はじまりの物語
締めくくりに、とある少女の話をしよう。
それは何百年か昔の物語だ。
もはや名前すら伝わっていない、誰の記憶にも残っていない少女の物語だ。
彼女はどこにでもいる普通の少女として生まれた。
健やかに育ち、美しく成長し、そして彼女はわずか十六歳で魔術学園に入学した。
普通、二十歳を過ぎなければ合格するのが難しいと言われる入学試験を一発でクリアしたのだから、間違いなく天才だったのだろう。
そこで一人の青年と出会った。
彼の名もまた伝わっていない。
なぜなら彼は少女とは違い、凡庸な男だった。
二十歳で入学したということは、それなりの才能を持っていたのは確かだが、しかし、その程度の者はいくらでもいる。
二人は親友となった。
共に草むらに座り、流れる雲を見ているだけでも楽しいと思えるほどに。
あるいは、それ以上の感情があったのかも知れない。
しかし、どちらも奥手だったのか、それ以上踏み込むことはなく、ただゆっくりとした時間を過ごしていた。
「私が先に卒業しちゃったわね」
当然のことだ。少女は天才だったのだから。
「悔しいな。けれど、ボクだってすぐに追いつくさ。待っていてくれ」
青年は魔術学園を去る少女へ笑って宣言した。
二人には語り合う夢がった。
いや、正確には青年が語り始めた夢であり、少女はそれを素敵だと思い寄り添ったのだ。
「一緒に古書店を作ろう。主に魔導書を扱う魔導古書店だ」
「あなたなら出来るわよ、きっと」
「ボクじゃない。ボクとキミでやるのさ」
店は小さくてもいい。蔵書は二千冊もあれば十分だ。
一冊一冊を大切に扱おう。
胸を張ってオススメできる本だけを棚に並べたい。
店の周りには結界が必要ね。だって魔術師じゃない人が来たら大変だもの。
夜は強い結界を張りましょう。だって、ぐっすり眠りたいもの。
朝に結界を弱めましょう。そこそこの魔術師なら来店できるくらいまで。
そうやって、幾度も幾度も語り合った。
しかし、自分の店を持つにはお金が必要だろう。
てっとり早く稼ぐには、ダンジョン探索でお宝を見つければいい。
もしかしたら、貴重な魔導書も出てくるかもしれない。
とはいえ、いくら少女が天才でも、卒業したばかりの彼女がダンジョンに潜るのは無謀だった。
潜ってから気が付いた。
真夜中、満身創痍で街まで帰り着き、大通りで力尽きて倒れてしまう。
普通なら、死ぬしかなかった。
日付が変わろうという時間に通りかかる者など皆無。
よしんば誰かが見つけてくれたとしても、手当てして助かるような傷ではなかった。
だが、少女は次の日、目を覚ました。
それも、ちゃんとした部屋の中。ふかふかのベッドの上で。
体に痛みはない。
打撲も裂傷も骨折も、全てが完治している。
驚いて身を起こし、そして窓から外を見ると、そこには森が広がっていた。
「ああ、気が付いたのじゃな。よかった。助けを求める思念を辿って森の外に出てみれば、年端もいかぬ少女が傷だらけで倒れているなど心臓に悪い。見たところ魔術師のようじゃが、何があった?」
少女を助けてくれたのは、黒い髪の美しい女性だった。
女性は自らを『クララメラ』と名乗った。
それは女神の名前。
この生存領域を守護する者の名前。
ああ、確かにクララメラ様は黒髪の女性だと伝え聞いている。
「あなたがクララメラ様……? ではここは……」
街の中心にある森。
その奥に女神が住まう家があるのは常識だ。
しかし、敬うべき女神に用事もないのに近づくなど、不敬の極みだいうのも共通認識。
「そう身構えることはない。ワシなどただの引きこもりの女。生存領域の維持をする意外は、ただボンヤリとしているだけの怠け者じゃよ。敬うだの、信仰だの、まったく無用じゃ」
「はぁ……」
押し寄せる渾沌領域から自分たちを守ってくれる存在。
悠久の刻を過ごす女神。
そんなお方が気さくに、自分に語りかけている。
あまりの状況に少女の理解は追いつかない。
ただポカンとした顔を浮かべるだけ。
「ふむ……それにしてもお前。なかなかの才能があるな。どうじゃ、ワシに弟子入りしてみぬか? こんな場所に引きこもっていると時間を持て余す。哀れなワシのためと思って、暇つぶしに付き合っておくれ」
そして少女は女神の弟子となった。
たった一年後には、誰も及ばぬほどの魔力と技術を有するまでになった。
久しぶりに再会した青年は、少女を見て瞠目する。
「凄いな。クララメラ様のところに弟子入りしたとは聞いていたけど、まさかここまでの魔術師になっているなんて……もう、俺の夢に付き合ってくれとは言えないな」
「あらあら。何を言っているのよ。二人の夢でしょう? あなただって立派に卒業したんでしょう? ここから始まるのよ。もうクララメラ様には言ってあるの。あなたが卒業したら、一緒に旅に出るって。さあ、行きましょう」
まずは冒険。各地にあるダンジョンに潜り、資金を稼ぐ。
いつか二人の古書店を作るために――。
ところが、ある日突然、異変が起きた。国全体を揺るがす異変だった。
人類を守ってくれるはずの女神の結界。樹の特異点から噴き出すマナを使って永久に維持され続けるはずの生存領域。
それが揺らいだのだ。
地震が大地を揺らす。
雲一つない空から落雷が落ちた。
川から有り得ない量の水が溢れ出す。
まだ異常は軽微。天変地異に違いはないが〝人類が滅びる〟ほどではない。
しかし、それでも、これは。明らかに滅びの前兆である。
一部の魔術師は気付いていた。
女神の結界に亀裂が走っている、と。
渾沌領域が生存領域を侵食している、と。
「クララメラ様、クララメラ様!」
少女は真っ先に森の家に飛び込んだ。
青年が追いつくのを待っている余裕はなかった。
自分の師に何が起きたのか確かめるために、とにかく全速力で。
「ああ、来てくれたのか……間に合ってよかった。本当なら、お前たちにはもう少し時間をやりたかったのじゃが……ワシは不甲斐ない。ご覧のとおり、もう限界のようじゃ」
女神は家の中に倒れていた。
あの艶やかだった漆黒の髪は真っ白になっていた。少女は最初、それが自分の師だと分からなかったほどだった。
「クララメラ様、これは一体!?」
「ああ、泣くな、我が弟子よ。ワシはお前に泣いてもらえるほどの者ではない……まあ、聞け。これからワシが語る話を聞けば、お前はワシを怨むだろう。そして逃げ出すかもしれない。いいぞ、逃げても。ろくな話ではないから……」
「何を、言って……」
少女の戸惑いをよそに女神は語り始めた。
それは恐るべき世界の姿だった。
耳を塞ぎたくなるほどおぞましい真実だった。
「永遠に生き続ける女神。何千年も、何万年も前から人類を守り続ける女神。そう言い伝えられているじゃろ? ああ、つい五百年前まではワシもそれを信じていた……しかし違うのじゃ。ワシは元々はお前と同じく、人間だったのじゃよ。先代のクララメラから役目と力を引き継ぐまでは」
女神は代替わりする。
その代替わりを人間は観測できない。
別の者に代わっても、元よりそうだったと記憶が改竄されてしまう。
かつて女神だった者を覚えているものは誰もいない。
そして新たに女神になった者もまた、人間だった頃の存在が消えてしまう。
誰も彼もが忘れてしまうのだ。
それが家族でも。恋人でも。親友でも。
どれほど大切に想っていても。
女神になった途端、かつて人間だったその者のことを忘れてしまう。
絶対に覆らない。
それは世界に刻まれたシステムだから。
何万年も、何代も、ずっとくり返されてきた儀式。
止めてしまえば、その生存領域は滅び去る。
「私はもう駄目だ……五百年で磨り減った……もう、これ以上〝生きる〟ということに耐えられぬのじゃ。女神になった瞬間、皆がワシを忘れてしまった。女神になってから知り合った者も、ワシを置いて寿命を全うしていく……まだしばらく持たせるつもりだったのじゃがなぁ……情けないワシを笑ってくれ」
少女の腕の中で、女神の体が崩壊していった。
つま先からパラリパラリと砂になっていく。
その魔力は見る見る薄くなっていく。
「さて、我が弟子よ。もう察しているじゃろう。お前を弟子にしたのは、次の女神にするためじゃ。受けるか否かは任せる。これは経験談じゃが、碌でもないぞ。耐えられぬぞ。はっきり言って、お勧めできぬ。じゃが、今すぐ決めてくれ。もう時間がない」
女神の体は既に半ばまで砕けていた。
ほどなくして消えてしまうだろう。
そして、この生存領域は渾沌領域に飲み込まれるだろう。
ならば無論、国は滅びる。
皆が死んでしまう。
少女も。故郷に残してきた両親も。大切なあの青年も。
選択肢など、初めからなかった。
ゆえに少女は女神となり、クララメラの名を継いだ。
それを見届けた先代のクララメラは、安堵したように笑い、それから「済まない」と呟き涙を流して、完全にこの世から消えた。
あっけなく。痕跡も残さず。
新しいクララメラは、習ってもいないのに生存領域を維持する方法を理解していた。
この森の中に樹の特異点があり、そこからマナが噴き出している。
それを女神の力で制御してやればいいのだ。
簡単な話。
別に二十四時間ずっと続けなければならないというわけでもない。
三日くらいなら森から離れてもいいだろう。
街に出て人々と話すのも可能だ。
あまり遠出は出来ないが、耐えられないというほどではない。
「……私のことを、誰も覚えていない? そんな、嘘でしょう?」
クララメラは森を出て、街を歩いた。
そこは見慣れた建物、見慣れた道が続く、住み慣れた街。
クララメラの力で生存領域は再び安定し、天変地異は収まった。
だから、今までと同じ平穏がある。
なのに、何かが違う。
行きつけの喫茶店に行き、親しかったはずの店員と顔を合わせても、そしらぬ対応。
かと思えば、別の店員がクララメラの髪を見て、目を丸くする。
「水色の髪にその美貌……もしやクララメラ様では!?」
先代のクララメラは黒髪だった。
なのに、数時間で人々の記憶が塗り替えられていた。
魔術学園に行って恩師に会ってみた。
女神クララメラとして歓迎された。少女のことは誰も覚えていなかった。
実家まで飛んでいった。どなたですか、と言われてしまった。
もう、人間だった自分のことを誰も覚えていないのだ。
先代のクララメラが消えたように、少女はこの世界から消えてしまったのだ。
――私は誰?
あるのは女神クララメラという記号。
次の誰かに引き継ぐまで、自分がその役目を演じる。
「それでも、彼なら……!」
もしかしたら自分のことを覚えているかも知れない。
そんなはずがないのに。
かつて少女だったクララメラは縋ってしまう。
そして親しいあの青年を探して街を走る。
幸か不幸か、見つからない。
どうしてだろう?
私が突然消えてしまって、混乱したりしていないのか?
彼だって私を探していてもよさそうなのに。
と、そこまで考えて。
クララメラは恐ろしいことに気が付いた。
彼はきっと、少女が消えたということすら認識していない。
一緒に古書店を作ろうと誓った相手がいたという記憶そのものが消えている。
なにせ少女の両親は、自分たちに娘がいたということを忘れていたのだから。
今度こそ。
今度こそ絶望が襲ってくる。
先代は、これに五百年も耐えたのか。
無理だ。
私には無理だ。
今すぐ朽ち果ててしまいたい。
ああ、けれども。自分が消えてしまったら、彼が死んでしまう。
もう何も覚えていないとしても、守り続けるのだ。
そのために女神になったのだろうと自分を奮い立たせる。
そして一年が経った頃。
真夜中に彼の声が聞こえたような気がして、クララメラは跳ね起きた。
それは助けを求める声だった。
寝間着の上にカーディガンを羽織って大通りに出てみれば、そこには血まみれの青年が倒れていた。
まさかと思い抱き起こせば、一年ぶりに見る彼の顔がそこにあった。
どうしてこんなことに――とは考えなかった。
なぜなら自分も全く同じ状況で先代に拾われている。
きっと、自分と似たようなことをして、命からがら街まで辿り着いたのだろう。
抱き上げて、森の家まで運び、回復魔術をかけて――そして次の日。
目を覚ました彼は、案の定、ダンジョンに潜ってトラップに引っかかり死にかけたのだと言う。
「いやぁ、まさかクララメラ様に助けて頂けるとは……噂どおり、お美しい!」
案の定、彼は少女のことを覚えていなかった。
彼は色々なことを話してくれた。
いつか魔導古書店を開きたいこと。
その資金集めのためにダンジョンに潜っていること。
店は小さくてもいい。蔵書は二千冊もあれば十分。
一冊一冊を大切に扱いたい。
胸を張ってオススメできる本だけを棚に並べたい。
夜は強い結界を張って、人を寄せ付けない。
朝には結界を弱めて、魔術師の客だけが来店できるようにする。
知っている。クララメラは彼よりも詳しく語る自信がある。
だって、二人で作った計画だから。
何度も何度も語り合ったから。
「魔導古書店。それ面白いわね。もし良かったら、この家の一階を使ってみない? 私一人だとこの家は大きいし」
「え!? いや、ありがたい話ですが……そんなクララメラ様の家に古書店を開くなんて、罰当たりですよ!」
「私がいいって言ってるのに、誰が罰を当てるのよ。何なら、私も手伝うわよ。どうせ暇だし」
お願い。断らないで。
覚えてなくてもいいから、一緒にあの日の約束を果たしましょう。
せめてそのくらい叶えないと、私、消えてしまいそうなのよ――。
そんなクララメラの願いが伝わったわけではないだろうが、しかし彼は頷いてくれた。
当然の話だ。
彼は心の底から古書店を開きたがっていたのだから。
別にクララメラと一緒にいたかったわけではない。
分かっている。
分かっているが、それでも嬉しかったのだ。
そして二人は魔導古書店の開店準備を始める。
名前は『アジール』に決まった。
「アジールは聖域という意味です。女神様が住む場所なのですから、相応しいと思うのですが」
「大げさねぇ。けれど、あなたの店なんだから、好きにしなさいな」
かつて二人で語り合った計画を、もう一度語り合い、実現していく。
それは素敵な時間だった。
クララメラはかつて少女だった頃に戻ったような気持ちを味わえた。
彼の中に〝少女〟が残っていないとしても、いいのだ。
もう一度、積み上げていく。
かつて少女だったクララメラは、もう一度、彼と親友になり、そして恋に落ちていく。
――時が止まればいいのに。
そう思えるほどの時間が流れていく。
流れてしまうのだ。
クララメラは女神。もう歳を取らない。
しかし彼は違う。彼は人間。
――時よ止まって。
止まらない。止められない。
彼は老いていく。
彼は朽ちていく。
「ありがとう、クララメラ様。あなたのおかげで私は夢を実現し、何一つ思い残すことなく死ぬことが出来ます。本当ありがとう……」
もう起き上がることも出来なくなった彼は、幸せそうに微笑んでいた。
クララメラはその手を握り、女神としての威厳も何もなく、泣いて懇願する。
「お願い、私を置いていかないで」
その叫びは届かなかった。
彼はもう、死んでいた。
共に語り合い、共に作った魔導古書店アジール。
そこにクララメラだけが取り残された。
この店だけが、彼が生きた証。クララメラがかつて少女だった証。
だから消したりはしない。守ってみせる。
ああ、けれども。
たった一人で耐えられるのだろうか。
私はこのまま永遠に――。
△
「……私、また眠っていたのね」
目を覚ましたクララメラは大きなアクビをしながら背を伸ばす。
いつの間にか夜になっていた。
アジールの店内は暗く、当然、客は誰もいない。
もしかしたらクララメラが寝ている間に誰か来ていたかも知れないが……しかし、この店がこういう状態だというのは、この街の魔術師なら誰もが知っている。
女神が店長をしている古書店。
いまやアジールにはそれ以外の意味はない。
けれども、仕方がないのだ。
クララメラはもう、この世界に希望を感じることが出来ない。
眠りについて、夢を見て、あの頃の記憶に浸ることにしか価値を見いだせない。
「消えてしまいたい……」
もう何万回呟いたか分からない言葉をポツリと漏らす。
それは闇の中に溶けていく。
自分も一緒に溶けてしまいたい。
「先代は五百年耐えたのね……凄いわ。私は駄目。三百年でもう限界……どうしましょう。ここで朽ち果てたら、この国が滅びてしまうというのに」
後継者はまだ見つからない。探す気力もない。
このままでは数年以内に終わってしまう。
それは、駄目だ。
駄目だと分かっている。
しかし、どうしろと言うのだ。
億劫すぎて立ち上がることすらしたくない。
また眠りにつこう。
きっと、それが一番、終末の時を先延ばしに出来るはずだ。
そう考え、クララメラがカウンターに突っ伏そうとした瞬間。
声が聞こえた。赤ん坊の泣き声だった。
「……?」
こんな森の奥で。それも二重結界に包まれたアジールで、赤ん坊の声?
有り得ない。が、現にこうして聞こえる。
流石に興味を引かれたクララメラは、十数時間ぶりに立ち上がり、店の扉を開いた。
月明かりの下、しんしんと雪が降り積もっている。
そこでクララメラは一人の赤ん坊を拾った。
生まれたばかりの乳児。
されど両手に謎の紋章を持ち、信じがたいほどの魔力を有する男の子。
正体不明の子供。恐ろしいまでに世界からズレた存在。
しかしそれでも、赤ん坊であることに変わりはなく、誰かが育ててあげなければ死んでしまうだろう。
見捨てることなんて出来なかった。
自分の中にまだそういう感情が残っていることに驚きつつ、クララメラは初めての子育てを経験する。
そして彼が大きくなっていくを見ているうちに、もう少しだけ生きてもいいかなと、ほんの少しだけ思うようになった。
あと少しだけ。
この子が大きくなるまで。
そうやって過ごしているうちに、赤ん坊は少年になり、クララメラに代わって店で働くようになり、お客さんが増えて、アジールは賑やかになり――。
あと少しだけ。もうちょっと。
この楽しい時間が続くなら、生きていたいな。
クララメラの過去は連載開始前から決めていましたが、書くかどうかは未定でした。
しかし書いておかないと後悔するかなぁと思い、こうして吐き出しました。
これにて魔導古書店は完結です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
(書籍版の二巻もそのうち出ますよ!)




