16. 何事もバランスです
逃亡中の身としては、冬のチェザリアンは追っ手を返り討ちにするのにうってつけの場所であると思っていたわけだが。
「……こんなことってあります?」
「ないな。少なくとも私は初めて経験する。諦めろ、ディア。これが北国だ」
十二月の上旬。リンソーディアはすさんだ目でがっしょがっしょと雪はね作業に勤しんでいた。一緒に除雪をしていたセラフィーナは苦笑する。チェザリアン生まれチェザリアン育ちの彼女からしても今年の冬は異常なのだ。
この年、チェザリアンは例年よりもだいぶ早い根雪、そして豪雪を経験していた。雪をはねてもはねても降り続けるものだから、除雪したあとを振り返るとそこにはもうそれなりの量の雪が積もっているという心が折れそうな事態が起きているのである。
先日などは「このままでは監獄が埋まるッ!」と雪が降り続けるなか日付が変わるまでひたすら雪をはね上げていたら、翌朝そこは蟻地獄の真ん中みたいなすり鉢状の地形に変わっていた。おかげで建物は埋まらずにすんだが、官舎に帰るための道を掘るためにさらに半日を費やすことになった。
「そういえばフランはどうしている?」
「相変わらず暖炉の番人になっていますよ。地下監獄もいい感じにポカポカなので、囚人たちには大人気です」
「あいつどんなに寒くても小揺るぎもしなそうな顔していて、まさか寒いのが苦手だなんて意外だったな……」
そう、欠点なんて性格以外になさそうなヴェルフランドだが、ここにきて寒さに弱いという事実が判明した。当然だが、故国であるアークディオスも冬はもちろん寒かった。しかしチェザリアンのように零下を下回るほどの気温はほとんど経験したことがなかったのだ。
ちなみに今の気温は氷点下五度。早朝とはいえ、アークディオス出身の感覚でいくとすでに真冬のような気温である。慣れた手つきで除雪を続けていたセラフィーナは溜め息をついた。
「しかし今からあんなに着込んでいたら、一月や二月に着るものがなくなるぞ。チェザリアンの冬はそのあたりが一番厳しいわけだし」
「だ、暖冬の可能性とかは……」
「降雪量が多いと暖冬になる年が多いとは聞くが、専門家じゃあるまいし確かなことは言えないな。雪が多くて気温も低いという年だってある」
そうなったら北国初心者は潔く死を覚悟したほうがいいかもしれないなとリンソーディアは思った。
しかし悪いことばかりではない。この豪雪のおかげで、チェザリアンはあっという間に陸の孤島と化してくれたのだ。
思ったよりも早く街道が通行止めになったため、ウィズクロークからの刺客を必要以上に心配しなくて良くなりリンソーディアは安堵していた。もちろん通行止めになる前に入り込んでいる密偵やら刺客やらはいるだろうが、そう数は多くないだろう。
「看守長」
「うん?」
「フラン様の命を狙う刺客が現れた場合、返り討ちにして相手が死んだりしたらやっぱり殺人罪に問われますかね?」
ガイアノーゼル内で犯罪を起こせば、どんな軽犯罪でも第十三監獄行きの重罪とされる。やはりウィズクロークからの刺客を始末するなら、ガイアノーゼルの外でするべきか。
「……やむを得ない場合は、正当防衛が適用されるような仕方でやりなさい。間違っても過剰防衛と判断されないように」
「ううーん、その加減って結構難しいんですよねえ。今のうちに証拠隠滅の手筈を整えておくことにします」
「暗殺の玄人みたいなことを言うんじゃない」
何気に犯罪すれすれなことを話しながら、二人は一通り除雪を終えて第十三監獄へと戻る。これからセラフィーナは全看守長が参加する定例会議のため第一監獄へ向かい、リンソーディアは詰所の当番だ。カンカンと階段をおりて地下へと向かう。
「お疲れ様です、フラン様。交代です」
「……ああ」
詰所の暖炉に薪を焚べていたヴェルフランドが振り返った。宿直当番だったのである。いつもの制服の上に一枚余分に羽織っているが、彼にしてはこれでも軽装だ。
リンソーディアはコートを脱いでハンガーにかける。ボンボンに燃やされている暖炉の熱は暑いくらいだが、ずっと外にいたのでありがたいことではあった。まだ日中は気温も上がるが、深夜と早朝はこのくらいでちょうどいい。
「看守長に確認を取りました。正当防衛が適応される範囲内なら、刺客を返り討ちにしてもいいそうです」
「面倒臭いな……周りに人がいなければサクッと始末して証拠隠滅するほうが早い」
発想が完全にリンソーディアと同じだった。どうあがいても正義とはほど遠い残念な二人組である。
とりあえず刺客への対応は脇に置いておくとして、リンソーディアは交代のときに必ず確認するよう言われている記録帳に目を通した。大抵は『特に異常なし』と書かれているが、今回はヴェルフランドの筆跡で『錠破りのダリウスが五十七回目の脱走を試みるも地下監獄を出る前に阻止』と書いてある。ちなみにこの五十七回目という数字は、ダリウスがガイアノーゼルに収監されてからの累計脱走回数だ。
「錠破りのダリウスさんも懲りないですねえ。大人しくしていれば模範囚として刑期が縮む可能性があるのに」
「脱走というよりも、錠破りの記録に挑戦みたいなところがあるんじゃないのか。今回も自分の牢の鍵を開けて他の囚人にちょっかいかけてただけだったしな。一応あいつの監房だけ鍵を五つに増やしておいたが、奥の監房に移したほうが扱いやすいと思うぞ」
「んー、まだそこまでしなくてもいいと思いますけどねえ。単に錠破りの腕が天才的なだけで、本人の戦闘能力は並の兵士と大差ありませんし」
錠破りのダリウスは、王城兵である立場を利用して厳重に管理されていた王家の宝物庫にたびたび忍び込み、国宝級の品々を持ち出しては他国へと売りさばいていたことが発覚してお縄となった人物だ。ガイアノーゼルに来てからもその錠破りの腕前をいかんなく発揮し、脱走回数が五十回を過ぎたあたりでついに第十三監獄に放り込まれることになったという経緯がある。
ちなみにヴェルフランドが言っていた『奥の監房』というのは、地下監獄のさらに奥にある三重扉の向こう側の区画のことだ。そこは化け物級の犯罪者を封じ込めておくための特殊監房になっている。現在は誰も入っていないが、過去に二人だけ収監されていたことがあるらしい。
「とにかくお疲れ様でした。眠いでしょう、早く帰って休んでください」
大してやることのない引き継ぎ作業を終わらせたリンソーディアがそう言うと、ヴェルフランドは頑なな表情で首を横に振った。
「官舎に戻っても部屋が寒い。ここにいる」
「暖炉に火を入れたあと踊り狂っていれば、嫌でも体温が上がってポカポカになりますよ。おすすめの踊りでもお教えしましょうか?」
せっかくの提案にも関わらず、ヴェルフランドは心底嫌そうな顔で「いらん」と即答した。おすすめの踊りだかなんだか知らないが、昨日も一昨日も激しく鳥の求愛ダンスを真似ている彼女を見ているため、嫌な予感しかしないのだ。
「じゃあ妥協案で、腹筋と背筋と腕立て伏せを百回ずつしたらいいんじゃないですか。体も温まって筋肉も体力もついて一石三鳥です。なんという欲張りコース。いいことしかありません」
「……お前、筋肉隆々が好みなのか?」
「なんで引いた顔をするんですか。別にマッチョもモヤシも好みじゃありませんよ。何事もバランスです」
一瞬だけ我が身を顧みたヴェルフランドだが、リンソーディアの好みを聞いてなんとなくホッとした顔になる。リンソーディアは他意なく付け加えた。
「心配しなくても、フラン様はバランスよく鍛えたいい身体をしていると思いますよ。古傷も多いですが私も似たようなものですし、お揃いですね」
「…………」
返答に困ることを言わないで欲しいとヴェルフランドは切実に思った。
余談だが、リンソーディアがヴェルフランドの体つきに詳しいのは断じて色っぽい理由などではなかった。古傷という表現からも分かる通り、いかに強くとも戦闘の最前線に身を投じ続けていて無傷でいられるはずもない。ヴェルフランドくらい強くても大きな怪我は何度か経験しているし、リンソーディアがその手当てをしたことも少なくなかった。今さら相手の裸を見て恥ずかしいとかいう感情が湧くわけもないのである。
それはそれとして、ヴェルフランドはなんとも言えない気持ちに苛まれたため、そそくさと帰宅することにした。
「……帰る」
「はい、お気をつけて。あ、私の使いかけですけど温石いります?」
「いや、用意してある」
冬物のコートを着込んだヴェルフランドは、あらかじめ温めておいた温石を布でくるんで懐に入れた。それからリンソーディア作のだいぶマシな形状へと進化したマフラーをぐるぐるに巻きつけ、アイザック作の完璧な形状の手袋をはめる。
「官舎に戻る前に市場に行く予定だが、なにか必要なものがあればついでに買ってくるぞ」
「じゃあワインと蜂蜜をお願いします」
「わかった」
なんとなく気分でリンソーディアの頭を撫でてから、ヴェルフランドは瓶底眼鏡をかけて詰所をあとにした。足取り重く外に出ると、ヒュウと吹いてきた冷たい風に首が竦んだ。寒い。
ガイアノーゼルに来てから半年ほどが経過していた。ヴェルフランドは冬独特の白い空を見上げる。故郷とはまったく違う景色と気候だというのに、笑ってしまうほどなにも感じていない自分はつくづく心が欠けていると思った。リンソーディアならば故郷とは似ても似つかないこの景色に少しは感傷的になるだろうに。
「…………」
ぼんやりと考え事をしながら市場に向かって歩いていたヴェルフランドだったが、不意にどこからか殺気を感じてぎゅっと眉間に皺を寄せた。
次の瞬間、ヴェルフランドは後ろ向きに勢いよく跳んで体を反らし、地面に両手をついた反動を利用して綺麗に後方へと一回転した。その動きにより飛来してきた複数の矢をすべて躱すことに成功する。着地と同時に素早く周囲に視線を走らせて、周りに誰もいないことを確認した。よし。
「証拠を隠滅してしまえば何が起きても問題ないな」
先ほどリンソーディアと話していたことを思い出し、ヴェルフランドは一人にやりと笑った。
雪の上で血が流れると目立って仕方がないし、死体を埋めるにしても地面を掘るにはまず雪を掘らねばならない。証拠隠滅を謀るには難しい季節だったが、リンソーディアとの平穏な生活を守るためならば、多少の面倒も難しさも大した問題ではないと思えた。
「俺とディアを敵に回したこと、百年先まで後悔するがいい」
ヴェルフランドはコートの下から剣を引き抜く。そして、狩りが始まった。
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「ただいま帰りましたー」
「ああ、おかえり」
夕食を作っていたヴェルフランドがいつも通りの無表情でリンソーディアを出迎える。
「ワインと蜂蜜買ってきてあるぞ」
「わ、ありがとうございます。これで冬の乾燥に対処――フラン様? なにかありましたか?」
いつも通りの無表情だったはずだが、リンソーディアはヴェルフランドを一目見た瞬間になにかを察したらしかった。顔には出ていないはずだから、恐らく雰囲気でなにかを感じ取ったのだろう。どこか心配そうな眼差しを向けてくる。
隠しておくこともできたが、ヴェルフランドは正直に「ああ」と答えた。一目で看破された秘密を隠す必要もないし、なにより情報は共有したほうがいい。リンソーディアが相手ならば特に。
「市場に向かう途中で襲撃に遭った。証拠隠滅にも限度があるから、今回は殺していないがな」
「えっ」
心底驚愕したと言わんばかりにリンソーディアが大きく目を見開く。
「あえて襲撃犯を見逃したってことですか? 疑わしきは皆殺し主義者のあなたが? どういう風の吹き回しですか?」
「そんなに夕飯抜きにされたいのか」
「ぎゃっ、言葉のあやじゃないですか。夕飯抜きは勘弁してください!」
慌てて前言を撤回するリンソーディアにヴェルフランドは胡乱な目を向けた。
まったく、襲撃犯を殺さなかったというだけでこの反応である。じつに失礼な幼なじみだ。




