15. ちょっと顔を貸してください
クライザーがリンソーディアと初めて顔を合わせたのは、三年ほど前のこと。アークディオスとウィズクロークの国境沿いで両軍が激突して、一面が焼け野原になったあとのことだ。
敵味方関係なく転がる死体たちに混ざって、クライザーは仰向けになって空を見上げていた。全身傷だらけだったが、特に深い刺し傷は二箇所。血は未だに止まっていない。ついでに片腕と片足の骨が折れていて、肋骨にも恐らくヒビが入っている。疲れと痛みでぼんやりと空を眺めていたクライザーの視界に、誰かの顔が逆さまに映り込んできた。
『……驚きましたね。まさか生き残りがいたとは』
本当に驚いたのか、覗き込んできた少女の目が大きく見開かれる。しかし驚いたのはクライザーとて同じだ。
琥珀金の髪と、アメトリンの瞳。敵国アークディオスで有名な戦姫だ。確か名前はリンソーディア。戦場での直接対決こそなかったが、遠目からでも彼女の凶悪なまでの美しさには何度も目を奪われかけた。
とはいえ、彼女が敵である事実に変わりはない。仰向けになったままクライザーは溜め息をつく。なんかもう、いろいろと終わった。
『なんですか、その辛気臭い顔。言っておきますが殺したりしませんよ。戦いはもう終わったんですから』
そう言って、リンソーディアは頼みもしないのに勝手にクライザーの手当てを始めた。自分でも直視したくないほどひどい有様だという自覚はあるが、彼女は顔色ひとつ変えずに応急処置を施していく。
出血箇所は手早く止血し、傷口に疵癒草を当てて包帯を巻き、骨が折れていたところは固定し、痛み止めの水薬を問答無用で口に突っ込まれる。
『国境沿いで倒れていたのは不幸中の幸いでした。さすがの私もあなたを抱え上げて運ぶのは無理ですから』
あらかた手当てを終えたあと彼女はどこかに消え、かと思えばどこからか調達してきた小枝を一抱え携えて戻ってきた。
『ウィズクローク側に合図を送るので、迎えが来るまで我慢してくださいね、クライザー様』
名乗ってもいないのに当然のように名前で呼びかけられる。リンソーディアは小枝にちゃっちゃと火をつけて、さらに追加であれこれと焚べ、煙だけをもくもくと空へと立ち上らせた。狼煙だ。これでウィズクローク軍にクライザーの居場所を伝えているのだ。
リンソーディアがくるりとクライザーを振り返る。その拍子に彼女の髪とドレスがふわりと膨らんだ。……ドレス?
『……どうしてドレス姿なんだい?』
ドレスといっても破れや穴がひどく、あちこちから血が滲んでいるのが見えた。これではまるで、着替える間もなく戦場へと駆り出されてきたかのようだ。
リンソーディアはぺたりとクライザーの隣に座り込む。それから、はあ、とひどく億劫そうに溜め息をついた。
『お父上にお伝えください。できれば宮廷晩餐会の最中に攻め込んでくるのはご遠慮願いたいですと』
どうやら本当に着替える間もなくそのまま出陣してきたようだった。クライザーはなにか言いたげな目でリンソーディアを見つめる。
よく似合っていたであろう美しいドレスは今や台無しで、綺麗に結い上げられていたはずの髪は不自然なところで斜めに切り落とされていた。年頃のご令嬢がこんな無惨な姿を好むとは到底思えない。思わずクライザーはリンソーディアに尋ねた。
『君がそこまでする価値がアークディオスにあるというのか。本当に?』
まだ十四歳のご令嬢にこんな思いをさせるだけの理由を、本当に帝国は持っているというのだろうか。
クライザーの反応が予想外だったのか、リンソーディアは目を丸くした。それから、ふふ、と思いのほか楽しそうに笑う。
『この国に価値があるとかないとかを語れるほど私は偉くありませんよ。でもまあ、大事な人たちを守るために戦えるだけの力があることには、感謝しています。無力なほうがよほど堪えますから』
好きで戦場に身を置いてるわけではないけれど、大事な人たちを守れないほど弱いよりはよっぽどマシなのだと。
クライザーはなにか言おうとした。けれどそれを遮るかのように、どこからか地鳴りのような振動が伝わってきた。数頭の馬がこちらへと向かってくる気配。どうやらクライザーのお迎えが来たようだった。リンソーディアが立ち上がる。
『では私はこれで。願わくば二度と戦場で相見えることがありませんように』
次に戦場で会うことがあれば、そのときはきっと殺し合うことになるだろうから。
それがリンソーディアと直接話した最初で最後の記憶である。
あれからクライザーは、彼女が出陣している戦いには極力顔を出さないようにしていた。前線にいる彼女の姿を遠目に確認することはあっても、会いに行こうとは思わなかった。
すべてが変わってしまったのは、父がアークディオスを滅ぼし征服すると宣言したときだった。思い直すよういくら進言しても父は頑として聞き入れてはくれず、確実に攻め取るための準備は着々と進んでいく。
もう止められない。そう思ったクライザーは、野望を抱きつつも床に伏せがちになった父に代わり計画を推し進めることにした。
「殿下、ヴェルフランド皇子とリンソーディア様の居場所が特定できそうです」
腹心の部下であるキリアンが、待ち望んでいた報告を伴って帰ってきた。
「さすがだね、キリアン。彼らはどこにいたのかな?」
「やはりチェザリアンに潜伏していたようです。ただいま最終確認をしておりますが、恐らくガイアノーゼルで間違いないかと」
要塞都市ガイアノーゼル。確かチェザリアンの監獄と呼ばれている場所だ。キリアンは報告を続ける。
「密偵の報告によると、『ディア』という名前の凄腕の女性看守が数ヶ月前に入ってきたそうです。そして十日間も行方不明になっていた例のご令嬢ですが、ガイアノーゼルでの見学の際に、そのディアさんがいる第十三監獄を希望したそうで。彼女をチェザリアンまで送り届けたのは謎の傭兵二人組だということですし、それがリンソーディア様とヴェルフランド皇子だったのではないかと」
「そっか。彼女の愛称はディアだから、まず間違いなさそうだね」
しかし、発見したからといって安心はできない。こちらがあれこれと嗅ぎ回っていることに、あの二人がまったく気づいていないわけもないのだ。
「彼らをお迎えするときはくれぐれも丁重にね。特にリンソーディア様は僕の妃になる方だから」
「そういえば彼女は殿下の命の恩人でしたか」
「うん。敵であるはずの僕の命を見逃しただけじゃなくて、貴重な霊薬を惜しげもなく使って僕の手当てをして、君たちが駆けつけてくるまでずっとそばにいてくれたんだ。すごく変わり者で……本当に稀有な人だったよ」
あの日からずっと、クライザーはリンソーディアに心を奪われたままで。
アークディオス侵攻は確かに父の発案で、強行したのも父の命令によるものだったけれど。
リンソーディアを自分のそばに置くためには、アークディオスごと手に入れる必要があると思ったこともまた、事実だった。
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カーン、カーン、と薪を割る音が周囲一帯に響き渡る。
第十三監獄の裏手で一心不乱に薪割り作業に勤しんでいたヴェルフランドは、いつの間にやらやってきていたリンソーディアに気づいて斧を振るう手を止めた。
「……どうした?」
「フラン様、ちょっと顔を貸してください」
「は?」
言うが早いかリンソーディアは、困惑するヴェルフランドの首になにかをぐるぐると巻きつけ始めた。巻きつけ終わると今度はあーでもないこーでもないと唸りながら結び目を変えつつ悩み続けている。微妙に絞めつけられる首元にヴェルフランドの眉間に皺が寄った。
「なにしてんだお前……新しい暗殺方法でも試しているのか?」
「あなたが私のことをどう思っているのかよく分かりました。というか首が絞まっているならちゃんと言ってくださいよ」
絞めつけていた部分を解きながらリンソーディアは心外そうな顔をする。
「だいたい私があなたを殺すなんて、月が地上に落ちるくらいありえないんですよ。そこらへんを肝に銘じておいてください」
せっかくの詩的な表現も彼女にかかればいろいろと台無しである。それはともかく。
「で、これはなんだ」
「見ればわかるでしょう、マフラーです」
「俺が知っているマフラーとだいぶ形状が異なるんだが」
「そこはぜひとも目を瞑っていただきたい」
ヴェルフランドはマフラーと称された謎のモコモコを矯めつ眇めつした。やけに太いところとやけに細いところの差が極端だ。先ほど首が絞まったのはこの細いところが原因だと思われる。
上手く巻かねば最悪死ぬであろうマフラーの扱いに頭を悩ませていると、リンソーディアがぼそっと付け加えた。
「そろそろ冬になるので編んでみました。暗殺の危険性を考えてマフラーを巻かない主義なのは知っていますけど、ここの冬は寒いので」
むしろ暗殺者よりもこのマフラーのほうが危険ではなかろうか……と思わなくもないが、ヴェルフランドはリンソーディアが編み物初挑戦であるという事実もちゃんと知っていた。だからちょっと笑って答えた。
「買わずに済んだことだし、ありがたく使わせてもらう。ところで誰に教わったんだ?」
「アイザックさんです。看守長とハウエルさんに毎年なにかしら作ってあげているそうで」
「…………ほう」
まさかの人物であった。てっきりセラフィーナあたりだと思っていたヴェルフランドは微妙な心境になる。あの三人の中で一番編み物と無縁そうなのに。
「今後は膝掛けと靴下と手袋とセーターにも挑戦するつもりなんで、首を洗って待っていてくださいね」
「それを言うなら首を長くしてだろう。あと他のに挑戦する前にマフラーを習得しろ。できれば俺は殺傷能力の低いマフラーが欲しいんだ」
さりげなくマフラーの仕様改善を要求しつつ、ヴェルフランドは薪割りを再開する。本格的な冬が来る前にできるだけ薪を備蓄しておかなくてはならない。多すぎるということもないだろうし、最近は暇さえあれば斧を振るっているヴェルフランドだ。
一方のリンソーディアも、編み物をはじめ着々と冬に備えた準備を始めていた。
休みの日には狩りに出かけて豚帝やら爆弾鳥やらを仕留めては保存食用に加工し、捌ききれなかったぶんは市場に卸して小金を稼ぐ。薬草採取に出向いて偶然七色果実を発見した日には、市場で一躍時の人となり目立ってどうしようもなくなって、官舎まで逃げ帰ってきたりもしていた。
もともと野生でも生きていけそうだと思ってはいたが、ここ数日でますます磨きがかかってきた気がする。ヴェルフランドがそれを指摘するとリンソーディアはドヤ顔をした。
「たとえ無一文になって森に住むしかなくなっても、私がフラン様を養えますのでなにも心配はいりませんよ」
「安心しろ、無一文になる予定はない」
とはいえ、無一文になっても見捨てず一緒にいてくれるようなのでそこらへんは安心だ。薪割り作業が一区切りついたところでヴェルフランドは斧を片付け、割ったものを薪棚に積み重ねていく。
「ところでディア」
「はい?」
「本当にこの冬はチェザリアンで過ごすことにしていいんだな?」
危険を冒してまでグレースが知らせてくれた情報を考えると、自分たちがチェザリアンにいることはウィズクロークにはバレているようだった。このままでは見つかるのも時間の問題だろう。
しかし冬になってしまうとチェザリアンから出ることは一気に難しくなる。大山脈に阻まれるだけではなく、積雪による通行止め区間も発生するため、チェザリアンはまるごと陸の孤島のようになってしまうのだ。
つまり、チェザリアンから脱出するなら冬になる前の今しかない。この機会を逃せば、春になるまでここで足止めを食らうことになる。
「……冬になるとチェザリアンから出られなくなるんですよね?」
「そうだな」
「ということは、外部の人間がチェザリアンに入ることも難しいってことですよね?」
「そういうことになるな」
リンソーディアが言わんとしていることをヴェルフランドは正確に察した。……なるほど、そういうことか。
「ここから逃げることを考えるんじゃなくて、ここに入り込んできた刺客を返り討ちにしてしまえばいいということか」
追っ手がチェザリアンに入り込んだとしても、冬が来れば袋小路にしてしまえるし、冬が来るのが早ければそもそも入り込むことができない。リンソーディアが不穏な笑みを浮かべた。
「ふっ……これ以上失うものがなにもない私たちに恐れるものなどありません。どこからでもかかってくるがいいですよ!」
「やけっぱちに聞こえるのは俺だけか?」
そんなわけでチェザリアン残留が決まった二人だが、予想外にそれを喜んだのは第十三監獄の面々だった。どうやら二人が辞めるとなるとまた三人体制に戻ってしまうので、それが白紙となってかなりホッとしたとのこと。
リンソーディアとヴェルフランドは思った。夜逃げするような事態になる前に、きちんと後任者を見つけておく必要があるな……。




