17. 相変わらず酔狂な奴らだ
以前リンソーディアがのたうち回るはめになった悪臭を放ちし地下監獄。あれから何度かメルセデスを巻き込んで掃除をしていたリンソーディアだったが、通常業務をこなしながらの作業であったため猫の手も借りたいのが実情であった。
しかし先日、ついに新人が二人も採用されたことにより、地下監獄は随分とマシな環境へと変貌を遂げつつある。
「ディア様、本日の清掃により地下監獄は他の区画と同程度の衛生基準に達したと思われ……ディア様?」
新たに第十三監獄の厨房係兼清掃係としてやってきた新人のラシェルは、報告の途中でいきなりガシッと手を掴んできたリンソーディアに目を瞬かせた。普段は表情筋が死んでいるラシェルだが、心なしかきょとんとした顔になる。
「あなたは私の救世主です、ラシェルさん。あのくっさくて汚い地下監獄をよくぞあそこまで……。フラン様、とっととラシェルさんに臨時ボーナスを出してあげてください」
「あいにく今の俺はこいつの雇用主じゃない。そういうことは看守長に言え」
「でんっ……じゃなくてフラン様! 外の除雪作業が終わりました!」
「お前もだ、ノルベール。報告なら俺ではなく看守長に言え」
元気よくやってきたもう一人の新人であるノルベールは、かつて第三皇子付きとしてヴェルフランドに仕えていた元騎士である。ちなみにラシェルも以前はヴェルフランド付きの使用人として働いていた。
二人とも皇宮落城の間際までそばに控えていた忠義の部下たちの一人であり、ヴェルフランドとリンソーディアによる最後のお茶会をニヤニヤと見守っていた人物でもある。
残念ながら、あのとき逃がした部下たちの中で生き残れたのは三分の二程度だったらしい。ラシェルによると、生き残りのうち数人は元アークディオス領に身を潜め、残りは全員チェザリアンにいるようだ。
仲間内では中心的存在であったラシェルとノルベールは、冬になる前に皆が仕事を見つけられるよう奔走し、その甲斐あってなんとか全員がなにかしらの職に就くことができた。それから二人は危険すぎて仲間には紹介できなかった第十三監獄の面接に意を決して臨んだわけだが。
「まさかこんなところでフラン様とディア様に再会できるとは……嬉しい誤算です」
「面接の時やけにいろいろと探りを入れられたもんだから、スパイ疑惑でもかけられてんのかと不安でしたよ。いま考えるとお二人を守るためだったんですね」
きっかけはハウエルの発言だったとはいえ、やはりセラフィーナにもこちらの素性を明らかにしておいて正解だったらしい。たとえウィズクロークからの追っ手が潜り込もうとしても速攻で弾いてくれることだろう。ノルベールが首を傾げた。
「ところでディア様、なーんか雰囲気変わりました? 前はもっと深窓のご令嬢っぽいというか、完璧すぎて声かけにくい感じでしたけど、今はいい意味で庶民みたいで親しみやすいですね」
「こいつは元からこんなんだったぞ」
「やかましいですよ、フラン様。幼なじみとはいえ、あくまであなたは皇子殿下だったんですよ。そんなあなたに対して人前で慇懃無礼な態度を取れるわけないでしょうが」
つまり、人前でなければ慇懃無礼だったということである。
「でも国が滅びた以上、私たちはもはや皇子でもなければ公爵令嬢でもないわけですからね。これからは人前でも遠慮なくフラン様をこき下ろせます」
これからはというか、すでに散々こき下ろし合う仲ではあったが、わざわざそれを指摘するような真似をするヴェルフランドではなかった。指摘したところで再度「やかましいですよ」と笑顔で睨まれるのが目に見えていたので。
「それにしても、お二人が来てくれて本当に助かりましたよ。私たちが出ていくとなると、ここは看守が三人しかいない限界監獄に逆戻りですからね」
ラシェルとノルベールの実力はリンソーディアもよく知っている。この二人ならば危険人物だらけの第十三監獄でも上手くやっていけるだろう。じつに頼もしい後任たちに恵まれたものである。
一方、ここを去ることを想定しているリンソーディアの物言いに、ラシェルは考え込むようにわずかに眉を寄せた。
「……ではやはり、ウィズクロークにはお二人の居場所がバレていると考えたほうがいいのでしょうか」
「そうですねえ。ガイアノーゼル内で何度か襲撃されていますから、私たちがここにいることはすでに特定されているのでしょう。でも心配しなくて大丈夫ですよ。少なくとも冬の間は、ですが」
刺客も密偵もいるにはいるが、そう数は多くないし、そこまで強いわけでもない。なにより冬の間は敵の増援を心配しなくていいのが大きい。
神妙な顔でその話を聞いていたノルベールだったが、すっと一歩下がったと思うと、ヴェルフランドに向けて騎士の礼をとった。その隣ではラシェルが臣下の礼をとっている。彼らの突然の行動に目を瞠るヴェルフランドに対してノルベールが口を開いた。
「改めて……ご無事でなによりでした。国は滅びましたが、我々は変わらずあなた様に忠義を捧げます、我が君」
ヴェルフランドは黙ってかつての部下たちを見つめた。それから小さく溜め息をつく。
「相変わらず酔狂な奴らだ。俺はもう皇族ではないし、国を取り戻そうとかいう気概もない。それでも俺についてくる気か」
「はい、我が君。我々はずっとあなた様という一個人に仕えてきたのです。……そうでなくば落城の折、とうの昔に見切りをつけて皇宮を脱出していたことでしょう。他の皇族の方にお仕えしていた多くの使用人や騎士たちがそうであったように」
リンソーディアは目を伏せた。……そうだ。ヴェルフランドの部下たちは、逃げられたのに、逃げなかった。自分の命を守るために行動すべき時だったのに、そうしなかった。
それは愚かな選択だった。実際、落城間際まで皇宮に留まっていたせいで彼らのうちの三分の一が命を落としてしまったのだから。死んでしまったら忠義もなにもないのに。それでも。
つん、とヴェルフランドの服の裾をリンソーディアが引っ張る。すぐにどうしたのかと無言で見下ろしてきた幼なじみに、リンソーディアはなぜだか泣きそうになった。
「……ね、フラン様。あなたは結構好かれていたんですよ。気づいていなかったかもしれませんけどね」
あの時、ヴェルフランドの部下たちは、自分の命よりも主君のそばに留まることを選んだのだ。もういいからと、これが最後の命令だとヴェルフランドに告げられるその時まで、ラシェルもノルベールもその場を離れなかった。全員がそこにいることを望んでいた。
その後、後ろ髪を引かれる思いで皇宮を脱出し、そのときに失ってしまった仲間のことを思って未だに泣くことはあるけれど、それでもやっぱりヴェルフランドを選んだことに後悔なんてなくて。
リンソーディアの言葉にノルベールは頷いた。そしてヴェルフランドにまっすぐな視線を向ける。
「あなた様の身に起きていることを考えると、以前のように表立ってお仕えできないことは我々も理解しております。ですがどうか心の中だけでも、あなた様を主君として仰ぐことをお許しください」
深く頭を垂れるかつての部下たちに、ヴェルフランドは呆れたような目を向けた。それでいてわずかに温度のある視線を。
「……好きにしろ。どうせ俺たちはいずれここを離れることになる。その時までの付き合いだ」
そう言って、話は終わりだと言わんばかりにヴェルフランドは踵を返した。ついでにリンソーディアの肩に腕を回して強引に彼女を回収していく。普段のリンソーディアならば「あなたって人はいちいち馴れ馴れしいんですよ」とか苦言を呈しそうなものだが、今回に限ってはされるがままだった。
そんな二人の後ろ姿を見送り、ラシェルはふと皇宮での彼らを思い返した。……あの頃は、てっきり二人が結婚するものとばかり思っていたが。
「ノルベールさん、どう思われます?」
「どうって、フラン様とディア様か? そりゃあいずれ……なあ?」
くっつくんじゃねーの、というノルベールの推測は、果たして現実になるのかどうか。それが分かるのは、もう少し先の未来の話である。
「しかし無事に逃げ延びられたというのに……未だお二人には追っ手がかけられているのですね」
「そうみたいだなー。ウィズクロークの連中め、いい加減あきらめればいいものを……」
ラシェルもノルベールも苦い表情を浮かべた。思うところがたくさんあった。
彼らが敬愛する第三皇子は、これまでずっと戦ってきた。戦場で、皇宮で。気が休まるときなんて、それこそリンソーディアたちと過ごす時間くらいだったかもしれない。
故郷を逐われてチェザリアンにきた今でさえ、執拗な追跡を逃れるために人の少ないこの場所で看守として細々と生活していて。それなのに、結局は見つかって襲撃に遭って。
いい加減、休ませてあげたかった。ヴェルフランドも、リンソーディアも。二人とも、もう一生分は戦い尽くしたはずなのに。……二人とも、まだ十代の若者なのに。
「春は、もう少し先ですね」
ラシェルの呟きに、ノルベールが無言で頷いた。
春がくれば、お二人はきっとここから出ていく。街道が開通され次第、山ほど送り込まれてくるであろう追っ手から、ここで出会った人々を守るために。そういう方たちなのだ、あのお二人は。
春がこなければいいと、ラシェルとノルベールは生まれて初めて真剣に願った。けれど明けない夜がないように、終わらない冬も決してない。
二人の不安な気持ちに呼応するかのように、外では雪が強さを増した気がした。
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「……なーんて、今頃あの二人は考えているんでしょうねえ」
真っ白な息を吐き出しながら、リンソーディアは目を細めて空を見上げた。雪が強くなってきたせいで視界が悪い。ハウエルに頼まれた食材を買いに行くこの道のりが遠く感じられた。
ラシェルとノルベールがなにを思い悩んでいるかなど、リンソーディアにはすべてお見通しだった。忠義に厚くて責任感も強くて、なにより優しいあの二人が、主君であるヴェルフランドの現状についてなにも思わないはずがないのだ。
しかし、心配する必要などどこにもないとリンソーディアは断言できる。
「……………………さっむ」
「ちょっと、くっつかないでくださいよ。私だって厚着しているんですからくっついたところで温かくはなりませんよ」
顔をしかめながらぎゅっと腰を抱き寄せてくる幼なじみに冷たい目を向けるリンソーディア。つくづくこんな奴の心配などするだけ無駄だとラシェルたちに言ってやりたい。
なぜならヴェルフランドにとっての目下の敵は、ウィズクロークからの追っ手などではなく、チェザリアンの容赦なき冬の寒さのほうなのだから。
「ディア、お前の温石をよこせ。手持ちだけでは足りん」
「寝言は寝ても言わないでください。これは私のものです」
「くっつくのもダメ、温石もダメ、お前は俺を凍えさせたいのか」
「冷えは女性の大敵なんですよ。そんなか弱き乙女から温石を追い剥ごうなんて、あなたはどこの鬼畜なネズミ小僧なんですか。凍えるなら一人で凍えてください」
温石をめぐって攻防を続けながら、二人は買い出しメモを片手に市場をうろうろと歩き回る。途中、どこぞの恋人たちが二人でひとつのマフラーを巻いて歩いている姿を目撃し、落雷のごとき衝撃を受けた。リンソーディアがバッとヴェルフランドを見上げれば、彼も目を見開いてこちらを見下ろしてくる。二人は同時に頷いた。これだ……!
しかし五分後、飛び込んだ店先で二人用マフラーを試着した二人は揃って微妙な顔をした。
「……別にこれといって温かくないな」
「しかも動きづらいですね」
「なにを仰いますか、お客様! 二人でひとつのマフラーを巻く! これは恋人たちにとって心温まる冬の醍醐味のひとつですよ!」
温まりたいのは心ではなく体である。店主がなにやら力説しているが、別に恋人同士ではない二人は無駄足だったと正気に戻り、頼まれていた買い出しの続きへと戻った。
そもそも恋人同士ではないのになぜあんなものに目を惹かれてしまったのか……。寒さは人を狂わせるなとリンソーディアはしみじみ思うのだった。




