●45 幕間・復活劇 1
言わずもがな、このまま黙っているハヌムーンではない。
当然だ。
無論だ。
もちろんだ。
怒らぬ理由などなく、我慢する意味などなく、彼女を止める者など一人もいなかった。
彼女自身と、未だ意識の戻らぬロゼとフリムを乗せた〝酉の式〟がゆっくりと降下し、ゴルサウア・ヒュドラだった砂山の頂上へ立つ少年の元に身を寄せる。
「…………」
スミレ色のライトワイヤーで編まれた鳳の背に行儀よく座ったハヌムーンは、やや俯き、陽光を七色に反射する銀髪で顔にカーテンをかけていた。
「ア――――――――?」
頭上から降りてくる〝酉の式〟に、少年が反応した。顔を上げ、降下してくる鳳に黒く染まった双眸を向ける。
顔全体をびっしりと埋め尽くす漆黒の幾何学模様もそうだが、それ以上に相対した人間を驚かせるのはその両眼だ。瞳孔も白目も関係なく、全てが真っ黒に染まっている。見ようによっては底の見えない深い穴が空いているように見えて、ひどく不気味だ。
やがてハヌムーンを乗せた鳳は、少年と少女の目線の高さが同じ程度になったところで静止した。
黒く染まった少年はやはり、鳳の背に倒れ伏したロゼとフリムの姿を見ても何の反応も示さない。まるで三人のことなど知らないといった顔で。
だが、そのような些事などハヌムーンには関係なかった。
少年の様子は見るからにおかしいが、それがどうしたというのだ。結局のところ少年はゴルサウア・ヒュドラを見事に崩壊させた。つまり、自分達を助けに来たのだ。そこに関してだけは間違いがない。
故に。
ハヌムーンの腹の中には渦を巻く憤怒があり、そして目の前には、この燃え上がる瞋恚をぶつける対象がいる。
それが全てであったし、それだけで充分だった。
すぅ、と幼い少女が大きく息を吸った。
次の瞬間、フロアマスターの咆哮にも負けない怒号が轟いた。
「――っこの、ばかものがぁあああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」
気絶しているはずのロゼとフリムの体が、それでも微かに、ピクッ、と反応するほどの音量だった。
気のせいか、あるいは風を司る現人神が故か、怒声とともに突風が巻き起こり、少年の前髪を大きく翻させた。
しかし。
「ア――――――――?」
突然の罵声にも動じた様子はなく、少年は視線も定かではない顔をハヌムーンに向け、小首を傾げた。
刹那、蒼と金のヘテロクロミアに、ゴルサウアと戦っていた時ですらこうはならなかったであろう程の剣呑な輝きが、紫電のごとく迸った。
「ラトぉ――――――――っっっ!!! おぬしは妾の友達であろうがっ! 唯一無二の大親友であろうがっっ!! そのおぬしが妾を無視するとは一体どういう了見じゃあぁああああああああっっっ!!!」
この怒鳴り声に比べれば、大砲による連続砲撃の方がまだ静かであったろう。
かつてないほど激昂するハヌムーンの赫怒の炎は、いま再びプラズマの火炎球を呼び出さんばかりに猛り狂っていた。
青筋を立てて怒鳴り散らす少女を、正気を失った少年はどう思ったのか。
「ア――――――――」
やはり平坦な声を出すと、右手に握った長巻を無造作に振り上げた。
そのままハヌムーンに向かって袈裟斬りの軌道で振り下ろす。
漆黒の刀身がハヌムーンの左肩から入り、上半身を斜めに裂きながら右脇腹を抜け、少女の矮躯が二つに別たれ――
たりはしなかった。
少年のHPがゼロで〝失格〟になっており、少女がまだプレイヤーとして生きていたから、ではなく。
長巻の刀身がハヌムーンに触れる直前で、少年の腕が凍り付いたように静止したのだ。
「……ア――――?」
不可解な結果に、誰よりも少年自身が違和感を覚えているようだった。自ら止めてしまった腕に双眸を向け、解せない、といった風な声音を漏らす。
カタカタカタ、と少年の右腕が小刻みに震えていた。まるで少年の意志に、肉体が反抗するかのごとく。あるいは少年の中にいる『別の意思』が、少女を斬ることを拒絶するかのように。
「…………」
ハヌムーンは当たり前ながら、自らへ迫った漆黒の刃に顔色一つ変えなかった。少年が自分を斬るわけがないと、頭から信じていたが故に。
むしろ動じて慌てるどころか、少女はその怒りの大きさを更に増していた。
「――ふんっっっっっ!!!!!」
憤怒をありありと示す気炎とともに、ハヌムーンは細い腕を振った。顔の近くまできていた少年の右手を無遠慮に払いのける。バチンッ、と静電気が弾けるような鋭い音が響いた。
「アっ」
思わぬ威力に、少年の右腕が長巻を持ったまま外へと逃げる。
熟練の戦士でなくとも、その姿が隙だらけたというのはすぐにわかった。
「ラト、おぬし、妾を無視したばかりか、手を上げようとしたな……?」
先程までの怒号とは打って変わって、いっそ淑やかな声がハヌムーンの唇から漏れ出た。まなじりを決していた表情も、激情が反転したかのごとく穏やかな凪のそれへと変化していた。
にっこり、と可憐な花のように微笑むハヌムーン。
だがしかし、それが嵐の前の静けさでしかないのは、もはや照々《しょうしょう》たる事実であった。
「この――痴れ者が」
普通の音量で言ったハヌムーンが、氷の表情を浮かべる。〝酉の式〟をずいと前に出し、己が身を少年の懐へと潜り込ませた。
手を伸ばせば届く、そんな彼我の距離。
ハヌムーンはその細い右腕を、大きく背後へと振りかぶり、次の瞬間、電光石火の平手打ちを少年の顔へと見舞った。
たとえ革の鞭であっても、ここまで見事な音はそうそう鳴るまい。
それほど小気味よい音が、真っ直ぐ蒼穹へと吸い込まれていった。




