●7 まさかの戦力低下 3
「この愚か者が!」
パァン、と小気味よい音がチョコレート・マウンテンの空に響く。
ハヌがムーンの頬をぶった音だ。
「…………」
殴られたムーンは顔を横に向けたまま、無言。軽く両眼を瞬かせて、キョトンとしていた。
多分、何が起こったのか咄嗟に理解できていないのだろう。
幼いハヌの腕だからさほどの力は入っていないが、彼女の張り手はとにかく体内に響く。経験者の僕だから語れることだけど。
「一体何を考えておる! 危うくロゼが死ぬところだったではないか!」
「……?」
叩き付けられるハヌの怒声に、ノロノロと片手を上げて殴られた頬を押さえたムーンは、やはり『何を言っているのかわからない』と言いたげな表情をしていた。
あの後、間欠泉から突如として現れた八体の特級SBはどうにか撃退した。
というか、ムーンの味方を省みない攻撃が皮肉にも功を奏した、と言うべきか。
間欠泉群の真ん中に叩き込まれた風の牙は、一帯の地面を深く抉り出し、大きく吹き飛ばした。これにより間欠泉の噴き上がる角度も大幅に変化し、辺りは滅茶苦茶になった。
また、あまりの緊急事態に僕の理性の箍も勢いよく外れてしまった。
ハヌを安全な場所に降ろした途端、無言のまま支援術式を多重発動させて一気に強化係数を千二十四倍に。
瞬く間に〝アブソリュート・スクエア〟状態になった僕は、武器を取り出すことすら忘れて、しゃにむに突撃した。
――ロゼさん、ロゼさん、ロゼさんロゼさん……!
炸裂したムーンの『テンケン』の影響で視界が不明瞭な中、それでも音だけを頼りに飛び込み、両手の指に〈ドリルブレイク〉×10を発動。ゴルサウア戦でやったように十指に超小型の螺旋衝角を纏った僕は、接近したイエティやマウンテンロードをとにかく切り裂き、貫き、突き破りまくった。
自分で言うのも何だが、多分この時の僕は、凶暴な獣そのものだったと思う。
果たして多重〈ドリルブレイク〉に加えて攻撃術式の多段発動まで行い、もはや人間爆竹となった僕は、あっという間に八体の特級SBを活動停止へと追い込んだ。
そして、土煙と靄が晴れた頃、風の牙による衝撃で失神し、間欠泉から噴き上がる高熱のチヨコニウムを全身に浴びて大火傷を負ったロゼさんを発見したのである。
「答えよ! なにゆえ攻撃した! おぬしにはロゼの姿が見えなんだか!」
ハヌが激しくムーンを叱責する陰で、僕とフリムは必死にロゼさんを介抱していた。
幸か不幸か、とあるマウンテンロードが盾になったようで、ロゼさんは『テンケン』の直撃をまぬがれていた。
ただ衝撃だけはどうしようもなく、むしろ吹き飛ばされたマウンテンロードの巨体がロゼさんに激突したようで、それが理由で彼女は意識を失ってしまったようだった。
ともかく僕は回復の〈ヒール〉と解毒の〈アンチドーテ〉を。フリムは回復術式が込められた小型拳銃をロゼさんに押し当て、ひたすら火傷の治癒に努めた。
ロゼさんの顔や手、露出していた部分の火傷が、潮が引くように消えていく。その様子に僕はひとまず安堵の息を吐いた。
先程ハヌが『危うくロゼが死ぬところだったではないか!』と怒鳴っていたけれど、これは冗談抜きでその通りだ。
放ったのが素体とはいえ、おそらく『テンケン』は現人神の極大術式の一端。ハヌの〈天剣槍牙〉ほどではないにせよ、それに次ぐ威力を持つはずだ。並の術者の上級攻撃術式が束になっても比較にならないのがハヌの〈天剣槍牙〉――それと比較できる時点で『テンケン』の恐ろしさがわかってもらえるだろうか。
つまり『テンケン』の威力は、マウンテンロードの装甲であればこそ耐えられるものなのだ。人体が直撃を受ければ、よほど〈プロテクション〉の重ね掛けでもしてない限り、ミキサーにぶち込まれたみたいにグチャグチャになる。ほぼ違いなく。
だから、火傷はひどいけれど、これだけで済んでむしろロゼさんは幸運だったのだ。
そう思うと、背筋にぞっと悪寒が走り、酸っぱくて苦い味が喉元までせり上がってきた。
本当に危なかった。一歩間違えれば、冗談抜きでロゼさんは死んでいた。僕達は大事な仲間を永遠に失うところだったのだ。
「……ひとまず火傷はOKね。あとは汚れだけど……ハルト、こっからはアタシだけでやるから、アンタはお子様二人と見張りやってなさい」
フリムが、ふー、と息を吐いた後、チヨコニウムがベットリと付着したロゼさんの髪の毛を手に取りつつ、僕に指示を出した。
ふわふわしたアッシュグレイの長い髪は、頭から泥水を被ったような酷い有様だ。だけど、ただの泥と違ってチヨコニウムは鉱物。冷えて固まってしまうと、硬い石となる。
どう見ても髪を短く切るしか解決策がないように見えるけれども――
「な、何とかなるの……?」
フリムは軽く頷き、
「まーね。こん中じゃアタシが一番、金属だか鉱物だかの扱いには慣れてんだから。ま、お姉ちゃんに任せておきなさいって」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じて見せた後、
「ほらほら、いつ次の敵がやって来るかわかんないんだから。とっとと見張りに立つ。あと、あっちの不毛なやりとり、何とかしときなさいよね。それがアンタの仕事よ」
しっしっ、と手を払って僕を追い払う。そんな扱いをされても嫌な気分にならないのは、ちゃんと僕をリーダーとして尊重してくれているのがわかるからだろう。
髪は女の命だという。なら、そこに気軽に触れていいのは同じ女性であるフリムだろう。そして、リーダーである僕には、そろそろムーンを非難するハヌを止める義務がある。つまりはそういうことだった。
「――何を黙っておる! 黙っておれば妾が飽きて引くと思うてか! 問いに答えよと言っておるのじゃ!」
頬を平手打ちした後もハヌの叱咤は止まらない。それどころか、感情のボルテージが上がって加速しているようにも見える。
だけど、やはりムーンは彼女が怒っている理由を全く理解していないようだ。何とも無邪気な瞳で怒れるハヌを見返し、沈黙している。
しかしだからと言って、子供らしく涙ぐむ様子も見られない。
ただ、張られた頬が赤く染まっているのが、元が白皙なだけによく目立っていた。
「……ハヌ、もうそのぐらいで……」
気を失っているロゼさん――ストレージから取り出したエアマットの上に横たわらせている――をフリムに任せた僕は、目尻を剃刀みたいに尖らせたハヌに声をかけた。
すると、やにわに振り向いたハヌは鬼気迫る蒼と金の瞳を僕に向け、
「何を悠長なことを言っておるか! 今一歩でロゼが死ぬところだったのじゃぞ!」
今度は僕の頬を張るような勢いで怒号を放った。ハヌの声は、その小さな体から出ているとは思えないほど大きい。
ハヌがここまで激怒して、他者を言葉で責め立てるのもちょっと珍しい。確か、僕を〝ぼっちハンサー〟と馬鹿にした『蒼き紅炎の騎士団』の新人さん――まぁ後にニエベスという名前が判明したのだけど――のとき以来だろうか。
というかハヌの場合、怒ると基本的に口より先に手が出るので、怒声をぶつけるだけという状況が珍しいのかもしれない。
それは多分、ムーンの手によるロゼさんの死が未遂で終わったのもあるだろうけれど――それ以上に、現人神とそれにまつわる者だから、という理由もあるのだと思う。
「マイマスターの言う通りさ、小竜姫。それ以上ムーンを責め立てたところで無益だよ。何故って、理解していないからね。君の言っていることを」
これまでずっと沈黙していたエイジャが、ここぞとばかりに現れて口を挟む。
「わかっているとは思うけれど、ムーンは小竜姫、君を守るために行動したに過ぎないよ。本能的なのか、あるいは刷り込みか。君を上位者であると認識した上で、守護するのが自らの使命の一つだと思っている。逆に言えば、君以外の存在は眼中にない。路傍の石か何かだと思っている。【だから】、ロルトリンゼを傷付けたことを怒っても理解ができないのさ」
このエイジャの提言は、僕の立場からも納得できる理屈だったのだけど、今のハヌにとっては火に油だった。
「賢しげな口を叩くな、痴れ者が」
ギロリ、とそれだけで人を殺しかねない迫力の視線が、空中表示のエイジャに突き刺さる。ぶわっ、とハヌの全身から濃密な術力が溢れ出して、周囲一帯を威圧した。
すると、はぁーやれやれ、と言わんばかりに、エイジャが大仰に肩をすくめるジェスチャーをして僕の体内にすっこんだ。
途端、ハヌは発していた術力を収めて――長く放出していると敵が寄ってくるのをちゃんとわかっているのだ――、改めてムーンに向き直った。
ずい、と顔を近付けて肉薄し、
「わかるわからぬの話ではない。知らぬのであれば、今、ここで覚えよ。これより以降、【妾の友】を傷付けることはまかり成らぬ。此度は見逃すが、次はないぞ。下手を打った時は、妾自らおぬしを天に還す。心せよ」
「…………」
残念ながらムーンの瞳を見る限り、ハヌの言葉はあまり刺さっていないようだった。
その光景に、僕は無性に心がざわつくの感じた。
もちろん、ハヌの言った『妾の友』というのが僕だけでなく、ロゼさんやフリムも含まれているのがわかってすごく嬉しかったのだけど――
それ以上に、胸の奥が、引き攣るように痛んだのだ。
「――わから、ないんだよ……」
我知らず、僕はそう口に出していた。いつの間にか口の中が砂漠のように乾いていて、紙やすりみたいにザラついた声になっていた。
「……ラト……?」
僕の声音があまりに変だったせいか、ハヌが心配そうに振り返ってくれた。
僕は無意識に胸の辺りに片手を当て、服ごと拳を握り込む。
「わからないんだよ……ムーンは……」
僕は呟くように言いながら、ハヌとムーン、二人の近くで膝を落とし、目線の高さを合わせた。同じ質感の銀髪を持つ少女二人は、揃って僕に顔を向ける。
「ど、どうしたのじゃ、ラト? おぬし、何故……」
ハヌが得も言えぬ微妙な表情と態度で、僕に接する。きっとムーンの手前、おいそれと狼狽できないのだろう。表情と言葉の選択に迷うような様子を見せた。
「……ら、と……?」
一方、相変わらずキョトンとした顔でムーンは僕を見つめていた。その口から僕の名前が出たのは、きっとハヌが言っている言葉を覚えたからだろう。
多分、僕がどこの誰かは、きっとわかってはいない。
その姿が、余計に胸にきた。
「――わからない、よね。そうだよね……わからないことは、【わからない】んだよね……」
可哀想だ、とか、哀れだ、とかじゃない。
多分、僕の総身を芯から震わせるのは――
「僕も、そうなんだ……」
ただ、自分と被って見えたからだ。
「僕もね、お父さんとお母さんのことが、わからないんだ……」
頭の中がグチャグチャになって、もう自分が何を言っているのかもわからなくなっている。呼吸はちゃんと出来ているだろうか? 声はちゃんと出ているだろうか? 頭の片隅で、変な思考がわだかまる。
「さっき、お父さんのことがわかったみたいなんだけど、それもやっぱり、よくわからないんだ……」
情報を整理するに、僕の父親は勾邑と呼ばれる人物らしい。その人物はおそらく悪い存在で、僕に対しても直接的、間接的に影響を及ぼしている。
なのに。
「嬉しいとか、悲しいとか、ガッカリしたとか……そういうことすら【わからないんだ】……」
そう、まったく【わからない】。
僕は何を感じているのだろうか。僕は何を思っているのだろうか。
自分の気持ちがよくわからない。上手く把握できない。
空っぽだ。
胸の真ん中に大きな穴が空いたみたいに、そこには何もなくて、空白で、ただただ虚無だけが詰まっている。
「何がどうなっているのかもわからないし……どうすればいいのかも、わからなくて……空っぽで、怖いぐらい真っ白で、でも、本当はわからなきゃいけないのに……」
今になっても、僕は自分の父親が勾邑だったという事実に対して、どうすればいいのかがわからない。
何の感情も湧いてこないのだ。
初めて父親=勾邑という話を聞いた時は、衝撃を受けた。わけもわからぬまま、落雷に打たれたみたいに全身がわなないて、何も考えられなくなった。
それから、そんな馬鹿な話があってたまるか、と思った。
理性ではそう判断できた。
でも、感情は無風のままだった。怒りも湧き上がってこないし、悲しみが込み上げてくることもない。
あれからずっと、凪の状態が続いている。
時間を置けば何か変わるかもしれない――という期待もどこかにあった。
だけど話の途中でSBの群れがやってきて、それをどうにか凌ぎきった後も、頭のどこかでずっと宙ぶらりんの感情を持て余したままだった。
今もそう。
ムーンが、敵の中にロゼさんがいることに気付いていなかったり、どうしてハヌに怒られているのかが理解できないでいるように。
僕も、自分の感情を理解するためのとっかかりを失って、心が空転している。
だからだろう。
ハヌにぶたれて、それでも状況が理解できないでいる様子のムーンに自分の姿を重ねてしまったのは。
「わからないことって、本当にわからないよね……どうしたらいいのか、何をすればいいのか、何にも手掛かりがないんだよね……」
気付けば、僕の頬には熱いものが流れていた。
自分でもよくわからない感情の高ぶりに、目から勝手に涙が出ていたのだ。
ふと、そのことに気付き、
「――あ、ご、ごめん……僕、こんなつもりじゃ……」
慌てて服の袖で乱暴に涙を拭う。
きっと、僕とムーンとでは『わからない』の度合いが違う。僕は『わからないことがある』と自覚しているけれど、ムーンはその認識すら持っていない。わかっていないことすら、わかっていないのだ。
だから、こうして辛いのは僕だけ。胸の空白を認識していて、でもその輪郭がトゲトゲして痛くて、正体不明の苦しみに囚われているのは。
そう。本当は何かを感じて、それを元に、次からどのように対応していくかを決めないといけないのに――
「……え?」
ぴと、と頬に触れる柔らかい感触に驚いて、思わず声が出た。
何かと思ったら、ムーンが手を伸ばして僕の頬に触れていたのだ。
「……む、ムーン……?」
今度は僕がキョトンとする番だった。何を考えているのかわからない、無邪気な瞳が真っ直ぐ僕を見つめている。
「ら、と」
たどたどしく僕の愛称を呼び、そのまま僕の頬を擦る。そして、まだ流れ出ていた涙を掌で拭ってくれた。そして、
「…………」
いったん手を離すと、じぃっ、と僕の涙で濡れた手を見つめ――何を思ったのか、ぺろ、と舐めるではないか。
「えっ、ちょ……!?」
驚きのあまり、思わず変な声が出そうになった。というか、涙が引っ込んでしまった。
しょっぱい涙の味に、ぱちくり、と目を瞬かせたムーンは、やっぱり自分でも意味がわからなかったらしく、顔全体で「???」と疑問符を浮かべている。
それがちょっと面白くて、僕はつい口元が綻んでしまった。
「……えっと……ありがとう、ムーン」
涙を拭ってくれたことが、何だか慰めてくれたみたいに思えて、僕はお礼を言った。
「アリガトウ?」
すると、ムーンはその言葉をオウム返しにする。
ありがとう、という言葉の何が、この子の心の琴線に触れたのか。
「――アリガトウ」
また、同じ言葉を繰り返した。ちょっとだけニュアンスを変えて。まるで、口に馴染ませるように。
「もしかして、気に入ったの? ありがとう?」
気になって尋ねてみると、僕の質問の意図は通じたらしく、こくん、と頷いた。
「アリガトウ」
「いや、そんな了解って感じで使う言葉じゃないんだけどね……?」
変な覚え方をしているムーンに一応ツッコミだけを入れて、僕は難しい表情をして唇をへの字にしているハヌに向き直った。
「ハヌ……」
「…………」
呼び掛けるけど、ハヌは腕を組んで無言。やっぱりムーンの手前、真剣に怒っていたのもあって、振り上げた拳を下ろせずにいるようだ。だから、
「僕が言うことじゃないと思うんだけど……本当なら、ロゼさんじゃないと言えないと思うんだけど……でも、もうムーンを怒らないであげて……?」
許してあげて、とは口が裂けても言えない。それを言っていいのは、直接被害を受けたロゼさんだけだ。
「この子は、まだ本当に小さな子供なんだよ……だから、自分のやったことがどういうことか、全然わかってないんだ……」
言ってみて気付いたけれど、よく考えればハヌもさほど変わらない年頃というか、小さな子供なのだ。なのに時折、年齢以上の貫禄が出るというか、不思議なほど大人びて見える時もあって――
改めて『この子は一体何者なのだろう?』と素朴な疑問が脳裏に浮かぶ。『極東』の現人神であることは知っているけれど、やはり僕はそれ以上のことは知らなくて――
「……ならば、どうするというのじゃ? そやつをまだ連れて行くというのなら、また同じようなことが起こるやもしれぬぞ?」
木琴の音みたいに、硬く締まったハヌの声。感情を押し殺して、現実的な対応を僕に問う。
「そやつを責めぬのは簡単じゃ。何も言わねばよい。じゃが、今度はおぬしが、あるいはフリムがロゼと同じ目にあうやもしれぬぞ。その時はどうするつもりじゃ?」
容赦のない刃のごとき鋭い舌鋒に、僕は我知らず生唾を嚥下した。毎度のことながら、ハヌは小柄なのに全身から放つ迫力が並ではない。これぞ現人神の胆力か、と思い知らされる。
故に、
「ぼ、僕が見張るよ! 僕が側にいて変なことは絶対にさせない! 悪いことしようとしたら注意して矯正するから!」
僕は前のめりにそう宣言した。
「な……」
ハヌが、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。身をやや後ろに引いてたじろぎ、
「な、何を言うて――」
「僕がさせない! ちゃんと教える! 仲間を攻撃しちゃいけないって! わからせる! 話をする! どうしてもって時は力尽くで止める! 僕にはできるよ! 強化係数最大で動けるから!」
ハヌとずっと一緒にいて僕が学んだのは、やはり彼女を説得するのに必要なのは理屈より勢いである、ということだ。
もちろんハヌは賢いから理屈詰めで話を進めても、わかってくれる時はちゃんとわかってくれる。でも、今のハヌはどう見たって感情的になって意地を張っているだけだ。
であれば、僕もそれを吹き飛ばすような勢いで捲し立て、とにかく押しの一手をとるしかない。
そうすれば、
「――ば、馬鹿を言うでない! おぬしがそやつの面倒を見るというなら、妾はどうなる! おぬし、親友である妾を捨て置くつもりか!」
と、こんな風にハヌもまた感情的になって声を高めてくる。僕がムーンの面倒を見るということは、一時的にハヌから離れるということだ。それはハヌにとって、ものすごく許しがたいことだと思う。
でも、
「大丈夫、ムーンがちゃんとできるようになったらすぐいつも通りに戻すから! ちょっとの我慢だよ? あ、そうだ! じゃあハヌも一緒に見張ろうよ! 二人で教えた方がきっと早いよ! この子が危ないことしないようになったら、またいつでも手を繋げるようになるから! ねっ!」
僕はそれをも逆手にとって、攻勢へと繋げた。両手で拳を握って力説して、とにかくハヌがうんと首を縦に振るしかない状況へと持っていく。
「ぐ、ぬ……」
ハヌが唇を閉じて唸った。
こう言えばハヌには諦めるか、僕と一緒にムーンの面倒を見るかの二択しかない。
これでも文句をつけようものなら、ハヌは自ら『妾は少しの我慢も利かない子供なのじゃ』と言うようなもので、プライドの高い彼女には到底受け入れられない流れとなる。
「ほら、エイジャも言ってたでしょ? ムーンはハヌのことを守ろうとしていた、って。君はこの子にとって特別な存在なんだよ。さっきのお話は通じなかったかもしれないけど、言い方を変えれば違う結果になるかもしれないよ? だから、ね? 僕と一緒にやろうよ! ほら、ハヌはいつも言っているでしょ? 僕とハヌが揃えば向かうところ敵なしだって。出来ないことは何もないって。ムーンをいい子にすることだって、僕達二人でやればきっと、ううん、絶対に大丈夫だよ!」
「ぬ、ぬぅぅぅぅ……!」
あ、すごい。めちゃくちゃ嫌そうだ。ハヌの渋面が、かつて見たこともないレベルで深くなっていく。小さな女の子なのに顔がシワシワだ。
「そ、そんなに嫌なの……?」
予想以上の反応に、思わず引いてしまった。ここまで心底嫌そうな顔をされるとは思わなかったのだ。
けれど。
「……………………やむなし、じゃ。ラトがそこまで言うのであれば、妾に否やはない」
「ほ、ほんと!?」
まさかの賛意表明。逆転ホームランだ。
「――じゃが」
「え?」
喜びかけた僕を遮るように、ハヌが片手を突き出した。僕の顔に向けて、待ったをかける。
蒼と金のヘテロクロミアが、すっ、と細められ、意味ありげに僕を見つめる。
「……後悔しても、知らぬからな」
ぽつり、と突き放すように言った。
「え……そ、それってどういう、」
「他ならぬおぬしの決めたことじゃ。どうなっても妾は知らぬぞ。知らぬからな」
一体どういう意味の発言なのかを聞こうとしたら、ぷいっ、とそっぽを向かれてしまった。思わず伸ばした僕の手は、けれど何も掴めず宙ぶらりんになる。
「――らと?」
「ぅはいっ?」
突然、別の方向から呼び掛けられたので反射的に変な返事をしてしまった。振り向くと、そこには無邪気な目をしたムーンが。
「ど、どうしたの、ムーン?」
意図の読めない呼び掛けに小首を傾げてみると、何が面白かったのか、ぱぁぁ、とムーンが表情を明るくした。
あ、ちゃんと笑えるんだ、この子。
「らと、らと、らと」
「う、うん、うん、うん? なに、どうしたの?」
やけに楽しそうに僕の名を連呼するので、一つ一つに返事をすると、それはそれでまた嬉しそうな反応を見せるムーン。
というか、今気付いたけどムーンは僕のことを『ラト』と呼んでいる。なのに、ハヌが何も言わないのはどうしてだろう?
ラトとハヌ。この呼び方は、僕達二人にとってはすごく特別で、とても大切なものだ。
かつてハヌは、自分以外の誰かが僕をラトと呼ぶと、烈火のように怒ったことがある。
僕もまた、ハヌ以外の人間からラトと呼ばれて、殺意を覚えたことがあった。
それなのに――
ムーンには怒らないのだろうか? 小さな子供だから仕方ないと思っているとか? それとも、別に理由がある……?
「あの、ハヌ?」
念のため、聞くだけ聞いておこう――そう思って声をかけた時だった。
「あーもー、やっとどうにかなったわよー、ロゼさんの髪。まだ完全とは言えないけど、この場で出来る処置としてはここらが限界ね。後は人里に戻ってからちゃんとした美容院とかで……って、どうしたのよ、アンタ達?」
フリムがこちらにやって来て、そっぽを向いているハヌと、正反対に笑っているムーンと、困惑している僕を見て、パチクリと目を瞬かせた。
いつもお読みいただき、まことにありがとうございます。
コミックス新刊、6月1日に「リワールド・フロンティア@COMIC」の3巻が発売しております。
小説版の第一章、ヘラクレスとの決戦および決着、ハヌとの仲直りエンドまで収録されております。
美しい色彩かつカッコいいデザインの表紙に、書き下ろしのカラー口絵、10000文字以上の書下ろしSS、書下ろし4コマ漫画、術式アイコンと解説などなど、おまけ要素も入って充実した内容となっております。
荒木先生のものすごい漫画力で原作以上に面白い作品になっておりますので、是非ともお手にとっていただければ幸いです。
TOブックス様のオンラインストアで購入された場合は、特典として水着ハヌのイラストカードがつきます。
サンプルを下に張りますので、どうかご検討下さい。
また、小説の書籍版は残念ながら打ち切りとなってしまいましたが、コミカライズは売れ行きによってはまだまだ続くとのことです。
皆様、どうか2度目の打ち切りが回避できるよう、お力を貸していただければ、これに勝る喜びはありません。
何卒、コミカライズ版リワールド・フロンティアをよろしくお願いいたします。
国広仙戯




