ずる賢い狼と可憐な小うさぎの、顛末 2
「『隊長代理の世話係』、ねぇ……」
結局、押しきられるままにマラカイルさんの執務室にやってきたわたしは、彼の楽しげな笑みに迎えられた。
人好きのする柔和な顔立ちをしているのに、そんな顔をすると妙に意地が悪そうに見える。事実、とても意地悪な人だけれど。
「押しつけられた? というより、生贄かな」
「わかっているならちゃんと休んでください……!」
声を荒らげながらも、執務机の片隅に音を立てないようにティーカップを置く。
隊長さんはコーヒー党でブラック派、マラカイルさんは紅茶党で、少し濃いめに淹れて砂糖をスプーン半分だけ。上司の好みを覚えるのも、使用人にとっては大事な仕事だ。
マラカイルさんはティーカップにちらりと目を向けてから、手に持っていた書類をヒラヒラと揺らした。
「オレだって休みたいのは山々なんだけどね、ひとまず軌道に乗るまでは多少の無茶も必要なんだよ」
たしかに、執務机の上には絶妙なバランスで大量の書類が積まれている。今日明日で終わる分量には見えない。
隊長さんのいない今、マラカイルさんの仕事が増えるのはしょうがないことだ。
特に今回のように不測の事態があれば、そのしわ寄せは二倍三倍になって彼の肩にのしかかる。
そうわかってはいるけれど、睡眠時間すら削っている現状にはさすがに物申したくなってしまう。
「……今までは、もっとちゃんと休みを取っていたじゃないですか」
「今回は普通の休暇とはわけが違うからね」
そう言って面倒くさそうにため息をつくマラカイルさんに、わたしは首をかしげる。
魔物の襲来があったこと以外にも、今までと異なる部分があるんだろうか。
「何しろ、隊長がいつ帰ってくるかがわからない。期限がわかってればその間だけ適当にお茶を濁すことができるけど、今回はまさに『隊長と同じだけ』働かなきゃいけないんだ。正確には、隊長と小隊長の仕事、両方をオレ一人でこなさなきゃダメってことだね」
「そ、そんなこと……できるんですか?」
「できるかどうかじゃなくて、やらなきゃこの砦が機能しなくなるだけだ」
口を動かしながらも、マラカイルさんは書類から目を離さない。
素早くペンを走らせて、判を押し、決裁済みの書類を重ねていく。一連の動作には一切の無駄がない。
休みを取ってもらうために来たのに、マラカイルさんに手を止める様子はない。
それならせめて仕事の邪魔をしないように黙っていたほうがいいんだろうか。
逡巡するわたしを軽く一瞥して、マラカイルさんはふっと笑みをこぼす。
「そんな不安そうな顔しなくても、オレだって別に全部一人で抱え込んでるわけじゃないから安心して。ちゃんと他の小隊長や自分の部下にも仕事回してるよ」
それを聞いてわたしはほっと息をもらす。
そうだ、マラカイルさんの優秀さは彼自身の能力的なものだけじゃない。隊長さんの補佐として、いつも周りの人間に効率よく仕事を割り振っている。
最小限の手間で、最大限の結果を。
隊長さんがマラカイルさんを重宝するのは、そういった彼の采配に信頼を置いているからだろう。
「ただまあ、ハニーナも知ってのとおり、魔物の件やらがあったからね。不測の事態まで重なれば、さすがのオレもちょーっとしんどいかな」
話の着地点が少し変わったかと思うと、マラカイルさんはわたしを見上げてニヤリと笑った。
まるで、獲物を前にして舌なめずりをする肉食獣のようだ。
彼がこんな顔をするときは碌な目にあわないと、わたしは今までの経験上知っている。
……とても、嫌な予感がする。
「でもって、そんなお疲れな狼の目の前に差し出されたのが君ってわけ」
反射的に一歩後ずさったわたしを追いかけるように、マラカイルさんは小さな音を立てて席を立つ。
図らずも仕事の手を止めさせるという当初の目的は達成できたけれど、これは何か違う気がする。
いや、むしろ“生贄”としては正しいと言えなくもないのだろうか。
押しつけられたものとはいえ仕事を放り出すわけにはいけない。理性はそう告げるのに、身体は本能的に逃げを打とうとする。
じりじりと後ろに下がるわたしに、マラカイルさんは一歩一歩距離を詰めてくる。とてもゆったりとした足取りが、逆に恐ろしく感じるのはなぜだろう。
気づけば壁際まで追いつめられていたわたしは、うつむいてぎゅっと目をつぶった。まぶたの裏が暗くなって、マラカイルさんの影が自分にかかるほどすぐ傍にいることを知る。
「おいしそうな小うさぎが自分から縄張りに飛び込んできたらさ、少しくらい味見したくなってもしょうがないと思わない?」
「しょ、しょうがなくないです……!」
「そう? 疲れてる上に生殺し食らうなんて、かわいそうだと思わない?」
「つ、疲れてるなら、休んでください……っ」
震える声で言い返しても、マラカイルさんには痛くもかゆくもないだろう。
閉ざされた視界の中、彼のかすかな息遣いが聞こえる。
すっと頬に触れた指先の冷たさに、出そうになった悲鳴を飲み込む。
胸がぎゅうっと苦しくなって、呼吸の仕方すらわからなくなってしまいそうだ。
「お子様なハニーナにはまだわからないかもしれないけど、男の疲れを一番に癒やすのは乙女の柔肌だよ。ほら、今もおいしそうに色づいてる」
「っ……!」
産毛をなぞるように触れられて、反射的にビクッと肩が跳ねる。
マラカイルさんの手を冷たく感じるのは、わたしの頬が熱くなっているせいもあるんだろう。
気づきたくなかったことを指摘する彼は、本当に意地悪だ。
いっぱいいっぱいになりながらも、目に涙をためながらキッと睨みつける。
わたしの反応にマラカイルさんはにんまりと口の端を上げて――むにゅっとわたしの頬を遠慮なくつまんでみせた。
「ははっ、変な顔。最初からそんなんじゃ世話係なんて無理でしょ。使用人頭だって鬼じゃないんだから、泣きつけばきっと取り消してくれるよ」
「……っ、……」
マラカイルさんは堪えきれないとばかりに明るい笑い声を上げる。
また、からかわれた……!
悔しくて恥ずかしくて、今すぐ霞になって消えたくなる。
はくはくと口を開けては閉じる。いくらでも言いたいことはあるのに、何も言葉としてまとまらずに口の中で消えていく。
「お、お茶、淹れ直してきます……!」
とうとう限界がやってきて、わたしはマラカイルさんの執務室から脱兎のごとく逃げ出した。慌てすぎて机の上のティーカップを回収することもできなかった。
やっぱり、やっぱりマラカイルさんはとても意地悪な人だ。
優しい人だと、過去に一度でも信じ込んでいた自分が馬鹿みたいで、情けなくて、涙が出そうになる。
あんな人のためになんて絶対泣いてやらないけど。
『わかってないみたいだから教えてあげるけど、オレだって狼の一員だよ。気をつけてね、腹を空かせた狼に“待て”は通用しないから』
この砦に来てすぐの頃、マラカイルさん自身に言われた言葉。
ええ、本当にそう。彼といると何度だって思い知らされる。
彼にとってわたしは獲物で、玩具。気を抜いたら頭からぺろりと食べられてしまいそう。
そしてきっとそのあとは捨て置かれるのだ。捕食された動物の死骸のように。
避けようとしても距離を詰めてきて、冗談めかして甘い言葉を口にする。
常に余裕綽々で崩れない笑顔が苦手だ。何を考えているのかわからない瞳が苦手だ。
……そっちから近づいてくる癖に、決して本心を見せようとはしてくれない彼が、きらいだ。
ミルト・ヒュー・マラカイル。
わたしがこの砦に来て、隊長さんよりも使用人頭さんよりも早く覚えた名前。
ほんの一瞬だけ、淡い憧れを持った人。
今のわたしの、唯一きらいなひと。




