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リワールド・フロンティア-最弱にして最強の支援術式使い〈エンハンサー〉-  作者: 国広 仙戯
第三章 天才クラフターでスーパーエンチャンターのアタシが、アンタ達の仲間になってあげるって言ってんのよ。何か文句ある?

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●24 修羅の目覚め






 その時、フリムは全身を土で汚したまま、自らの弟分が押し潰される様を見ていた。


 見ていることしか出来なかった。


「――――」


 ヒュドラの連環する九連撃は、その巨体にもかかわらず手に負えないほどの高速で少年を殴打し続けていた。


 彼に突き飛ばされ、猛スピードで地面に落下し、ボールのように何十メルトルも転がり――ようやく慣性を殺し切って停止して、苦痛に呻きながらもようやく身を起こした、ちょうどその時だった。


 フリムは見た。


 猛然と立ち上がった少年が拳を振り上げ、ヒュドラの首の一本を打ち砕き、しかし次なる打撃に潰される瞬間を。


 頭の中が真っ白になった。


 それが止めとなったことを確信――否、確認できたのだろう。ピタリ、とヒュドラが動きを止めた。自ら作ったクレーターから鼻先を離し、ゆっくりと鎌首をもたげていく。


 死んだのか、それとも戦闘不能になったのか。どちらにせよ、もう脅威にはならないと判断したのだろう。もはやヒュドラは少年を埋めこんだクレーターに目もくれず、九対の眼で周囲を睥睨した。


 同時に、少年が粉砕した首が時間を早戻しするように再生していく。


「――ハル……ト……?」


 今更のように喉から出て来た声は、まるで他人のものかと思うほど掠れ、弱々しかった。


 フリムの位置からはクレーターの中までは見通せない。ルーターによって共有されているはずの〈イーグルアイ〉の視覚情報は、いつの間にか途切れていた。即ちその情報の断絶こそが、少年の〝SEAL〟が停止したことを意味しているのだが――


「……う、そ……」


 目の前の現実を、すぐに受け入れることができない。頭のどこかではわかっている。少なくとも、彼が意識を失っていることは確定だ。最悪、それ以上のことになっている可能性だって少なくない。


 ちゃんとわかっている。


 だが、信じたくなかった。


「…………」


 気を失っているだけなら、ルーターを介してバイタルチェックのリクエストを送ればいい。術式によるものなどアクティブな情報のやりとりならともかく、〝SEAL〟のパッシブな回路が生きてさえいればリプライが返ってくるはずだ。


 しかし、怖い。


 もしリプライがなかったらどうしよう。その時はつまり、少年の〝SEAL〟が完全に機能停止しているということだ。重度の障害でもそういった状態になることは考えられる。だが、この状況でそうである可能性は、限りなくゼロだった。


「……ぁ……あ……」


 か細い声が喉から漏れて、フリムは意味もなくクレーターがある方角に向けて小刻みに震える手を差し出す。その場にへたりこんだまま腰が抜けてしまって、まるで立ち上がれそうになかった。


 もしリクエストにリプライがなかったら――その時は、ほぼ確実に、少年が死んでいることが判明してしまう。


 そのことが、確定してしまう。


 そのことを、受け入れるしかなくなってしまう。


 だから、彼のバイタルを確認することが、フリムにはどうしても出来なかった。


 ――アタシのせいだ。アタシが、無茶な特攻を仕掛けたから。あの場合、一旦引いて様子を見るべきだったのに。後先考えずに無理して突っ込んで、挙げ句にレイダーがオーバーロードして異常動作を起こした。その結果、自分は絶体絶命の窮地に陥り――あの子を【動かして】しまった。


 わかっていたはずなのに。自分が危なくなったら、あの少年は絶対に助けに来てしまうことぐらい。どれだけ来るなと目で訴えたところで、聞くはずなどないことぐらい。


「あ……ぁあ……」


 後悔の念が、今にも塊になって喉奥から溢れそうになる。止めどない嗚咽が、肺腑の奥底から迫り上がってくる。


 クレーターに向けて突き出した手は、しかし虚空しか掴めない。地に落ち、戦闘ブーツの補助もない自分には、あそこまでの距離はあまりに遠すぎる。


 視界がじんわりとぼやけ始め、喉の奥からどうしようもない嗚咽が溢れそうになった時。




『何を呆けているのですかフリムッ!! 戦いはまだ終わっていませんよッ!』




 頭の中を蹴っ飛ばすようなアシュリーの怒声が聴覚を劈いた。


「――っ!?」


 驚いて息を呑んだ。実際には頭の中に響いている声なので実際に耳朶を打っているわけではないのに、耳の奥がジンジンと痺れた。


『ベオウルフはまだ生きています! 何を諦めかけているのですか、あなたらしくもない!』


「ッ!」


 確認したくても出来なかったその一言で、フリムの精神に活が入った。胸骨の内部で渦を巻いていた黒い靄が、一瞬にして吹き飛ぶ。


 ――生きている。まだ、あの子は生きている……!


 よかった、本当によかった――という万感の思いと共に、呆けていた意識と萎えていた気力が急激に回復していく。


 アメジストの瞳に、強い光が戻った。


 出かけていた涙が引っ込むと、フリムはジャケットの袖で目元をぐしぐしと拭い、鼻を啜って立ち上がった。


 と、自慢のツインテールのうち、右の一本が解けていることに今更気付いた。地面を転がっている時に髪留めが千切れてしまったのだろう。今の今まで全然気付かなかった。つまり、それほど精神が追い詰められていたということか――と客観的に推察する。


 ――あなたらしくもない、ね……


 ふっ、とフリムは口元に笑みを浮かべた。


『……悪かったわね、アシュリー。というか、どこから見てたのよ? やめてよね、こんなみっともないところデバガメするなんて。アンタって本当に覗き魔なんだから』


『見ていません! ですが、ルーターから流れてくる声音で大体想像がつきました。とにかくメソメソしていないでシャキっとしなさい、このブラコンツインテール!』


「ブラ……」


 あんまりといえばあんまりな、意外なほど遠慮のないアシュリーの言葉に思わず絶句する。戦闘時だから気が立っているのか、それとも――


 キョトン、と目を丸くしていたフリムはそのことに気付き、ぷっ、と噴き出した。


『――言ってくれるじゃない。でも、ありがと。おかげで気合入ったわ』


 思い至ってみればひどく不器用な【鼓舞】に、しかし俄然勇気が湧いてくる。ドゥルガサティーを両手に構え、付与術式を発動。


「〈アイスブランド〉」


 術式が作用する先は、しかし足元のスカイレイダーだ。途端、漆黒のブーツの表面から豪雨が地面に叩き付けるような音と、白い煙が盛大に噴き上がった。オーバーヒートしているスカイレイダーに冷凍属性を付与して強制冷却しているのだ。やがて熱が収まった後も〈アイスブランド〉による冷却は続き、スカイレイダーの装甲に霜が降りたかと思えば、真っ白な氷がまとわりつくようにして一気に凍結していく。


「っ……くぅっ……!」


 少女は顔を歪めて、その冷たさに耐える。武器の一部に付与する場合とは違い、スカイレイダーは素足に直接履いているロングブーツだ。当然、その温度はフリム自身の足へダイレクトに影響する。


 両足に引き攣るような痛みを感じていながらも、フリムは不敵に笑って己の相棒に語りかけた。


「――悪いわねレイダー、これからちょっと、限界以上に働いてもらうことになるけど……いい?」


『Certainly(承知しております)』


 いつも通りの平坦な返答に、フリムは頷く。


 先程の不具合の原因は『オクタプル・マキシマム・チャージ』を連発したことによるオーバーヒートだ。異常過熱を検知したスカイレイダーの安全装置セイフティが働き、自動的に全機能が一時停止したのである。


 逆に言えば、熱さえ何とかすれば同様の事象は発生しない。つまり、〈アイスブランド〉を付与した凍結状態であれば、スカイレイダーは壊れる寸前まで全開稼働が出来るということだ。


 ルーター向こうのアシュリーから、現状説明と指示が飛んでくる。


『ベオウルフにはニエベスを救助に行かせています! あなたと私で、彼が回復するまでの時間を稼ぎますよ!』


『オッケー、任せて』


 力強く答えて、こちらを見下ろすヒュドラの九つ首を見据える。


 フリムは恐れない。恐れて身を縮こませるのは、時間の無駄だと思っている。だから、彼女はどんな窮地にあっても前向きに考える。


 敵の図体がでかくなったのなら、それはそれでやりやすいと思えばいい。的が大きければ大きいほど、壊し甲斐があるというものだ――と。


 故に、その口元には不敵な笑みが浮かび続けるのだ。


「――いくわよ、サティ、レイダー!」


『All light(了解しました)』『Exactly(お任せあれ)』


 戦意に煌めく紫水晶の瞳には、もはや何の躊躇も迷いもなかった。


 まず、体の節々を硬くする重複〈プロテクション〉の一部をキャンセルする。少年のこちらを守ろうとする気持ちはありがたかったが、今から行う戦闘機動に支障が出てしまう。元よりフリムのスタイルは、彼と同じくスピード重視なのだ。


「――ッ!」


 両足の凍傷など意識の埒外に放り捨てて、猛然と彼女は走り出す。スカイレイダーの靴底から紫の微光を発し、不可視の階段を昇るように宙へと駆け上がった。


「――どっちもトリプル・マキシマム・チャージ!」


『『マママキシマム・チャージ』』


 疾走しながら、白銀の長杖と漆黒のブーツへ同時にチャージを命じる。フリムの真紫に輝くフォトン・ブラッドが供給されたドゥルガサティーとスカイレイダーの内部から、機構メカニズムの駆動するハム音が音高く唸り始めた。


『ナギナタブレード』


 長杖の先端からピュアパープルの流体が溢れ出し、名前のごとく薙刀の刃を形成する。だが、その巨大さは尋常ではない。通常の三倍のチャージを受けた刀身はもはや『薙刀』という武器の体を成していなかった。


 鴻大な刃をひっさげたフリムは弾丸のごとく空中を駆け、一息にヒュドラの頭部が集まっている空間へと肉薄する。


『SSSSHHHHHHHAAAAAAA――!!』


 幾本かの首が少女の急接近に気付き、奇声と共に頭を差し向けた。大口を開き、喰らいつかんと迫る。


「――!」


 フリムはそこで鋭角に方向転換。フォークボールのごとく下方へ進路を修正し、流星よろしくヒュドラの懐へ一瞬にして潜り込んだ。


 ダン! と空中に靴底を叩き込んで、全力で踏み込む。


「こんっ――のぉおおおおおおおおおおおおおッッ!!」


 ナギナタブレードを横薙ぎに払うと同時、〝SEAL〟を通じてドゥルガサティーのトリガーをキック。


 白銀の長杖が蓄積したフォトン・ブラッドの力を一斉解放。紫の流体が爆発的に膨張し、稲妻のごとく爆ぜた。


 荒れ狂うエネルギーの奔流が刺々しく荒れ狂い、ざらついた円弧を描く。


 獰猛な斬撃波が立て続けにヒュドラの首を断ち切った。


 四本の首が、本体から離れて宙を舞う。


『SSSSSSHHHHHHRRRRRRRRRRRRAAAAAAAAAAA――!?』


 力尽くで胴体を断絶されたヒュドラの残された首が、総じて悲鳴をあげる。ナギナタブレードのチャージ攻撃で切断された首の断面は、まるでノコギリで断ったかのようにグチャグチャだ。ヒュドラに痛覚エンジンが組み込まれているのであれば、そのフィードバックは凄まじいものになったであろうこと想像に難くない。


 そのせいか、ほんの一瞬だけヒュドラ全体の動きが硬直したかのように見えた。


 ドゥルガサティーを振り抜いた体勢で俯いているフリムが、遠雷にも似た低い声を吐き出した。解けた右側の髪が顔に覆い被さり、その表情は杳として知れない。


「――っざけんじゃないわよ……この程度で終わるとでも思ってんの?」


 風に揺れる長い黒髪の隙間から、鬼火にも似たアメジスト色の光が垣間見える。


「アタシの可愛い弟分に、よくもまぁやりたい放題してくれたじゃない……」


 幽鬼のごとく、ゆらりと体を揺らして武器を構え直すその姿を、ヒュドラの五つ首は無言で見つめている。実際には斬り飛ばされた首が再生中のため、攻撃行動を取らなかっただけだが、傍目には少女に対して怖じ気付き、腰が引けているようにもとれた。


「覚悟しなさいよ……」


 細い三日月のように笑んだ唇が、夜叉の恨み言にも似た響きを紡ぐ。新たに吹いた風が前髪のカーテンをめくり上げ、その下に隠れていた顔を露にする。


 天使の仮面をかなぐり捨てた悪魔が、そこにいた。


「アンタ達、死ぬほど痛い目に遭わせてから活動停止シャットダウンしてやるから……!」


 情報具現化体であるSB、ましてや無機物である機械型のフロアマスターに対するものとしてはややピントのズレた脅し文句ではあったが、しかし、今のフリムにとってそのような些事は全く以って関係なかった。


 この時、彼女が考えていたことは以下の三点に集約される。


 ――徹底的にぶっ潰す。


 ――生まれてきたことを後悔しながら消えろ。


 ――絶対に許さない。


 以上である。


 立ち向かう敵に比べれば圧倒的に小柄な体から、凄まじい怒気が迸り、髪の毛一本一本の末端まで行き渡った。長い黒髪が、まるで生きているかのように蠢く。修辞表現ではない。彼女の肉体に満ちた『現実改竄物質』の力がわずかに溢れ出し、本来ならあり得ない現象を引き起こしているのだ。


「――地獄に墜としてあげる……!」


 壮絶な宣言と共に、両脚に履いた漆黒のブーツから紫の輝光が閃き、攻撃音声が読み上げられた。


『ジェット・ドリル・クラッシュ』


 無限に近いフォトン・ブラッドを持つ復讐の鬼が、今、その牙を剥き出しにする。






 その時、アシュリーはとっておきの切り札を切ることを決意した。


 自陣の最大戦力であるベオウルフが落とされた。想定していなかったといえば嘘になるが、それでも考え得る、限りなく最悪に近い事態だ。


 ただ不幸中の幸いは、まだ彼が死んではいないということ。


 ルーターを介して彼の〝SEAL〟にバイタルリクエストを送れば、返ってくるのは非常に低い数値だ。瀕死――というより【死んでいないだけ】と言っても過言ではない。


 だが、希望の灯火はまだ消えていない。


 こんな状況になってしまったが、それでもウロボロス――否、〝ヒュドラ〟という、フロアマスターの奥の手を出させることが出来たのだ。


 あと一歩だ。


 このルナティック・バベルの設計者の意地がどれほど悪くとも、これ以上の変化はあるまい。続きがまだあるとすれば、それはもはや〝難関〟というよりも〝理不尽〟――ゲームで例えるなら〝クソゲー〟と呼ばれるそれになるだろう。


 これまでの流れを考えれば、そう評価されるのは設計者の本意ではあるまい。


 つまり、この局面さえ突破できれば、勝利はもう目前だ。


 故に、今は出し惜しみなどしている場合ではない。


「 目覚めよ 双剣の騎士 」


 一対の曲刀〝サー・ベイリン〟を構えたアシュリーは、高らかに【言霊を紡いだ】。


「 泣き叫べ 汝は不幸の嵐 聖なる杯を覆す者 」


 大きく湾曲した蒼き双剣を振り上げ、柄頭同士をつなぎ合わせる。その部位は最初からそう設計されていたように、ガチリと噛み合った。


 結果、出来上がるのは一本の弓幹。


 次の瞬間、ギンヌンガガップ・プロトコルによって双剣内部に格納されていたパーツが宙空に出現し、超殻カウリングを施していく。次いで、上側の剣先からオレンジ色の細い光線が生まれ、下側の切っ先へと伸びた。アシュリーのフォトン・ブラッドによる弦が、ピン、と張られる。


 そうして一挺の弓が完成した。


 大きく反った蒼い刀身で形成された弓を、アシュリーは左手に握り、何も持たない右手で矢をつがえる真似をする。


「 過ちと虚偽に塗れた その手に握られし 神聖なる槍 」


 すると、構えたその手の中に光の矢が顕れた。煌々と輝くその色は、神々しいまでの純白。


「 いと尊き人の血と涙に濡れた 悲哀の刃 」


 言霊を束ね、練り上げる。


 見る見る間に矢が巨大化していき、槍と見紛うまでに成長した。大きさを増す毎に、その輝きもまた激しく強くなっていく。


 その鏃が示す先は、巨大な九つ首の大蛇――フロアマスター・ヒュドラの中心部。全ての首の根元である〝眼球〟だ。


 あの部位がヒュドラの本体――複数あるだろうコアカーネルの中でも、最大のものが隠されているとアシュリーは見ていた。


 あそこに高火力の攻撃を加えることで、ヒュドラの動きを止める。あわよくば、撃破できないまでも壊滅的なダメージを与える。


 そのための切り札が――これだ。


「 其の名は ロンギヌス 」


 アシュリーの愛剣〝サー・ベイリン〟の本領は、ただ術力を吸収、貯蔵、解放するだけに止まらない。


 それは彼女の属する『蒼き紅炎の騎士団』の中でも知る者の少ない、秘中の秘。


 この双剣は戦闘時、少量ずつではあるが、吸収したエネルギーの一部を刀身内部のさらに深い部分へ蓄積し、圧縮している。これは敵の特殊攻撃に限らず、直接の斬撃によってSBを活動停止させた際にも蓄積される。いわば、敵を倒せば倒すほど余剰エネルギーが貯まっていく、魂食いの剣(ソウルスティーラー)であった。


 そしてその力は、双剣が弓の形状――モード・ロンギヌスになった時に初めて解放される。


「 悲嘆の騎士よ 慟哭し狂乱し暴虐の限りを尽くせ 」


 前回の発動からこれまで積もり積もった力が、アシュリーの右手に番えた矢に凝縮されていく。純白の輝きが加速度的に強さを増していき、やがて虹色のプリズムさえ纏いはじめた。


 極光。


 濃縮されたエネルギーが豪風を巻き起こし、赤金色の髪が激しく躍る。通常なら荒れ狂う力の制御に苦心するところだが、今は強化係数八倍のフルエンハンスのおかげか、体幹が全くぶれない。弓を引く力もこれまでとは比較にならないほど強く、肩が軽かった。


 この一撃は、これまでの生涯の中でも最大のものになる――その確信があった。


 モード・ロンギヌスは溜めに溜めた力を放つ、一発限りの隠し球だ。一度放てば、新たにチャージするまで次は撃てなくなる。故に、仲間内でも限られた人間にしかその存在を知らせていない。あまりに強力過ぎるその力を濫用しないためだ。切り札とは、隠しに隠し、いざという時に切るところにこそ価値があるのだから。


 そして、今がその〝いざという時〟だった。


「 いま穿たん 」


 今日まで蓄積したあらゆる種類のエネルギー。その全てが混ざり合い、調和し、一本の矢へと収束する。


 瑠璃色の瞳を剣のごとく煌めかせ、アシュリーは最後の言霊を叫んだ。




「 〈嘆きの一撃〉を 」




 放つ。


 蒼の弓から放たれた長大な光の矢が空を貫き、疾風迅雷の勢いで翔る。


 純白に光輝く槍とも呼べる大箭から溢れる圧倒的な破壊力は、その進路上の大地をも抉り、土砂を巻き上げながらかっ飛んだ。


 支援術式〈ラピッド〉によって行動速度が上昇していたのもあるだろうが、ヒュドラの注意はもっぱら空中のフリムへと集中していた。奴にとってはすばしっこく飛び回る羽虫にも等しい――ただし攻撃力だけを言えば毒蜂がごとき――彼女を捉えようと躍起になっていたところ、〝サー・ベイリン〟モード・ロンギヌスの〈嘆きの一撃〉が直撃した。


 炸裂。


『――SSSSSSSHHHHHHHAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA――!?』


 これまでで最大級の悲鳴が、ヒュドラの九つの口から噴き上がった。


 下兵類トルーパードラゴンのブレスで言えば百本以上の威力を凝縮し、一塊にした矢である。先程フリムの『ライトニング・グラビトン・ドリル・クラッシュ』を完全に防御したシールドとて紙切れ同然の威力だ。何となれば、過去に撃破されたゲートキーパー〝アイギス〟だろうが、ベオウルフが倒した〝ヘラクレス〟だろうが、その装甲をハリボテのごとく打ち破ってやる自信がアシュリーにはあった。


 事実、〈嘆きの一撃〉は一瞬だけ明滅した青白い〝膜〟を、それこそ風船よろしく破裂させた。光の矢はわずかたりとも減速することなく、〝眼球〟擁する本体部分に突き刺さり、そのエネルギーをあますことなく爆発させた。


 高出力のエネルギーが放射する眩い光が閃き、大気を灼き焦がすざらついた音が空高くまで轟く。


 空気がビリビリと震え、大地が鳴動する。爆発的に土煙が噴き上がった。


「――――」


 矢を放ち終えたアシュリーは残心どころか、すぐさま〝サー・ベイリン〟を双剣状態に戻し、油断なく戦闘態勢へと移行する。己の攻撃が壊滅的なダメージを与えようとも、致命的にならないことを彼女は知悉していた。


 結果として。


 アシュリーの放った〈嘆きの一撃〉は、ドーム状の建造物のようになっていた本体部の半分以上を吹き飛ばしていた。


『SSSSHHHHHAAAAAAAAA――!?』『SSSSHHHHHHRRRRRRR――!?』『SSSSSSHHHHHHYYYYYAAAAAAAA――!?』


 根元を失った五本の首もまた、寄る辺を失いくずおれていく。巨体が落下する毎に地響きが鳴り、膨大な土煙が立ち昇る。


 残った四本の首は空中のフリムを追うの止め、動きを止めた。ルーチン通り、リソースを再生能力へと振り分けたのだ。


『ちょ――な、なによ今のっ!? アタシ聞いてないわよッ!?』


 おかげで余裕の出来たフリムが、アシュリーの予想通りの文句をつけてきた。


『言う必要がありましたか?』


『あったり前でしょ! アタシに当たったらどうすんのよっ!?』


 しれっと嘯くアシュリーに、フリムの声が激しい剣幕で噛み付いてきた。しかしこれも、赤金色の髪の少女は軽く受け流す。


『そんな間抜けはあり得ません。どちらにせよ、あなたには陽動をしてもらうつもりでしたから。後か先かの問題です。それより、残念ながら今のと同じ攻撃はもう出せません。虎の子の一撃はあれで打ち止めです。後はベオウルフが戦線復帰するまで、私とあなたで凌ぎ切りますよ』


『――あーもーほんとに秘密主義ねぇアンタは! わかったわよっ! つーかむしろアタシ達だけでぶっ潰すわよこんな奴! アンタこそもっと気合入れなさいよねアシュリー!』


 つい先刻まで、ベオウルフが死んだものと勘違いして失意の底まで落ちていた奴が何を言う――とはアシュリーは口に出さなかった。その容赦のない言葉は胸に秘め、しかし溜息混じりの思考で、


『あなたはあなたで、元気になりすぎでしょうに……』


 とだけ返す。あまりのギャップに、さては多重人格者か、と思わないでもなかったが、それだけ彼女にとって、『可愛い弟分』であるベオウルフが重要かつ大切な人間だったということなのだろう。正直、先程のフリムの掠れ声は黙って聞いていられないほどに弱々しかった。不意にそのまま消えていってしまいそうに思え、おかげでアシュリーは我ながら慣れない方法で彼女を元気づける羽目になったのである。


 ――ブラコンツインテール、というのは流石に言い過ぎだったでしょうか?


 などと軽く悔やむのは頭の片隅だ。


 意識のほとんどは目の前の戦闘に集中し、既にその身は通常の八倍速で地上を駆けている。


 大打撃を与えてヒュドラの動きが止まった、万々歳だ――ではなく、さらにその再生を阻害し、攻撃態勢へ戻るのを少しでも遅延させなければならない。ベオウルフの回復にどれほど時間が必要なのかわからないのだ。


 今はとにかく、一セカドでも時間が欲しい。


『GGGGGGGGRRRRAAAAAAAA!!』『RRRRRRWWWWWOOOOOOOOOWWWWWW!!』『KKKKKKRRRRRRRYYYYYYY!!』


 新たに出現した飛竜と駆竜の群れが、半壊状態で再生途中のヒュドラへ駆け寄るアシュリーに殺到する。


 集中砲火のブレス。


「――〈アグレッシブ・サンクチュアリ〉」


 氷でできた鈴を鳴らすような声音で、アシュリーは術式の起動音声を呟いた。その顔や首の表面でオレンジ色の幾何学模様が光り輝き、術式が発動する。


 この空間へ来て最初の戦闘では、あわや死ぬ寸前まで追い詰められた。否、あの時ベオウルフが助けに来なければ、今頃アシュリーの魂は虚無の彼方へと消えていたことだろう。ドラゴンの集団というのは、それほどの脅威だ。


 だが、身体強化フィジカル・エンハンスの恩恵下にある今なら、あの時のようにはいかない。


 地面へ剣のごとく右脚を突き立て、急ブレーキをかけた。装甲靴が土を削り、歪な傷痕を残していく。


「ッ!」


 眦を吊り上げ、鋭い呼気を一つ。瑠璃色の双眸が、全方位から迫り来るブレスの全てを視認した。


 斬り払う。


絶対領域ラッヘ・リッター〟の名は伊達ではない。風を切り裂き音よりも速く奔った刃は、襲いかかるドラゴンブレスのことごとくをねじ曲げる。


 今の彼女であれば、複数の攻撃を捌くのに手間取ることもない。余裕を持って、思い通りの軌跡を描くことができる。


 十数の波動がまとめてアシュリーの進行方向――即ちヒュドラのいる方へと変更された。


『SSSSSSHHHHHHRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR――!?』


 再生途中の本体部へドラゴンブレスの束が直撃し、修復されかけていた傷が再び大きく広げられた。金属部品が雨粒のごとく宙を舞う。


「あなた自身が用意した〝砲塔〟です。今になってから後悔しても遅いですよ」


 なおも連続で降りかかる致死量の攻撃の波を、〝サー・ベイリン〟で打ち払いながらアシュリーは嘯く。あらゆる方角から猛進してくる火炎や雷撃、凍結波に空気の刃に土石流。それらを、時に行く手を阻む駆竜にぶつけ、時に頭上に影を落とす飛竜へ突き刺し、時に身動きの取れないヒュドラへ叩き込みながら、少女は歩を進める。


 さしずめその姿は、歩く次元の歪みだ。いかなる攻撃も彼女に近付いた途端にねじ曲げられ、意図せぬ方向へと歪められる。僅かなひっかかりもなく、まるで不可視の力場の表面をなぞるようにしてコースを変えていくドラゴンブレスの姿は、さながらホーミングレーザーのようでもあった。


 ヒュドラとの距離を詰めながら、アシュリーは視界端に表示されているARタイマーを確認する。


 驚くことに、支援術式の効果時間は今なお二分を残していた。体感ではもうかなりの時間が経過している気がするのだが、高速戦闘による知覚のズレだろうか。時間が間延びしているような感覚の中、しかしアシュリーの胸中から焦慮が消えることはない。


 まだ残り二ミニトと考えるか。それとも、もう一ミニトも経過してしまったと受け取るか。


 泣いても笑っても、残る時間は一二〇秒。


 もしこのままベオウルフの意識が戻らず、支援術式の効果時間が過ぎれば――自分達はそこで終わりだ。能力が大幅に下がったところをヒュドラ率いるドラゴンの群れに押し込まれ、全滅の憂き目を見る。


 それだけではない。よしんば彼の意識が戻り、支援術式をリランできたとしよう。しかし、肝心の彼が戦線に復帰できなければ、自分達がこの戦いに勝利することはない。


 アシュリー自身は確認してはいないが、ベオウルフの言葉を信じるなら、ウロボロス形態の時でさえ奴の中には複数のコアカーネルが存在していた。二本だったその首が、いまや九本にまで増えているのだ。コアカーネルも同様に増えていないと何故言えよう。


 畢竟、九つの首と中央の本体にある計十個のコアカーネルをほぼ同時に破壊しない限り、あの怪物を活動停止させることは出来ない――そう考えておくべきだった。


 人手が圧倒的に足りない中、そんな芸当が出来る人間などベオウルフを置いて他にいない。


 そう、彼こそが唯一にして最後の希望だ。


 ――頼みますよ、ベオウルフ……業腹ですが、あなただけが頼みの綱です……!


 剣を振るいながら、誰よりも傷ついている少年に全てを託すしかない己の無力さに、アシュリーは歯噛みする。


 ――ですが、あなたさえ戻れば、私達はきっと勝てる……!


 勝利を呼ぶ救世主になるであろう少年の回復を、アシュリーはひたすら祈り、その帰りを信じて待つしかなかった。






 ヒュドラの突進によって穿たれたクレーターは、ぞっとするほど深かった。


「マジかよ……!」


 アシュリーの指示を受けてベオウルフの元へ走ったニエベスは、そのあまりの破壊力に肝を竦ませた。連打していたとはいえ、頭突きだけでこの威力だ。もし自分があんな怪物と真っ向から対峙した日には、命がいくつあっても足りないだろう。


 ――つうか、本当に生きてんのかよアイツ……!


 ルーターを介して少年の〝SEAL〟がまだ動いていることは確認している。故に、彼の肉体における生命活動はまだ続いているはずだ。


 あくまでも、【まだ】、だが。


「――~っ……!」


 グロテスクな想像を頭を振って打ち消し、ニエベスは大声を張り上げながら斜面を滑り降りる。


「おぉおぉいっ! ぼ――ベオウルフ! 大丈夫かぁ!? 生きてるよな!? 生きてたら返事しろよ! 頼むからよぉ!」


 クレーターはその深さからわかるように、大きく広い。恐らくは土の中に埋もれているであろう少年は一見では見つからず、ニエベスはクレーター内を探し回る羽目になった。


 ようやっと彼を見つけたのは、やはりというか何というか、大穴の中心部付近。特徴的な濃紫の色を見咎め駆け寄ると、そこには俯せで体のほとんどを土に潜らせている少年の姿があった。僅かに見えているのは頭部と肩までで、それ以外の部分は地中に完全に埋まっていた。


「お、おいっ!?」


 慌てて脇の下に手を入れ、小柄な矮躯を引き上げる。顔が地面に埋もれていては呼吸もままならなかったであろう。仰向けにした少年の顔は、チアノーゼで赤黒く染まっていた。それだけではなく、そこかしこの傷口から流れ出た深紫の血で、あちこちが盛大に汚れている。


「おいマジかよ……!? おいっ、おいっ!! 生きてるか!? 生きてるよな!?」


 焼けるような焦りからニエベスは少年の体を大きく揺すってしまう。ガクガクと力なく黒い頭が揺れ、パラパラと砂が落ちた。


「くそっ……ああ、そうだ、確か……」


 そこでニエベスはフリムからの預かり物を思い出し、出来るだけ丁寧に少年を地面に横たえた。


〝SEAL〟のストレージから取り出すのは、クラウソラスやオハンと同じく、銀色のカートリッジが装填された小型拳銃である。


 一見すると武器以外の何物でもないが、そうではない。これもまたフリムが試作した特殊武具であり、その機能は治癒術式を人工的に発動させるというものだ。


 銃口にあたる部分を少年の胸に突き付け、ニエベスは銃爪を引いた。紫色のアイコンが一瞬だけ表示され、術式が発動する。ルーターでの相互接続時に通信ポートを設定しておいた為、ニエベスからの治癒術式は問題なく少年の肉体へと作用した。


 この時、ニエベスは気付いていなかった。少年は血だらけではあったが、その傷は既に回復していたのだ。故に、彼のしたことはほとんど意味を為さなかった。


 何故、傷口が既に塞がっていたかと言えば、それは少年自身が意識を失う寸前までその身に回復術式を発動させていたからである。処理が完了して発動した術式は、例え使用者が意識を失おうとも〝SEAL〟が生きている限りそのまま実行され続ける。少年が重複発動させていた〈ヒール〉は、幸いなことに彼が気絶した後もその役目を果たしていたのだ。


 そのためニエベスの治療行為は、少年の〝SEAL〟にわずかな刺激を与えただけに過ぎなかった。


 しかし、それだけで十分だった。


 すっ、と少年の瞼が開いた。


「――っ!?」


 機械が起動したかのような唐突さだっため、ニエベスはぎょっと目を剥いた。息を呑み、何故かギクリとしてしまった胸を手で押さえる。


 ――な、なんだ……?


 仄かに意識が覚醒し、目をうっすら開いた――という感じではなかった。しかも、目に差す光に対して眩しがる素振りもない。


「…………」


 何かの誤動作で瞼だけが開いてしまったかのような、異様な動きだった。


「お、おい……?」


 目を開けたまま、しかし微動だにしない少年を怪訝に思ったニエベスは、彼の眼前に掌を翳して左右に振ってみた。


 だが、反応はない。


 ――見えて……ないのか……?


 目は開いたが、意識はまだ戻っていない――つまり寝ぼけているのか、とニエベスが思ったときだ。


 突然、無造作に少年が起き上がった。


「――うおぉっ!?」


 何の前触れもない出し抜けの行動だったため、ニエベスは慌てふためき、思わず後ろへ仰け反ってしまった。尻餅をつき、地面にへたりこむ。


 そんなニエベスの視線の先で、黒髪の少年がゆらりと立ち上がった。


 やけに人間味の薄い挙動だった。幽霊か何かのように、音もなく少年は身を起こした。重力をまるで感じさせない、気持ち悪いほどスムーズな動きで。


「お、おい……ベオ、ウルフ……?」


 少年は応えない。立ち上がり、しかし無言のまま、焦点の結ばれていない瞳をあらぬ方向へ向けている。


 ――こ、こいつ……意識を失ったまま動いてやがんのか……!?


 そう悟った瞬間、凄まじい悪寒がニエベスの背筋を駆け抜けた。気絶したまま、それでもなお立ち上がった姿に戦慄を禁じ得ない。


 ――なんだ、こいつ……!?


 今の動きは、いかにもニエベスが目に映っていないかのようだった。いや、実際に全く認識していないのだろう。かける声とて耳に届いてはいるまい。


 なのに何故――コイツは動けるのだ?


 我知らず生唾を嚥下したニエベスの眼前で、


「――……だ……」


 ぼそり、と少年が何事かを呟いた。


「あ、ぁあ?」


 反射的に腰を浮かし、耳を澄ます。


「……ま……だ……」


 すると、彼は同じような言葉を繰り返した。ニエベスはさらに体を斜にして、左耳を彼へと向ける。


「……まだ……だ……」


 まだだ。


 そう言っている。


「まだ」


 不意にはっきりした声音が少年の唇からこぼれ落ちた。瞬間、その手にディープパープルの光が収束していく。〝SEAL〟のストレージから何か取り出そうというのだ。


「たたかえる」


 光が大きく膨れ上がり――なかなか具現化が終わらない。光の塊が、少年の身長を超えてさらに肥大化していく。


 果たして、その手に顕れたのは、馬鹿馬鹿しいまでに巨大な片刃の剣だった。


 ニエベスは知らない。かつてこの少年が、ルナティック・バベル第二〇〇層のゲートキーパー〝ヘラクレス〟と戦った際、これと似たような武器を握っていたことを。


 黒帝鋼玄・モード〈大断刀〉――少年が掲げ持つ白銀の大型武器は、かの漆黒の巨刀に酷似していた。


 ニエベスは、ただただ唖然とするしかない。握りの部分だけでも一メルトルはあるだろうか。刀身に至っては二メルトル以上あるようにしか見えない。長い棒に人間大の刃をくっつけたような、あまりにも無骨すぎる武器。【それ】を剣と呼ぶべきか、槍と呼ぶべきか、まるで判断がつかない。


 鯨でも解体するのかと思えるほど巨大な武器を携えた少年は、譫言のように呟く。


「たたかう。ぼくが。まもる。まだ。たたかえる。もっと。たたかう。まもる。まだ。たたかう。もっと。もっと。たたかって。これから。もっと。たたかって。まもって。たたかって。かつ」


 何の感情もこもっていない平坦な口調で、片言の言葉を繰り返し繰り返し。


 その眼は未だ焦点が定まっておらず、何らかの幻を見ているようだった。


「な……なに言ってんだ……おまえ……?」


 ――こいつ……こんな状態なのに……まだ【やる気】なのかよ……!?


 足元から少年を見上げるニエベスの全身に、とんでもない怖気が走った。


 今、この少年を動かしているのは、純然たる【戦意】だ。


 闘争本能といってもいい。


 これだけ傷付いていながら、意識すら吹っ飛ばされていながら、それでもなお〝戦う〟という意志が、その体を支えている。


 ニエベスにはこれっぽっちも理解できなかった。


 なにせ、全身血だらけだ。露出している部分の半分以上が深紫のフォトン・ブラッドで濡れている。着ている戦闘ジャケットやインナー、ボトムズにもその色が滲んでいる。


 どうやら傷は癒えたようだが――しかしそれでも、相当な激痛があったはずだ。


 なのに。


「かつ」


 すーっ、と。羽虫が誘蛾灯へ吸い寄せるかのごとく、黒い瞳がヒュドラのいる方角へと視線を動かした。そうと意識してみれば、あちらから激しい戦闘音が幾重にも連なって聞こえてくる。こちらの声は聞こえていないくせに、戦いの音だけは聞き分けているらしい。


 全回復している今となっては、この少年がヒュドラの攻撃によってどれほどのダメージを受けたのか、もう知りようがない。だが、痕跡からある程度推測することならできる。


 肉が潰れたはずだ。骨だって折れただろう。手足が千切れたかもしれない。内蔵も損傷しただろうし、神経という神経には気が狂うほどの激痛が走ったはずだ。


 回復術式で治癒したから大丈夫? 馬鹿を言うな、とニエベスは歯を食いしばる。


 例えば、硫酸の海に飛び込んだ後、その人間は回復術式を受けてすぐに動けるものか?


 答えは否だ。無理に決まっている。


 傷が全快したところで、身が焼け焦げたという事実は消えはしない。痛みと苦しみはその魂に叩き込まれ、刻みつけられる。


 心が折れるはずだ。


 例え肉体が五体満足に戻ろうとも、術式では傷付いた精神までは癒やせない。


 だというのに。


「……な……なんで、だよ……?」


 自らよりも小柄な少年に、ニエベスは恐怖して尻餅をついたまま後ずさった。


 巨大な片刃剣を構えた少年は、今度は左手に小さな光を集め、一本の細い瓶を取り出した。器用に片手だけでネジ式キャップを外し、中に詰まっていた限りなく黒に近い紫の液体を飲み干す。それがフォトン・ブラッドを補給するためのブラッドネクタルだと、遅まきながらに気付いた。


「たおす。かつ。まもる。たたかって。たおして。まもって。かって。たおして。かって。しゃっとだうん」


 少年は本能だけで動いているにも関わらず、理性的な行動をも取っていた。詰まる所、全てのリソースを『戦闘』という行為だけに注ぎ込んでいるのだ。自らを一個の戦闘機械に見立て、修理し、兵装を整え、燃料を補給している。


「なんで――おまえ……」


 理解できない――否、理解したくない。


 どうして。何故。


 何をどうすれば、そこまで純粋に戦意の炎を燃やすことができるのか。


「そんなになってまで……」


 受けた痛みも傷も。そして、これからも負うであろう艱難辛苦を度外視して。


「なんで戦えるんだ……?」


 もはやニエベスの眼には、少年は一人の人間ではなく、一匹の〝怪物〟として映っていた。


 問いかけはしたが、返答など微塵も期待していない。存在理由さえ定かでない化け物に、話が通じるとは思えない。


 事実、少年は一切の反応を示さなかった。


 その代わりと言っては何だが、少年の〝SEAL〟が励起を始めた。ゆっくりとエンジンを温めるように、幾何学模様を描いた深紫の光が、強まっては弱まり、また強まっては弱まるのを繰り返す。そうしながら、徐々に明滅の間隔を狭めていく。


 やがて、一気に火が入ったように輝紋が激しい光を放った。一瞬だけ、電磁場のような輝きが放射状に広がる。ぞわり、とニエベスの肌まで粟立った。


「かつ。かって。かえる。みんなで。だから。たたかう。まもる。みんな。ぼくが。かえって。ハヌに。ロゼさん。かえって。わらって。フリム。みんな。ただいまって。かえって。みんな。かえる。かつ」


 手の甲や、二の腕、肩や背中にコインみたいに小さな、ディープパープルのアイコンが表示されては弾けて消えていく。ルーターで接続している今なら、少年が何をしているのかがニエベスにはわかった。


 体にかけていた身体強化の支援術式を、一つキャンセルしては、同時に一つ新しいものを発動しているのだ。


 通常、支援術式は上乗せをしても効果時間の延長は出来ない。


 しかし――新しく【塗り替えた】のならば、どうなるのか?


 おそらく誰も試したことがないのだろう。やろうと考えたことすらあるまい。常識的に考えて、余人には不可能な手法なのだから。普通の人間なら、支援術式を三回も使えば枯渇状態イグゾーストになる。比較的術力が弱い方である赤コート――マナッドですら、十回が限度だった。そもそも、まとめてキャンセルするならともかく、〝SEAL〟上で発動している複数の術式を一つ一つ完全に分別処理するような器用な真似、一体どこの誰が出来るというのか。


 瞠目するニエベスの眼前で、しかし少年はそれをやってのけた。


 シームレスで〝アブソリュート・スクエア〟を一新。


 強化係数一〇二四倍の効果時間が、再び三ミニトまで延長される。それは、〝SEAL〟で共有しているタイマーの変化からも見て取れた。


「だから。たたかって。かつ。まもる。たたかって。かつ。たたかって。たたかう。かって。たたかう。たたかう。たたかうたたかうたたかうたたかうたたかうたたかうたたかうたたかうたたかうたたかうたたかう――」


 寝言のように繰り返していた言葉が、徐々に一定のベクトルに沿って収束を始めた。夢見るようにランダムな単語を繰り返していたのが、段々と目の前の戦闘に集中するよう変化していく。壊れた機械のごとく、少年は早口で『たたかう』と呟き続ける。


 闘争本能がいきり立つのか、ほぼ無表情だった少年の顔が獰猛に歪んでいった。


 戦闘態勢に移った獣がそうするように、背を丸め、前のめりになり、両肩を怒らせる。激発する寸前のゼンマイのごとく、身をたわめていく。


 転瞬。


 地を蹴って周囲一帯の土を爆発させ、近くにいたニエベスを吹っ飛ばし、稲妻のごとく飛び出して行く直前――


 ニエベスは確かに、彼がこう呟くのを聞いたという。




「ころす」




 吐き気がするほどゾッとした、とニエベスは後に語った。








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