「アーデル・ハイトの過去」
アーデル・ハイトの幼少期。彼の記憶にあるのはどこまでも真っ白な空間だ。四方10メートル程度の小さな一部屋が彼の全てであった。
どこで生まれたのかも、親が誰なのかも、ここが誰なのかも、自分がどうしてこんなところにいるのかも分からない。
いや、分からないどころかそんな疑問にすら彼は行き着くことが出来なかった。始めから間違ってしまっているのなら、その間違いに気付くことは困難を極める。
彼は他の"兄妹"達と同じように何の疑いもなく、その小さな世界で生き続けた。
毎日昼と夜に部屋の角にある小さな隙間から送られてくる食物を餌に、淡々と生きて、生きて、生きて、生き続けた。生きること以外、彼には何も許されていなかった。
それを他の人間に比べて不幸な境遇なのだと気付く事もなく……。
そしてある日、アーデルは自分に不思議な力が宿っていることに気付く。
バチバチと体を走る電流が彼の意思によって生み出されていることは明らかだった。
アーデルはその不可思議とも言うべき現象に何の疑いもなかった。
自分はこういうことが出来る生物なのだと、そう思い込んでいたからだ。
そして……彼はその小さな部屋から開放された。
「後で知ったことなのだけど、僕は実験動物のような扱いを受けていたんだ。小さな部屋に隔離され、世界を知らずに育った幼児は『天権』と呼ばれる力を得ることがある。そういう実験結果があるんだそうだ」
「……それを王国がやったのか?」
俺は震える口元を自覚しながらアーデルに聞き返す。
すると彼は首を縦に振り、首肯した。
アーデルの言葉を否定し、信じないことは簡単だった。
そんな非人道的なことをするわけがないと。そう思うことは容易い。
だが俺はアーデルの話を聞いた瞬間に以前、ルーカスさんに言われたことを思い出していた。
『いいかい? 魔術や天権はこの世界を作り変える術だ。常識を覆す法と言い換えてもいい。だからこそ"この世界の常識を持たない"君たちだからこそ簡単に天権を所得することが出来たんだ』
それはつまり、"この世界の常識を持たないものなら誰にでも天権が宿る"ということなのではないか?
例えば……
──生まれた時よりずっと世界から隔離されて過ごしてきた子供とか。
「…………ッ!」
俺は知らず知らずのうちに固く拳を握り締めていた。
それは……そんなことは許されてはならないはずだ。
人の命をまるで家畜のように扱い、天権使いを増やすためだけに冷酷な環境化に陥れるなど。
「それから僕は王国の魔術師によって催眠をかけられた。魔族を殺す便利な道具として生まれ変わったわけさ」
「……それで、お前はシンを?」
「いや。誤解しないで欲しい。僕はもう王国を離れて活動している。魔族と敵対することを選んだのは王国の意思ではなく、僕の意志だ」
「そうか……」
アーデルの言葉に少しだけほっとする自分がいた。
そんな扱いを、友人未満とはいえアーデルが受けているとなれば俺もじっとしていられなかっただろう。なんとしてでもその洗脳とやらを解かせようとしたはずだ。
「けど、それなら何でお前は王国から離れることが出来たんだよ。話を聞く限り、そんなこと出来ないように洗脳されていたんじゃないのか?」
「そこだよ。カナタ、そこがこれから話す最も重要なことなんだ」
アーデルはもったいぶった調子でそう言うと、話の本題について語り始める。
「僕がまだ王国に飼われていた時のことなんだが、ある日一つの任務が僕の元へ降りてきた。それはイリスちゃんの父親……ヴェンデ・ライブラを殺害すること。そこで僕は……」
「ちょ、ちょっと待て!」
俺はアーデルの話の途中、どうにも見過ごせない情報に待ったをかけた。
「何でイリスの父親が王国に狙われてんだよ、何が……何が原因でそんなことが……」
「さあね。僕も詳しい事情は聞かされていなかったんだ。とにかくヴェンデ・ライブラの殺害は王国から降りた最優先任務として僕に届いた。そして何の疑いもなく、僕はその任務を実行した」
「…………」
イリスの父を殺した仇について、俺はイリスから何も聞かされてはいなかった。それなのにまさかこんな近くにいたなんて……
「僕はヴェンデ・ライブラを殺し、近くにいた幼子も同時に殺そうとした。目撃者は出来るだけ減らすようにも言われていたからね。でも……どうしても出来なかった」
アーデルは遥か過去に思いを馳せるように遠くを見ると、悔恨に満ちた表情で話し始める。
「僕には家族がいない。父も母も兄も姉も弟も妹も祖父も祖母も何もかも。だからなのかな。父親の死体に縋りつき、必死に涙を流す彼女……イリスのことを見た時。かつてなく美しいと感じた」
瞳を閉じ、かつての情景を思い出すアーデルは僅かに自嘲染みた笑みを浮かべる。
「その時さ。僕は自分がどうしようもなく卑しい存在のように思えて仕方がなくなった。言われるままに殺戮を続ける僕はまさしく道化さ。そのことがどうしても許せなくなって……僕は逃げ出した。その場から、イリスちゃんから、そして……王国からも」
そう言ってアーデルは懐から何かを取りだした。
それは俺も見たことのある真っ黒な鬼の面だった。
「お前、それ……」
「僕はヴェンデ・ライブラを殺す際に王国から支給されたこの面を被っていた。だからイリスちゃんは親の仇が誰なのかを知らない。この面は鬼道衆と呼ばれる天権使いの集団……つまりは僕の同類が身に着ける面だ。この国にも十人近くいるんじゃないかな? 詳しくは知らないけど、僕以外にもこの面をつける人間がいることは確かだ」
くるくると手の中で面を弄ぶアーデルはやがて、その面を懐に戻して語りだす。
「僕はそれを良いことに自分の正体を隠してイリスちゃんに近づくことにした。ようやく彼女の足取りが掴めたのはこのケルンに来てからさ。その隣に君がいることにも気付き、そして僕はカナタ……君に接触した」
アーデルの目的を知り、俺は初めてこの少年と出会った理由を知った。
つまりは"始めから逆だった"のだ。
アーデルは俺と出会い、イリスを知ったのではない。
イリスを追いかけ、その果てに俺を知ったのだ。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
自然にイリスと出会いなおすために、アーデルは俺を馬として使ったのだ。
「何故だ。何でお前はそうまでしてイリスに近づこうとした」
俺はアーデルの真意を探るため、鋭い視線で問いかける。
そして、それに対するアーデルの答えはどこまでもあっけらかんとしたものだった。
「好きだからだよ」
「…………は?」
「だから、好きだから。僕はあの日、イリスちゃんと始めて会った瞬間に彼女を美しいと認識した。それが初恋だったんだよ」
なんでもないように語るアーデル。
「……つまり、お前は惚れた女をずっとストーキングし続けてたってことなのか? 変質者みたいに」
「変質者は酷いな。愛の求道者とでも呼んでくれたまえ」
「つまりストーカーだろうが! しかもお前がイリスと出会った頃ってイリスはまだ……」
「ん? 年齢かい? 確かまだ彼女が8歳か9歳くらいの頃だったと思うが……」
真顔で真性宣言をするアーデル。
駄目だコイツ……早く何とかしないと……。
「人にはその後の運命を大きく変える契機というものが少なからずあるはずだ。それが僕の場合、彼女との出会いだったというだけのこと。カナタにはないのかい? 自分自身の価値観を根底から覆すような出来事は」
「…………」
別にアーデルの変態性を肯定するわけではないが、こいつの言葉には少なからず同意できる部分がある。
俺にもあった。
自分自身、生まれ変わったかのように感じたその瞬間が。
そして、それはきっと……
「つまり僕とカナタは同類だってことさ」
「……その評価だけは絶対に受け入れたくねえな」
そう言ってアーデルに背を向け、出口へと向かう。
聞きたいことは全て聞けたからな。後は動くだけだ。
「"行く"のかい?」
「ああ。お前はそこでゆっくり傷でも治してろ」
立ち去る俺に、背後でアーデルが薄く笑みを浮かべたような気がした。
なんとなくだが……俺は今、確かにアーデルと感情を共有したのだ。
気持ちの悪いことだがな。
来たときと同じよう、奏に案内してもらい俺はその宿を後にする。
するべきことは多い。
だけどまずは……話をつけに行くべきなんだろうな。
もしかしたら決裂することになるかもしれない、"彼女"の元へ。




