92 月へ
ライトクリスタルを手に入れてから三日が経った。
いまだ次元回廊を開いていない。
マオの風邪というトラブルもあったが、それは大した問題ではなかった。
重要なのは、どこで次元回廊を開くか、ということ。
なにせテルタンの書いた本を信じるなら、次元回廊を開くには巨大な力と力の衝突が必要らしいのだ。
それはつまり、タクトの右手と左手の紋章を解放し、全力でぶつけるということである。
巻き起こる破壊の規模は、容易に想像がつく。
かつて地球でタクトと魔王が戦ったとき、高度二万メートルという場所だったにもかかわらず、爆風と熱波が地表に届き、県が一つ焼け野原になった。
それと同じことが起きてしまうのだ。
生存領域のどこでやっても、トゥサラガ王国に壊滅的被害が出てしまう。
では混沌領域ならどうかといえば、これもまた危険だった。
なぜなら混沌領域ですら完全な無人ではないからだ。
行商旅団はその筆頭。
その他にも、腕に覚えのある魔術師が自力で飛行していたりする。
並の魔術儀式なら、目視で人がいないことを確認して行なえばよいが……紋章をぶつけるというのは地平線の向こう側まで被害が及ぶ。
タクトは別に聖人君子を気取るつもりはサラサラない。
しかし、自分の目的のために他人を巻き込んで命を奪うような真似は駄目だろう。
物事には限度というものがあるのだ。
「どうしたものかなぁ……」
営業時間が過ぎたあとも、タクトはカウンターに肘をついて考え込む。
するとそこにマオがやってきて、文句を言い出した。
「にゃにゃ。タクト、あのピカピカ光るクリスタルはいつまで部屋に置いておくにゃ? うっとうしいにゃ、気になって眠れないにゃ」
「何だよ、マオ。最初は綺麗だって喜んでたくせに」
「もう飽きちゃったにゃん」
飽きっぽい猫耳幼女である。
とはいえ、マオの言っていることは正しい。
なにせライトクリスタルは常に光り続けている。
一見ロマンチックな光だが、真夜中になっても消えないのは困ってしまう。
文句が出てくるのも致し方ない。
「お月様みたいに、もっと控えめに光ってほしいものにゃ」
「無茶言うなよ」
月だって遠くにあるから控えめなのであり、近くだったらもっと自己主張してくるだろう。
それに月は太陽の光を反射しているだけで、それ自体が光っているのではない。
比べるのはライトクリスタルにとって酷というものだ。
「いや、待てよ。月……か。そうか、その手があったか」
「にゃーん?」
マオは何のことか分からないという顔で、首をかしげる。
しかしタクトの中では答えが出ていた。
これはいいアイデアだ。
月面なら万が一にも他人を巻き込む心配がない。
どうしてもっと早く気が付かなかったのだろうか。
発想力の貧困さを痛感してしまう。
「マオ。悪いけど、今日の晩ご飯は店長に何とかしてもらってくれ。俺は今から出かけてくる」
階段を駆け上り、自分の部屋からライトクリスタルを持ちだす。
それからクララメラの部屋に行き、スヤスヤ眠っていた女神を叩き起こした。
「店長、店長!」
「うーん……なーに。もう晩ご飯できたの?」
クララメラは布団をかぶったまま、眠そうな声で言う。
「いえ。俺は今から出かけるので。申し訳ありませんが、マオを連れて外食でもしてくれませんか?」
「出かける……?」
クララメラはモゾモゾと布団から這い出し、上半身を起こす。
「すっかり夜じゃないの……まさかセラナちゃんのとこに夜這いでも仕掛けるつもり……」
「何を馬鹿な。ちょっと月に行って、次元回廊を開くだけです」
「ああ、そう……月で次元回廊をねぇ……」
まだ寝ぼけているらしく、クララメラはぽわんとした顔でそう呟く。
だが二秒後には目を見開き、タクトの両肩を鷲掴みにしてきた。
「は!? 月で次元回廊ッ!?」
「そうですけど。そんな大声出さないでくださいよ」
「無茶言わないで! タクト、あなた自分が何を言っているか分かってないのっ?」
クララメラはタクトの肩をガクンガクンと前後に揺すってきた。
何やらとても慌てている。
しかし、その理由が分からない。
「えっと、問題なのは月のほうでしょうか。それとも次元回廊?」
「両方に決まってるじゃない! だってタクト、あなた月がどれだけ遠い所にあるのか知ってるの!?」
「……俺の生まれた世界だと、だいたい三十八万キロ……こっちの単位だと十九万ラトケメルくらいですかね」
「あってるわ! それでも行くのっ?」
「え……普通に行ける距離……」
「無理でしょ、普通は!」
言われてみると、普通は無理だ。
だが、タクトは普通ではないし、クララメラだって普通ではないだろう。
「こう、ぴょんと飛んでいく感じで」
「ご近所感覚!? それから次元回廊ってどういうことよ! 説明しなさい!」
「説明と言っても……俺が故郷に帰りたがってるのは前から言ってるじゃないですか」
「私が帰って欲しくないと思ってるのも知ってるでしょ!」
そう叫んでクララメラはタクトを抱きしめ、その豊満な胸で包み込み、ベッドの上をゴロゴロ転がった。
おっぱいがいっぱい。凄い。
「あのですね。次元回廊を開いて地球に行ったとしても、俺が住むのはこっちの世界です。何度も説明したじゃないですか」
「それは聞いたけど。でも、そう都合よく行くとは限らないでしょ。その地球ってとこに行ったきり、帰ってこれなくなるかもしれないじゃないの!」
「それは……」
正論だった。
現時点のタクトは次元回廊にかんして、テルタンの著書やその言動からしか知らない。 テルタンがどこまで真実を語っているのかも不明。
下手をすれば全てがイタズラで、タクトは見知らぬ世界に飛ばされたまま、それっきりということもありえる。
なにせ相手は大神様だ。
人の尺度では測れない。
しかし――
この世界に転生して十四年。
なにも手がかりがないままノラリクラリと生きてきたが、ここに来て急に故郷に通じる情報が溢れ出してきた。
もはや我慢は不可能。
クララメラには悪いが、多少危険があっても、ここまで来たからには、行けるところまで突き抜けるしかないのだ。
「店長。必ず帰ってきますから。それで、俺の故郷の美味しいものをお土産に持ってきます」
「本当? 本当に本当?」
「ええ。約束です」
タクトはクララメラの目を真っ直ぐ見つめて断言する。
それなのに彼女はぐずぐずと泣きべそをかいた。
三百年以上生きているくせに、実のところ、この女神様はセラナと同じくらい泣き虫だった。
何があろうと絶対に帰ってくる。
タクトはその決意を新たにし、アジールを旅だった。
とはいっても、何日もかけるつもりはないので、荷物はライトクリスタルだけだ。
当然、テルタンが残した術式はすでに刻んである。
あとはやるだけ。
しかし、何だかんだで月は遠い。
まずトゥサラガ王国を傷つけないよう、ゆっくりと加速し、たっぷり十数分もかけて大気圏を突破する。
そこからは一瞬だ。十秒ほどで月面に到達する。
「流石にファンタジー世界だからって、月面で兎が餅つきしてたりはしないか」
岩だらけで、大気はほぼゼロに近い。
何の変哲もない月世界が広がっていた。
これなら誰にも迷惑をかけずに全力を出すことが出来る。
「えっと……とにかくライトクリスタルに魔力をぶつけりゃいいのかな?」
失敗したらまたライトクリスタルを採ってくればいいや、という軽い気持ちで儀式を開始だ。
まずはライトクリスタルを地面に突き刺し、柱のように垂直に建てる。
そして、勇者の紋章と魔王の紋章を解放。
周囲一帯に魔力が吹き荒れる。
重力が弱いので、それだけでタクトの体が浮き上がってしまうほどの力だ。
もちろん、こんなものは序の口。
紋章の力を攻撃に使用すれば、片手だけでも、生存領域をまるごと一つ消滅させて余りある威力となる。
かつて、そんな力が二つ激突し、次元回廊が開いてしまった。
それをタクト一人で再現しようというのだ。
行き先はテルタン・テールフラのみぞ知る。
これだけ回りくどくタクトを誘ってきたのだ。それなりに意味のある場所に出るのだろう。
「どこに連れて行ってくれるのか楽しみだな……っと。それ!」
タクトは右と左の拳を同時にライトクリスタルに叩き付けた。
その瞬間、大爆発が巻き起きる。
ライトクリスタルは一瞬にして消滅し、内部に刻まれた術式が起動。
双紋章の魔力を吸い上げて、黒い球体を作り出した。
――見覚えがあるぞ。
そうだ。今、思い出した。
十四年前、こちらの世界に転生してくる直前。
タクトはこの球体に飲み込まれたのだ。
つまり、これこそが次元回廊の入り口である。
入り口は一気に広がり、あっという間にタクトを飲み込んだ。
そして――
ふと気が付くと、タクトは白い砂浜に立っていた。
いつ書籍版が打ち切りになってもいいように、先に最終章的なエピソードを書きます!




