10. 惚気けてる場合じゃねーぞ
古参の看守であるアイザックが交代のため詰所に向かうと、木槌でなにやらカンカン打つ音が聞こえてきた。アイザックは首を傾げる。今の時間の詰所担当は昨日入った新人だったはずだが。
「おーう、新入り。交代の時間だぞー」
無表情でなにかを修理していた新人はちらりとアイザックに目を向けたが、すぐに視線を手元に戻してまたカンカンと木槌を打ち始めた。無視された形になったアイザックだが、新人が修理していたものを見て目を丸くする。
もともと詰所には椅子が四脚あったのだが、そのうちの三つはだいぶ前に脚が折れてそのまま放置されていた。新人はそれを直していたのである。
他の監獄であればすぐに新しい椅子を備品として購入するのだろうが、残念ながらここは人も予算も不足している第十三監獄である。詰所にいるのは常に一人ということもあり、椅子は一つ無事であれば問題ないとの主張のもと、壊れていた三脚はずっとそのままになっていたのだ。
しかしそれはこの新人にとって許せない状態だったのだろう。脚が折れていた三つはすでに修理が済んでおり、いま直しているのは脚が無事でも背もたれが無事ではなかった最後の椅子だった。
「お前すげえ器用なんだなあ」
アイザックが感心したように呟く。恐らく詰所の中にあるものだけを使って修理したのだろう。見違えるほどでもないが、十分使える代物に生まれ変わっていた。試しに座ってみると、以前のものよりもだいぶ頑丈になっている気がする。
「そういや姐さんが言ってたんだが、お前もお前と一緒に入ってきたあの嬢ちゃんも、アークディオス出身なんだって?」
だとしたらなんだと言うのか。新人ことヴェルフランドは無言で椅子の修理を続ける。直して早々アイザックが勝手に座ったので思わず半眼になったが、彼が座って大丈夫ならリンソーディアが座っても大丈夫だろう。
詰所に壊れかけの椅子しかないのを見たときは目眩がした。もしもリンソーディアが座ったときに壊れでもしたら大変だ。道具も材料も限られているが、できるだけ頑丈に作り直しておく。
「あそこの国も大変だよなあ。いきなり他国に征服されちまったから国民は不安がってるみてえだし、皇族は全員死んだかと思いきや、次期皇帝とか呼ばれていた皇子の死体だけ見つからなくて血眼で捜索してるとかいう噂も流れてるしよー」
あれから何日も経つというのに、未だに探しているとはご苦労なことだ。さっさと諦めてくれればいいのにと思いつつ、ヴェルフランドは直した椅子の背もたれを確認した。とりあえずこれで椅子に座っても怪我をすることはないだろう。
それにしても、自分たちの噂が他国にまで流れているとは。ヴェルフランドは渋い顔をする。これではほとんど指名手配扱いだ。間違ってはいないものの、リンソーディアにまで危害が及んではたまらない。
「おーい、無視すんなよ。寂しいじゃねーか。なあ、ヴェルフランド皇子」
その瞬間、アイザックは座っていた椅子から叩き落とされ、馬乗りになってきたヴェルフランドに首を絞められそうになった。当然アイザックは焦って止める。
「ぐお!? おいおいおいおい待て待て待て待て! 急に意味深なこと言って悪かった! 頼むから俺の話を聞いてくれ!」
正直ヴェルフランドには待ってやる義理などないのだが、なんとなく脳裏にリンソーディアの姿が過ぎったため、渋々アイザックの首から手を離してやった。
ここで彼を殺したら、リンソーディアはたぶん怒る。怒って、それからヴェルフランドの言い分を聞いて、そのあと一緒に証拠を隠滅してから即座に海外へと逃亡することになるだろう。彼女にそんな負担はかけられない。
アイザックは安堵の息をつきながら起き上がる。しかしヴェルフランドは彼の上から退けずに剣をその喉元に突きつけた。
「なぜ俺がヴェルフランドだと思った?」
「このままの姿勢で事情聴取かよ……。まあいいか。あー、俺の名前は昨日言ったよな? アイザック・ハミルトン。聞き覚えないか?」
剣を突きつけたままヴェルフランドは記憶を探る。アイザック・ハミルトン。確かに聞き覚えがあるものの、王侯貴族の誰かではないはずだ。さらに範囲を広げて記憶を掘り下げていくと、ようやく該当する存在に行き当たった。ヴェルフランドは目を細める。
「……アイザック・ハミルトン。チェザリアンの前騎士隊長か」
「おお、良かった。さすがヴェルフランド皇子。直接顔を合わせたのは二回くらいだってのによく覚えていてくれたなあ」
「どうしてお前がこんなところで看守をやっているんだ。クビになったのか?」
「なってねーよ! 自主退職だ!」
不名誉な汚名を着せられそうになったアイザックは吠えて名誉を挽回する。
「俺がここに来たのは姐さんがいたからだ。あの人のもとで働きたいと思ったから、騎士隊長を辞めて第十三監獄を志望した」
「さっきからお前が言っている姐さんって誰だ」
「看守長のセラフィーナだよ! 入ってきたばかりの嬢ちゃんを除けば、この第十三監獄に姐さん以外の女性なんていないだろうが!」
それもそうか。ヴェルフランドは興味なさそうな顔で頷いた。仮にもセラフィーナは上司に当たる存在なわけだが、彼が気にかけるべきは幼なじみであるリンソーディアをおいて他にいない。
アイザックはがりがりと頭を掻く。冷酷無慈悲なヴェルフランドの評判は聞いて知っていたものの、ここまで他人に無関心だとは思わなかった。こんなのが次の皇帝になっていたら果たしてアークディオスはどうなっていたのだろう。
「……つまりだ、俺はお前の顔を知っていたからすぐにヴェルフランド皇子だって気がついたわけだが。お前もお前だぞ。逃亡中だっていうなら顔くらい隠せっつの」
「顔を隠すようなやましいことはしていないからな」
しいて言うならウィズクロークの兵を山ほど死体にして逃亡したことくらいだが、皮肉なことに戦争中は敵の兵をどれだけ殺しても罪にはならないのである。……それは、とてもおかしなことだけれども。
「ま、そうだろうけどよ。でも捕まったら間違いなく処刑されるぞ、お前」
「知っている。だからこうして人目につかない場所に潜伏している」
「人目につかないっつっても限度があるぞ。そもそもお前もあの嬢ちゃんも顔が良すぎるから目立つんだよ。そのへんをもっと考えろ」
アイザックの指摘は一理あった。ヴェルフランドは真剣に考え込む。
「……確かにディアは可愛いからな。あいつの顔だけでも隠すべきか」
「狙われてんのはお前だバカタレ。嬢ちゃんの顔よりお前の顔を隠せ。惚気けてる場合じゃねーぞ」
「惚気けていない。事実だ。それに狙われているのはディアも同じだ」
もともとウィズクロークには関心などなかったが、皇太子であるクライザーのことだけは少し警戒して注視していた。ヴェルフランドは苦虫を噛み潰したような顔をする。
明晰な頭脳と人並外れた求心力。広い視野と客観的に物事を見る力。そして優しい笑顔と柔らかい物腰。クライザーはまさに理想的な皇子だろう。しかしヴェルフランドが警戒していたのはそこではない。
なぜか彼は、リンソーディアに異常なほどの執着を見せていたのだ。
「クライザーにディアを渡すわけにはいかない。ディアを幸せにしてくれる奴ならいいが、あいつは危険すぎる。捕まったら俺は殺されるだけですむが、ディアはなにをされるか分からない」
恐らくクライザーはリンソーディアの血筋と価値を知っている。それを差し引いても彼女に恋い焦がれているあいつのことだ、間違いなく彼女を皇太子妃にしようとか思っているのだろう。
しかしあのリンソーディアが大人しくクライザーに嫁ぐとは到底思えなかった。もしも大人しく嫁ぐとしたら、間違いなく裏があっての行動だろう。
……別に、彼女から特別な好意を寄せられているとは思っていない。けれどヴェルフランドより後には死ねないと豪語しているリンソーディアだ。幼なじみとしての情も、何度も背中合わせで戦ってきた信頼もある。お互いが特別な存在であることは疑ってなどいなかった。
だからこそヴェルフランドはそう簡単には死ねないし、リンソーディアを置いていくこともできない。残していく彼女のことがあまりにも心配だからだ。
「そういや嬢ちゃんは監獄で大掃除してんだろ? 虐殺のメルセデスも一緒だって言うじゃねえか。お前もう交代なんだからちょっと様子でも見てきたらどうだ」
ヴェルフランドとのやり取りに疲れたのか、アイザックが話題を変えてくる。馬乗りになったままだったこともあり、ヴェルフランドはすぐに立ち上がった。
「……言うまでもないと思うが、俺とディアのことを他の奴らに漏らしたら」
「言わねーよ。そんくらい俺だってわきまえてるよ」
「それならいい」
椅子の修理に使っていた道具を片付け、ヴェルフランドは足早に出ていこうとする。その背中に向かってアイザックは聞きそびれていた疑問を投げかけた。
「なあ。お前はアークディオスの第三皇子ヴェルフランドだろ。でもあの嬢ちゃんは何者なんだ? 貴族みてえだがお嬢様にしては強すぎんだろ」
ヴェルフランドは驚いた。アークディオス帝国が誇る武のティルカーナ家は、他国でも有名だと勝手に思っていたのだが。
しかし、考えてみればティルカーナ家の一戦力に過ぎないリンソーディアは、あの中ではさほど目立たない存在だったのかもしれない。彼女の父や兄は名の知れた存在だったが、溺愛していたリンソーディアのことは自分たちの陰に隠して守っていたとしてもおかしくはない。ならばヴェルフランドの答えはひとつだ。
「教える義理はない」
淡々と答えて、振り向きもせずに今度こそ詰所をあとにする。
ティルカーナ家が守り続けてきたリンソーディア。彼女を守れる者は、もう自分だけになってしまった。
でも、いつか離れ離れになる時が来るのなら。その時までに彼女を託せるような人物を見つけておかないと。いつだって喪ってばかりの彼女を、丸ごと愛して守れるような人物を。
そんなことを考えながら、先日まで凄まじい異臭を発していた地下監獄の扉を開ける。そこで真っ先に目に飛び込んできたものは。
「あだだだだだだだだ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいいいいいいい!」
なぜかメルセデスに見事な関節技をキメているリンソーディアの姿だった。ヴェルフランドは一応訊いてみた。
「…………なにがあった?」
「ちょっと虐殺のメルセデスさんがおイタをしようとしまして。未遂だったんで関節は外さない方向で矯正中です」
「そうか。もっとやれ」
「ちょっとぉおおおお! めっちゃ謝ってんだから焚き付けないでよねえぇぇぇぇ!」
目の前で繰り広げられる光景を見て、ヴェルフランドは思わず笑ってしまった。
アイザックの言う通り、リンソーディアは確かに貴族然としているかもしれない。だが、こんなふざけたご令嬢が他にいるだろうか。いや、いない。いるわけがない。
なぜか嬉しげに笑う幼なじみの顔を見て、リンソーディアは驚いたように目を丸くした。こんな彼の表情を見るのは久しぶりだ。
「あ、そういえば知ってます? だいぶ前のことですけど、あなたの笑顔を見た人は数日以内に悲惨な死に方をするとかいう、悪魔のような噂があったんですよ」
「……そんなに俺の笑顔は悪魔的なのか」
「いえ、私はあなたの笑顔が結構好きですよ。昔も今も、笑っているあなたを見るとなんとなく幸せな気分になりますね」
さらりとした答えにヴェルフランドは思わず固まった。
「……なに狙いの発言だ?」
「あなたという人は失礼極まりないですね……って、これ前に私がした切り返しじゃないですか。真似しないでくださいよ」
涙目のメルセデスを解放してやりながらリンソーディアは苦笑する。
あの会話をしたのは皇宮落城の日。味の薄い小さなパンと、白湯しかなかった最後のお茶会。
『……お前のそういうところは、昔から結構好きだぞ』
『は? なに狙いの発言ですかそれ。鳥肌立つんでやめてください』
あの時いたヴェルフランドの部下たちは生き残れただろうか。籠城が崩れる直前に逃がしたものの、助かるかは五分だった。騎士たちだけではなく使用人たちも全員が精鋭揃いだったが、はてさて。
「で、大掃除は進んだのか?」
ヴェルフランドの指摘でリンソーディアは我に返る。そうだ、過去を儚んでいる場合ではなかった。
「多少は進みましたが、今日中には終わりそうにないですね。でもこの臭いだけは早くなんとかしないと私また吐きます」
異臭が治まらない限り、リンソーディアは延々ガスマスクレディのままである。それを聞いたヴェルフランドは神妙な顔をして「手伝う」と余っているモップを取りに出て行った。じつに面倒見がいい自慢の幼なじみではあるが、彼が率先して面倒を見るのはリンソーディアだけというのは悲しい現実だ。
「その甲斐甲斐しさが私以外に発揮されればいい旦那さんになれる見込みがあるのに……宝の持ち腐れですねえ」
幼なじみの将来を案じて嘆くリンソーディアには「いっそキミが嫁になってあげればいーんじゃないのぉ?」というメルセデスの投げやりな提案はまったく聞こえていないのだった。




