。それには敵兵はもちろん、自国の兵も多数含まれていたそうです」
敵味方関係なく、周りにいた者すべてを滅ぼし尽くした、ヴェルフランド以上の破滅の皇子。それがクライザーだ。あまりにも危険な彼の存在を危惧したリンソーディアは、殺す気満々であの日ひとりで国境沿いまで出向いたわけだが。
全身ボロボロで放っておいても勝手に死にそうな彼を一目見たとき、……急に気が変わった。殺すつもりだったのに、逆に手厚く手当てをして、他愛のないことを話して、迎えまで呼んでやって、そうして結局手を下さずに帰ってきた。もう二度と会わないつもりで。
「……どうして殺さなかったんだ?」
「どうしてでしょうねえ。今でもたまに考えますけど」
殺しておくべきだった。あるいはあのまま彼が死ぬに任せておけば良かった。そう思ったことは一度や二度ではない。でも。
「殺したくなかったんですよ。なんとなく。本当にそれだけだったんです」
以前に一度だけ、同じことを兄にもボヤいたことがあった。殺したくなかったのだと。すると兄はわずかに目を見開いたあと、どこか嬉しげに「そっかあ」と頷いていた。どうしてそんなに嬉しそうだったのか、リンソーディアは今でも疑問に思っている。
「殺したくなかった、か。いいじゃねえか。それも立派な理由だと俺は思うぞ」
「え?」
思わぬ肯定的なアイザックの言葉に、リンソーディアは目を丸くした。まさか彼まで兄と同意見だと言うのか。
「殺したくなかったから、殺さなかった。それでいいんだ。その感覚を忘れんじゃねーぞ。それはきっと、いつかお前のためになるからな」
「私のため?」
いまいちピンときていないリンソーディアの様子にアイザックは苦笑した。本当に分かっていないのだろう。彼女にしては珍しく戸惑った顔をしていた。
殺さないと殺される。躊躇っていれば死んでしまう。幼い頃からそんな狂った環境に身を置き続けていたら、こうなるのも無理はないのかもしれないが。
いつかリンソーディアにも分かる日が来るだろう。そう思いながら、アイザックは話題を変えることにした。
「ところでどうすんだ? 手紙の内容を要約すると、皇太子妃になってくれって話だろ?」
「どうするもなにも。フラン様の家族を殺した仇敵のもとに嫁ぐ気などハナからありませんが」
さらりと答えるリンソーディアに、アイザックは曖昧な笑みを浮かべて「そうだな」と応えるしかなかった。
自分だって家族を全員失ったのに、彼女がまず真っ先に気にかけるのはいつだってヴェルフランドのことで。もっともヴェルフランド本人は家族への情などあってなきが如しであったため、失ったところで別になにも思っていなそうだが。
「でも春になったら迎えに来るとか書いてあるぞ。先手を打つなら街道が開通する前には動かねえと」
「そうですね、そこらへんはフラン様と要相談ですが」
様々な可能性を吟味するリンソーディアと、大して悩みもせずにいつも最善を選ぶだけのヴェルフランド。話し合えば結論はすぐにでも出るだろう。
「とにかく手紙を届けてくれてありがとうございました、アイザックさん」
「ああ、それは別にいいんだが……助けが必要ならいつでも言えよ。俺も姐さんもハウエルも、お前たちの味方だからな」
そう言ってリンソーディアの頭をポンポンと撫でたアイザックは、自分の持ち場へと戻るために詰所から出て行った。残されたリンソーディアはもう一度手紙に目を通す。読めば読むほど、口元に歪んだ笑みが広がった。
「まさかあれに想いを寄せられていたとは……。道理で他人に無関心なフラン様があれほど警戒するわけです」
これが笑わずにいられるだろうか。リンソーディアの口から「ふはっ」と乾いた笑声が零れた。
まったく、本当に救いようのない男である。せっかくあのとき見逃してあげたというのに。
「私の『殺したくない』がいつまでも続くと思ったら大間違いですよ、クライザー様」
――命の恩人であるあなたのことが忘れられません。気高く、美しく、大切なものを守るために戦い続けるあなたのことが。たとえ地獄に堕ちようと、決して変わることのない貴きリンソーディア様。どうか僕の妃になってください。僕のそばにいて、僕を導いてください……。
リンソーディアは溜め息をついた。相手が皇太子殿下でなければ目を覚ませと引っぱたいてやりたいところだ。
この感じでは、どこに逃げても追いかけてきそうな気がする。そのくらいの執着。やっぱり殺しておけば良かった。でも。
「それでもやっぱり、殺したくないんですよねえ……」
どうしてそう思うのか、リンソーディアには分からなかったし、分かりたくもなかった。アイザックはこの感覚を忘れるなと言っていたけれど。
なんだか無性にヴェルフランドに会いたくなって、リンソーディアは瞑目した。……彼ならば、どんな言葉をかけてくれるのだろうか。
「フラン様……」
「なんだ?」
独り言のように名前を呟いて、それに対する返答があったことにリンソーディアは慄いた。バッと扉に目を向ければ、今しがた来たと言わんばかりのヴェルフランドがコートを脱いでいるところだった。
「ど、どうしたんですかフラン様。まだ交代には早いですよ」
「さっきアイザックから聞いた。クライザーから求婚の手紙が届いたらしいな。ほら、そんなしょぼくれた顔をするな」
「しょぼくれてなんか……って、あれ、なんかいい匂いがしますけど。あっ、それなに持ってるんですか!」
コートをハンガーにかけたヴェルフランドがテーブルの上に無造作に紙箱を置いた。ほのかの漂う甘い香りにつられ、リンソーディアは勝手にその箱を開ける。そして歓声をあげた。
「わひゃー! これオリビア堂のラベンダーとアロエのロールケーキじゃないですか! 食べたかったんですよー!」
「だろうと思った。いつもあそこの店の前でヨダレ垂らしそうな顔をしてたからな。今日は特別だ。好きなだけ食べろ」
リンソーディアの向かいの椅子に腰掛けながらヴェルフランドが静かに笑った。
「あと夕飯は牛帝のミートパイだから楽しみにしておけ」
「至れり尽くせりで逆に怖いですね……アイザックさんになにか言われました?」
「まあな」
肯定しつつも詳しくは語らないヴェルフランドの反応に、リンソーディアもそれ以上深く訊こうとはしなかった。ただ彼が自分を気遣ってくれていることは分かったので、そのことには素直に感謝した。
「ありがとうございます、フラン様」
「ああ」
「夕飯作る時はお手伝いしますね」
「…………」
「なんでそんな究極の選択みたいな顔するんですか、失礼ですね」
余談だが、もともと並程度だったヴェルフランドの料理の腕前は、チェザリアンに来てからというもの飛躍的に跳ね上がっていた。それもこれも、極力リンソーディアを台所に近づけないよう率先して料理を担当していたからという物悲しい理由による賜物だ。
リンソーディアは笑った。先ほどまでの歪な笑みとは全然違う、本当に嬉しい時に浮かべる笑顔。彼女のこの表情を見られる人物は、そう多くはない。
「フラン様」
「ん?」
「……できるだけ長く、一緒にいられたらいいですねえ」
いつかは離れ離れになるとは思うけれど。その日はまだまだ先であって欲しい。これはリンソーディアのわがままだ。
けれどヴェルフランドはそんなわがままに頷いてくれた。当然みたいな顔をして。
「心配するな。お前が望む限り、ずっと一緒にいてやるよ」
ずっと一緒だなんて、こんなに簡単に約束してしまっていいのだろうか。でも彼がこんな風に笑うのは珍しいから、きっと本気にしてもいいのだろう。
二人きりの詰所には、珍しいほどの優しい笑顔と、ほのかに甘いお菓子の香りがしばらく漂い続けていた。




