●5 怪物の才能と血筋 2
気を失っていたらしい。
「――ト、ラト! どうしたのじゃ!? 大丈夫か、ラト!? ラトっ!?」
気付いたら目の前にハヌの顔があった。僕のほっぺたを両手で挟んで、至近距離で泣き喚いている。
「……あ、れ……?」
前後の流れが綺麗さっぱり飛んでいた。何がどうなって今に至るのか、全然わからない。
「ラト……! 正気に戻ったか……!」
目を瞬かせると、ハヌがあからさまに安堵の表情を見せた。声音から刺々しさが抜け、力が抜ける。
「まったく、心配させよって……」
はぁぁぁぁ、と深い息を吐き、ハヌはズルズルと崩れ落ちた。どうやら僕の膝の上に跨がって、両手で顔を挟んでいたらしい。ほとんど馬乗りマウント状態だ。
そうして、僕の胸に頭を預ける形となったハヌに、
「ハヌ……? 僕、一体……?」
僕は、ちっちゃなつむじを見下ろしながら呟いた。
目の前からハヌの顔がなくなったおかげで、改めて周囲の様子が視界に入る。まず空中のエイジャが片手で口元を隠しながら、僕を見下ろしている。唇の形は隠しているけれど、両眼が弓形に反っているので笑っているのだとわかった。
ロゼさんは、ハヌと同じく胸を撫で下ろしている。よかったです、と囁くような声が微かに耳に届いた。
フリムはと言うと、両手で顔を覆って天井を仰いでいた。
「あー……もー……」
顔を隠す両手の隙間から、そんな声が漏れ出た。見た感じ、やらかしたー、と全身で言っているかのようだ。
「――僕、もしかして、気を失ってた……?」
まるでブレーカーが落ちたみたいに、意識が飛んでしまった。確か、フリムから大切な話を聞こうとしたところで記憶が途切れている。
「……ああ、その通りだよ、マイマスター。だが安心して欲しい、君がおかしくなってからそんなに時間は経っていない。そうだね……君が気を失ってから数十秒ってところかな。オレはAIだから正確な秒数が言えるけれど、それをそのまま言うのは流石に味気ないからね。この曖昧な表現を受け入れた上で、存分に安心して欲しい」
「なんでそういう言い方ばっかりするかな……」
まだ少し頭がボーっとしているせいか、思ったことがそのまま口に出てしまった。
「でも、僕、なんで急に……?」
忽然と意識が飛んでしまったのか。何もなかったのに突然、気を失ってしまうとか尋常ではない。
「ラグさん、あなたはフリムさんが――」
「ああ、ごめんロゼさん、ちょい待ってくれる?」
ロゼさんが僕に何か説明してくれようとした瞬間、フリムが片手を上げて制した。そのまま顔を覆っていた手も外し、セーフハウスの天井に向けていた体を戻す。
「多分だけど、そのまま話しちゃったら、また同じことになっちゃうから」
「同じこと……ですか?」
ロゼさんが小首を傾げる。フリムはロゼさんの琥珀の瞳と目線を合わせ、頷きを一つ。
それから僕に視線を向け、
「やっぱりね、ハルト。この話、アンタにはまだ理解できないみたいだわ。残念だけど……」
と、本当に残念そうに溜息を吐いたフリムは、けれど次の瞬間、驚くほど優しい眼差しになった。
「――でも、ここまで言ったらもうわかるんじゃない? 今のアンタの頭じゃ理解できない……その話を聞いたら気絶しちゃうことなんて、一つしかないでしょ?」
「――――」
敢えて具体名を避けたフリムの言い方に、僕は息を呑んだ。
輪郭をなぞるような微妙な言い回しから話の中身を察しろ、と彼女は言っている。
僕の頭が理解できない――聞き取れなかったり、認識できなかったり、ひどい時は意識が途切れたりする話題――
「――それって、もしかして……」
そんなもの、一つしかない。
「……僕の、両親のこと……?」
フリムは頷くことも、首を横に振ることもなかった。たったそれだけの動作でも、僕に影響を及ぼすことを考慮したからだろう。
だから僕の従姉妹は、ただ黙って、何とも言えない表情で僕の顔を見つめ返していた。
それが答えだった。
「…………」
二の句が継げない。あまりのことに、頭の中が完全に真っ白になった。
僕の目は自然と、先程エイジャが表示した画像へと吸い込まれる。
改めて見てもやはり、黒い葉脈のようなものしか見えない、エイジャ曰く、そこには『勾邑』なる人物が写っていて、僕以外には――ハヌやロゼさん、フリムには、ちゃんと人間の姿が見えているらしい。
でも、僕にはそうは見えない。
つまり――【そういうことだった】。
「――【お父さん】……? これに、僕の【お父さん】が、写ってるの……?」
自分で言っておきながら、自分で身を引き裂かれるような衝撃を受ける。
頭の中を直接ハンマーで殴られたような感覚。
落雷に打たれたかのように、骨の髄まで痺れる。
凄まじい酩酊感が瞬時に襲い掛かって来て、視界に映るもの全てがグニャリと歪んだ。
体は微動だにしていないのに、目が回る。
意味が分からない。
「――――」
有り得ない。
そんな馬鹿な。
だって、そこに写っているのは『勾邑』だ。
エイジャが〝破壊者〟と呼んだ存在だ。
そのはずだ。
それが――僕の父親だなんて。
そんな、はずが。
そんなこと、あるわけが――
「なるほど、マイマスターの記憶領域に妙なロックがあると思っていたのだけど、そういうことか。これは興味深い」
エイジャの声が聞こえる。まるで他人事のように――いや、彼にとってはどうしようもなく他人事でしかないのだ――微笑み、うんうん、と一人で頷いている。
「ああ、記憶領域にロックがあるというのは、別にマイマスターの記憶を覗き見たというわけではないよ。あくまで君の肉体全体を俯瞰して、おかしなエリアがあるのを見つけただけさ。言うなれば、機械装置の外装を取り外して中身を見ただけ、という感じかな。ハード的におかしな部分があるのを発見しただけで、ソフト的に中身を読み込んだわけじゃあない。だから、そこにどんな情報が入っているかをオレは知らない」
エイジャの言葉が右の耳から入って、左の耳へと抜けていくようだった。中身のない戯言としか思えない。
今の僕は、体の芯までのしかかる正体不明の重圧に押し潰されて、何も考えることが出来なかった。
ハヌは今、どんな顔をしているだろう。見えない。彼女には僕の事情を話してある。きっと心配してくれていることだろう。
ロゼさんはどんな様子だろう。わからない。そういえば、クラスタの中でロゼさんにだけはまだ僕の事情を話していなかった。申し訳なく思う。
フリムは多分、さっきと同じような表情で僕を見つめていることだろう。小さい頃からの付き合いで、僕の両親のことについても最も詳しい。昔から心配をかけている。さっきの『考える時間が欲しい』というのは、むしろ僕のためだったのだろう。
「――しかし、ミリバーティフリム。オレが見るに、マイマスター・ラグディスは両親に関する話になると【おかしくなってしまう】ようだけれど、一体どういうことなのかな? 差し支えなければ、是非とも教えていただきたいのだけれど」
「……あーもーうっっっっっさいわねっっっ!! アンタさっきから鬱陶しいことこの上ないわよっ!? 空気読みなさいよ空気ッッ!!」
デリカシーの欠片もないエイジャに、フリムが本格的にキレた。ムキーっ、と自慢のツインテールを逆立て、宙に浮いているエイジャに食ってかかる。
「ふむ……そうは言ってもマイマスターの体調管理はオレの役目でね。肉体面はもちろんのこと、精神面も可能な限りケアしたいのさ。しかし、だからと言って記憶を読むのはやはりマナー違反だろう?」
が、案の定だけどエイジャは歯牙にもかけない。それどころか、教えてくれないと勝手に僕の記憶を読むしかないのだが――とほのめかし、軽く脅しをかける始末だ。
チッ、とセーフハウスの二階まで届きそうな勢いでフリムが舌打ちした。そのまま、しばし空気がひりつくような沈黙が落ちる。
やがて、はぁ、と根負けしたようなフリムの吐息が生まれた。
「……見ての通りよ。理由はアタシにもわかんないわ。ただ、とにかくハルトは【その話】をすると耳が聞こえなくなったり、文字が読めなくなったり、写真に写っているものが見えなくなったり、最悪さっきみたいに気絶するのよ。小さい頃から――アタシとハルトの祖父母の家に預けられた時から、ずっとそうなのよ」
こうして今も僕が、半ば思考停止状態にあるのはそれも理由かもしれない。
でも、僕の精神を打ちのめしているのはそういった条件反射だけではない。
ほぼ記憶にない両親の存在。祖父や祖母、フリムの両親といった周囲の環境から類推して、探検者になればどこかで出会えるかもしれない――そう思ったから、僕は故郷を出て遺跡に潜るようになった。
エクスプローラーとして活動していれば、いつか、何かわかるかもしれない。あるいは有名になれば、向こうから僕を見つけて会いに来てくれるかもしれない――そんな儚い希望が、けれど確固たる形となって僕の中にはあった。
今の今まで自覚したことはなかったけど、僕は漠然と、いつか『両親と再会する』という願いが叶うって、心のどこかで確信していたのだ。
頑張っていれば、いつか絶対に報われる――と。
でも、そんな希望は容赦なく音を立てて崩れ落ちた。
僕が立てた『両親はエクスプローラーかもしれない』という予想は、大いに外れていた。てんで的外れだった。
両親はエクスプローラーなどではなかった。それどころか、およそまともな人間でもなかった。
破壊者・勾邑。
僕達が今まで『黒い男』と呼んでいた人物。
ロゼさんの腹違いの兄、シグロス・シュバインベルグ――大勢の人が虐殺された『ヴォルクリング・サーカス事件』の元凶は、彼が神器〝融合〟を手にしたことから始まった。
惨劇のトリガーとなる神器を渡したのが、他ならぬ『黒い男』――勾邑である。
それだけではない。僕を挑発して決闘に持ち込んだロムニック・バグリーもまた『黒い男』から神器を受け取り、その記憶を消されていた。
つまり、僕の父親が本当に勾邑なる人物だとして――彼は僕という存在を認識しておきながら、しかし間接的に他人を使って陥れようとしてきたのだ。
その思惑はわからない。
そんなことをする理由なんて全く思い付かない。
でも、勾邑が僕を【攻撃】してきたのは、紛れもない事実だった。
「――僕は……ゲームの中で、お父さんと、会っていたの……?」
ぽつり、と。我知らず、僕はそう問うていた。相手はもちろん、エイジャである。
「ああ、もちろんさ。覚えていないんだね、マイマスター。これが見られるかい?」
エイジャが新たにARスクリーンを表示させる。吸い寄せられるように視線を向けると、そこには宙に浮いた僕の姿が映っていた。両手を首元にやり、苦しそうに両足をジタバタと動かしている。
まったく意味のわからない映像だ。
「……これは?」
こんなことがあった記憶などない。自分がどうやって宙に浮いているのか、どうして苦しそうなのか、映像を見る限りではさっぱり理解できない。
「勾邑が君に『黒の力』を補給しているところさ。君にはどんな風に見えているのかな?」
「……僕が、一人で宙に浮いて、ジタバタしてる……」
もはや誤魔化す気力もなく、僕は見たままを口にした。
「おっと、それはまた随分と乱暴なことだね。整合性のこじつけもなしに幻覚を見ている――というところかな? かなり大雑把な『認知の歪み』だ。過去、よほどトラウマになるような出来事があったんだろうね」
過去? そういえば、自分がどうして両親のことを認識できなくなったのか、原因がわからない。あまり深く考えたことはなかったけれど、確かに僕のこれは異常に過ぎる。エイジャの言う通り、何か途方もないことが僕の身に起こったのだろう。憶えていないけれど。
「認知の歪みが先か、記憶のロックが先か――それはわからないが、何にせよマイマスターの記憶を正常な状態に戻せば、おそらくは強引に過ぎる認知の歪みも消えるだろうね。特定の情報を前にすると五感が鈍ったり意識が落ちたりするのは、脳がその情報を拒絶しているからだ。記憶のロックが外れないよう、防衛機構が動いているんだろうね。可能であれば解除してあげたいところだけれど――」
んー、とエイジャは考え込む素振りを見せる。AIである彼なら結論など瞬時に出ているだろうに。
「――残念ながら今この場では無理だね。もう少し準備やツール、それにエネルギーが必要だ。条件を揃えてルナティック・バベルに戻らないといけない。申し訳ないがマイマスター、それまで我慢してくれるかい?」
「…………」
この申し出に対して、感謝の念は驚くほど湧いてこなかった。
勾邑=僕の父親、などという意味のわからない話を聞く前の僕だったら、喜んでいただろうと思う。
しかし今となっては、重く閉ざされた記憶の扉を開いても、その先にあるものが希望だとはとても思えない。
「それにしても――おかしなものだね。勾邑は広義の意味でも【人間ではないはずだ】。なのに、ミリバーティフリムは、彼のことをマイマスターの父だと言う。そして――彼の姿が見えないということは、マイマスターもまた逆説的に勾邑が父親であると認識しているということだ。まったく妙な話もあったものだね?」
ふふふ、と楽しげに笑っているあたり、内心ではこれっぽっちも、おかしいとも妙だとも思っていないのだろう。なんとなく、それがわかってしまう。
「とはいえ、これは一つの答えだ。詳細はわからないが勾邑がマイマスター・ラグディスの父親だというのなら、なるほど、『黒の力』を宿していたのも頷ける話だね。むしろ、よくこれまで無事に生きてこられたものだよ。あまつさえエクスプローラーとなり、ルナティック・バベルを訪れ、オレのマスターになるだなんて、まさに奇跡だ。運命の女神は、本当にいい趣味をしている」
「…………」
何だろう、今のエイジャの言葉がやけに引っかかった。そういえば、前にも似たようなことを言っていた気がする。確か、あれは初めて出会った時――
「――お待ちください」
茫然自失状態の僕が記憶を遡ろうとした時、ロゼさんが硬い声を放った。
「どうしたんだい、ロルトリンゼ?」
話の腰を折られたエイジャがそう返すと、けれどロゼさんは周囲に鋭い視線を走らせながら、
「……何か妙な気配がします。気をつけてください」
そう警告を発した。
直後、微かな揺れを感じた。
「……ちょっと、何よ、地震?」
フリムがソファから軽く腰を浮かし、そう呟く。
「なにごとじゃ?」
僕の膝にマウントしているハヌも顔を上げ、セーフハウスの中を見回す。
どうやら建物全体が揺れているようだ。フリムの言うとおり、地震の可能性がある。
けれど、揺れに続いて、妙な音がどこからともなく響いてきた。
ドドドド……と地面をどよもす音だ。
それはどうやら、セーフハウスの外から聞こえてくる。
「――まさか……!?」
突然、僕の神経にヤスリがかけられて、一瞬にして自失状態から回復した。フリムのように身を起こし、ハヌの体を脇にどけながらソファから立ち上がる。
嫌な予感が脳裏をよぎる。そして、往々にして僕のそれはよく的中するのだ。
「――何か来る! みんな外にっ!」
ほぼ直感で僕は叫んだ。このままセーフハウス内にいることを生存本能が拒否したのだ。
生命の危機を前に、両親がどうのという情報は頭から一時的に蒸発していた。僕はハヌの体を抱き上げ、瞬時に伸びたロゼさんの鎖の一本が眠っているムーンに絡まり、残りの三本がすぐ近くにあった窓を叩き割った。
強化ガラスの砕ける音が重奏する。
僕達は玄関を目指す愚を避け、そのままロゼさんが割ってくれた窓に向かった。
戦闘ジャケットでハヌを庇いつつ、僕はまだ宙を舞っている破片の中を突っ切りながら〈シリーウォーク〉を発動。窓から外に出て、空中に着地する。
途端、先程から聞こえている重低音がよりクリアになって耳に届く。
一体どこから響いてくるのかと耳を澄ませつつ、視線を巡らせると――
「――な……!?」
信じられない光景が目に飛び込んできた。
SBの大群――僕達がこのセーフハウスに来る際に通った道を、数え切れないほどの怪物が列を成して突進してくる。あまりに数が多すぎて、一部は山道からこぼれて崖から落ちていくのが見える有様だ。
「ちょ――何よアレ!?」
地面をどよもし、チョコ色の土煙を上げながら驀進するSBの群れに、フリムが素っ頓狂な声を上げる。それでいながら両手にドゥルガサティーを構え、背中のホルスゲイザーと両足のスカイレイダーを戦闘モードに移行させているのは流石の一言だ。以前までは付与術式使いより武具作製士の割合が大きかった彼女も、僕らのクラスタに入ってからはすっかり戦闘慣れしてしまった。
「通常のSBだけでなく、イエティやマウンテンロードも混じっているようですね」
冷静に敵の構成を分析したロゼさんが、鎖を巻いて連れてきたムーンの体を両手で受け止める。急に動かされたせいか、ムーンはすっかり目を覚ましていた。パッチリと蒼い目を開いて、鎖で雁字搦めになった自分の状況にキョトンとしている。
前にも言った通り、ルナティック・バベルで言えばイエティはルームガーディアンで、マウンテンロードはゲートキーパーにあたる。
ゲートキーパーは全パーツが機械のロボット型。ルームガーディアンは半分が機械のサイボーグ型なのが特徴である。そして、それはマウンテンロードおよびイエティも同様のため、見ただけでタイプが判別できるのだ。
「……? おかしいぞ、ラト。ここは安全なのではなかったのか? あやつら、明らかにこちらへやって来よるぞ?」
僕にお姫様抱っこされているハヌが、押し寄せるチョコレート色の怒濤を眺めながら首を傾げる。
「そ、そのはずだよ!? ここは安全地帯で、だからセーフハウスがあって、SBなら近付いてこれないはずなのに……!?」
エクスプローラーの常識を覆す光景に、僕は瞠目するしかない。
「それに、どうしてあんなトレインが……!?」
現在のチョコレート・マウンテンはマウンテンロードやイエティがそこら中を闊歩する異常事態ではあるが、通常のSBはエクスプローラーが近付かなければ湧出しないはずだ。実際、僕達がセーフハウスに辿り着くまでは従来通りに具現化していた。
「も、もしかしなくとも、あのデカブツ達がトリガーになってるんじゃないの? アイツらが歩き回ってSBを出しまくって、連れて来ているんじゃ……」
フリムが語尾を浮かせて、生唾を嚥下する。
長蛇の列を成すSBの中で、機械型でサイズの大きいマウンテンロードの姿は非常に目立つ。フリムの言う通り、その何体かが群れの――トレインの先頭を走っていた。
「これは大変だ。どうするんだい、マイマスター? 逃げるか、戦うか。まぁ、逃げても追いかけてきそうではあるけどね」
僕の移動にくっついてきたエイジャの立体映像が、からかうように問い掛けてくる。
「そんなの……!」
逃げるに決まっている、と言いかけて思い止まる。
僕達の背後には明るいイエローのセーフハウス。
ここはただの安全地帯ではない。先達のエクスプローラーが長い時間をかけて、汗水流して築き上げてきた憩いの場だ。ここがなくなると、チョコレート・マウンテンにおける今後のエクスプロールに大きな支障をきたす。
「ふむ……確かに、逃げ場はないの。ラト、他にもこのような場所はあるのか?」
前代未聞の緊急事態に慌てる僕と打って変わって、ハヌは冷静そのものだ。葛藤する僕に、現実的な質問をする。
「あ、あるけど、ここからは多分遠い……かも?」
「さようか。エイジャ、ここより逃れたとして、あやつらは次の安全地帯まで追ってくると思うか?」
今度はエイジャに質問を繰り出すハヌ。場所は違えどエイジャは遺跡の統括AIだ。
「多分、追ってくるだろうね。通常のSBはともかく、おかしくなったマウンテンロードやイエティは人間を標的にしているようだ。そうでもなければ、ここまでやって来ないだろうしね」
エイジャは嘘がつけない。『多分』や『だろう』と断言こそしていないが、遺跡の統括AIである彼の意見には信憑性がある。
「ちょっとー、マジで勘弁しなさいよね……あれぐらいの大群見てると、アシュリーと二人で踏ん張った時のこと思い出してゲンナリしちゃうじゃない」
フリムが溜息交じりに言うのは、おそらく『開かずの階層』でドラゴン型SBの群れを相手にした時のことだろう。
思えば、あの時はただでさえフロアマスターを少人数で倒さないといけなかったのに、際限なく召喚される飛竜と駆竜の群れとも戦わねばならなかったのだ。
当時の苦労を思えば、この程度のトレインはまだマシ――かもしれない。多分、きっと、メイビー。
「ご安心を。今はあの時と違い、小竜姫と私がいます。アシュリーさんの不在を補って余りあるかと」
抱っこしていたムーンを下に降ろし、フワフワした銀髪を何気ない手付きで撫でながら、ロゼさんが淡々と豪語する。
あの時の戦いには元『蒼き紅炎の騎士団』の新人であるニエベスも参加していたのだけど、誰も話題に出さない。忘れているのか、それとも思い出す必要がないと思っているのか。
「――と彼女らは言っているけれど、先程の『そんなの……』の続きはどうなるんだい、マイマスター?」
エイジャが微笑みながら、僕を促す。
「ラト」
「ラグさん」
「ハルト」
さらにはハヌ、ロゼさん、フリムが決断を求めるように僕を呼んだ。
もはや、覚悟を決める他なかった。
「……うん、戦おう。逃げても無駄なら、ここで全部倒すしかない。何より……遺跡の安全地帯を壊させるわけにはいかないから」
遺跡の探検は、人類の命題だ。その橋頭堡の一つであるここを、みすみす失わせるわけにはいかなかった。
『GGGGGGGGGRRRRRRRRAAAAAAAAA!!』『WWWWWWWWOOOOOOOOOOOOOOOWWWWWWWWW!!』『UUUUUUUUURRRRRRRRRRRRYYYYYYYYYYYYY!!』『VVVVVVVVVVVRRRRRRRRRRRRRRAAAAAAAAAAAAA!!』
地鳴りに続き、ついにSBのあげる電子音の咆哮までもが聞こえる距離まで近付いてきた。
敵の戦力はざっと見積もっても、マウンテンロード級が五体以上、イエティ級が十体以上、通常のSBが百体以上だ。
常識的に考えて、たった四人で戦う規模ではない。
「僭越ながら、君達なら大丈夫だと断言しよう。なにせオレの用意したゲームをクリアしたのだからね。格段にレベルアップしているはずさ。ここは存分にその力を揮ってくれたまえ」
自分は戦闘に参加しないエイジャが、大きな顔でそう嘯く。
当然のことながら、僕も含めて全員が彼の言葉を無視した。押し寄せる激闘の予感に、誰もが余計なエネルギーの浪費を嫌ったのだ。
「――マウンテンロード級は僕が受け持ちます! ロゼさんはイエティ級を! フリムは雑魚の掃討と、ハヌとムーンの護衛をお願い! ハヌはいつも通り術式の詠唱を!」
「了解しました」
「オッケー!」
「任せよ!」
即座に指示を飛ばすと、三者三様の応答が返ってきた。
僕はハヌに〈シリーウォーク〉を発動させながら、彼女を空中に降ろす。ストレージから黒玄と白虎を取り出し、それぞれ光刃形態で抜刀した。
すぅ、と僕は息を吸い、
「それじゃ――戦闘開始っ!」
斯くして、戦いの火蓋が切られたのだった。




