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第八十六話 当世最強

 ジェラルドにとり、その蹄の轟きは恐怖の象徴、否、恐怖そのものであった。


 先の森での戦いの事は今でも夢に見る。

 あの時、ジェラルドの配下五十騎に対し、敵は百騎程。

 確かに数で劣ってはいた。

 しかし、不意打ちを受けたわけではない。

 地の利はジェラルド側にあった。

 自分たちは丘の上に陣取っており、街道を見下ろしていた。

 そこを駆け抜けようとするローズポート勢の横腹を衝くのだから、戦いはむしろ優勢に進められるはずであった。

 父からつけられた目付け役のヒューバートは反対したが、ジェラルドの眼には大きな手柄を上げる絶好の機会に見えた。


 だが、結果は散々だった。

 ジェラルドはあっさりと返り討ちに会い、率いていた騎士は壊滅。

 自身も命を落としかけ、危ういところをあの下賤の出と見下していたはずの男に救われる羽目になった。


 同じ乳房で育った乳兄弟、ともに騎士の叙任を受けた僚友、騎士としての訓練とはまた違った様々な要領(・・)を教えてくれた兄貴分、それから初陣以来ともに戦ってきた戦友達。

 かけがえのない仲間の多くを失った。

 

 なぜあの時、仲間とともに死ねなかったのだろうと考えることもある。

 あの戦い以来、ジェラルドは自身に誇りを持つことができなくなっていた。

 ホースヤード伯の軍勢は彼からすべてを奪った。

 その恐るべき、戦鬼の現身ともいえる敵が、再び、そして数を増してこの本陣に迫りつつあった。


 誰かが、スティーブン殿下に退避を勧めているのが聞こえた。

 ジェラルドにもそうすべきと思えた、が。


「落ち着け! リチャード卿はわずか五百騎で突出してきている!

 強行軍で消耗し、衝力は落ちている!

 かの最強の騎士を仕留めるに今を置いてなし!

 味方が戻るまで踏みとどまれば我らの勝利だ!」


 スティーブン殿下が皆を鼓舞する声が聞こえてくる。

 だが、ジェラルドには正気とは思えなかった。

 アレを前に踏みとどまるなんてことができるはずがない。

 アレに、人間が勝てるわけがないのだ。


「し、しかし……! あまりに危険です!」


「逃げてもリチャード卿は必ず追ってくる。

 そして逃げれば、味方の増援からも遠ざかることになる。

 いいか、ここが踏ん張りどころ――」


 スティーブン殿下がそう言いかけたところで、最初の味方の集団がローズポート勢と接触する。

 一瞬で蹂躙された。


 それを見た者たちの顔が一様に青ざめた。

 本陣の近衛騎士たちですら浮足立っている。


 敵の進路上に散らばっていた味方がことごとく逃げ出し、まるで海を割るようにして本陣までの道が出来上がる。

 その中をローズポート勢は悠々と進んでくる。

 横矢を放つ者すらいない。

 もはや立ち塞がる者はいないかに見えた。

 しかし、誰かが一点を指さして叫んだ。


「おい! あれを見ろ!」


 その先に、男が立っていた。

 たった一人で、騎馬の群れの前に立ち塞がっていた。


「あの勇士は何者だ?」


 誰かの呟きに応えるかのように、男の手に輝く金の斧が現れた。

 ジェラルドはその斧を見知っていた


「ジャック……〈木こり〉のジャック……!」


 どうしてあんな真似ができるのだろうか?

 自分は今すぐにでも逃げ出したいと考えているのに。

 この屈強な近衛騎士に囲まれていてすら、震えが止まらないというのに。

 あの怪物たちの群れになぜあの男はたった一人で、かくも堂々と立ちはだかることができるのか。

 騎士として生まれついはずの自分にもできないことを、ただの木こりが。


 騎士よりも騎士らしくあるその姿に、皆が奮い立っていた。

 先ほどまで本陣に漂っていた絶望の気配は失せ、戦意に満ちている。


「騎士も総員下馬しろ! 槍を持つものは前へ!」


 本陣にいたすべての兵が隊列に組み込まれ、堅固な陣が敷かれていく。

 ジェラルドは逃げる機を失い、流されるままに近衛騎士たちと盾を連ねた。

 震えは未だに収まらない。


 あの男が、敵の先頭にいた騎士を落馬させるに至り、本陣の戦意は熱狂の域に達した。

 が、残る敵は足を止めることなく本陣目掛けてに突っ込んでくる。


 ジャックと騎士が決闘を始めたのが目に入ったが、すぐに本陣でも激しい戦闘が開始され。その結末を見届けることはできなくなった。



 伯爵は片手で剣を構え、俺が動き出すのを待っていた。

 おそらく、足を痛めて大きくは踏み込めないせいだろう。

 俺は盾に身を隠しながら、ジリジリと距離を詰めていく。

 手負いとは言え、いや手負いだからこそかえって危険な相手だ。

 元より油断などする御仁でもなかろうが、今はいっそう張りつめているのが見て取れる。

 なにより、後の事を考えずに済むのであればいくらでも捨て身の手を放つことができるようになる。


「どうした、小僧。あの時の威勢はどこかに置いて来たか?」


「生憎と、あの時と違って今は勝ち目があるんだ。

 捨て鉢になる必要はねえ」


「言うようになったではないか。

 ならば見せて貰おうか!」


 伯爵がぐっと口角を上げて犬歯をむき出しにする。

 随分と嬉しそうだ。


「いくぞ!」


 気合いを入れて、踏み込む。

 金斧を振り下ろしたが、柄の部分に刃を差し入れられて防がれた。

 さらに伯爵は巧妙に、回すように剣をうねらせ俺の手から斧をもぎ取った。

 だが問題はない。

 俺は一歩分飛び下がりながら斧を手に呼び戻し、体勢を立て直す。

 伯爵は追ってこない。


 ゆっくりと左へ回ると、伯爵も同じように回る。

 まったく動けないわけではないらしい。


 埒が明かないので、盾に身を隠しながら突進を仕掛ける。

 足の具合はどんなだ? 伯爵は踏ん張れるか?

 伯爵はカウンターとばかりに盾の縁からわずかに出ていたこちらの目を突いてきた。

 盾を上げて顔を守る。

 盾に当たるはずの剣の衝撃がない。

 ゾッとして右に目をやると、そこに伯爵がいた。

 振り下ろされた剣を、咄嗟に上げた右腕の籠手で防ぐ。

 鋭い打撃に腕が痺れる。

 伯爵が柄尻を上げて剣先を差し込んでくる前に、飛び下がりながら向きを変えつつ盾を割り込ませる。


 戦い方を学んですら、そして伯爵が怪我をしていてすらこれだ。

 あの時、あのまま戦っていたら時間を稼ぐことすらできずに死んでいただろう。


 右腕がうまく動かない。

 折れている感触はないので、一時的な――おそらくはあと数秒――ものだろうが、隙としてはあまりにでかい。

 もちろん伯爵は俺の挙動不審を見逃さず攻勢に転じてきた。

 伯爵が振り下ろしてきた剣を、盾の縁で受ける。

 伯爵がその盾の縁を滑らせるように剣を動かす。

 盾を迂回して俺の体を突く気だ。

 俺は盾を左右に動かして、伯爵の切っ先に捉えられぬよう押してそらす。

 右手がどうにか動かせる程度に回復する。

 剣を狙って小さく金斧を振ったが、伯爵はスッと剣を引いてかわした。


 また、互いに隙を狙ってぐるぐると回る。

 伯爵の肩越しに、本陣で死闘が繰り広げられているのが見えた。

 殿下の布陣は破られ、完全に乱戦状態に陥っている。

 あれでは俺の兄弟達も効果的な支援はできない。


 伯爵が剣を小さく振った。

 慌てて右腕を下げたが、切っ先が防具のない下腕の内側を掠めた。


「よそ見をするでない」


 まるで稽古の最中のように窘められた。

 お返しに金斧で切り付けたが、柄の部分を剣で受け止められた。

 全く隙がない。

 グルグル回る。

 時折、俺が隙を見せると伯爵が仕掛けてくる。

 どうにか凌ぎはするが、俺は防戦一方だ。

 熱い。激しい動きに熱がこもり、俺は既に汗だくになっていた。

 防具の重さに、少しずつ体力を奪われていく。息も上がる。

 対する伯爵は未だ涼しい顔で剣を振り続けている。

 動きに衰えはなく、息も上がってはいない。


 俺の戦技なんて、所詮はここ数年で身につけた付け焼刃にすぎない。

 伯爵が、恐らくは数十年かけて積み上げてきたのであろうそれとの、圧倒的な差を見せつけられている。


 捌き切れなかった一撃を籠手や脛当て、あるいは兜で受ける羽目になることが増えてきた。

 動きが鈍り始めている証拠だ。

 その都度、防具越しでも痛みを感じるほどの衝撃が体を襲う。

 後で確認することができたなら、きっと体中に真っ黒な痣ができているだろう。

 肺が焼け付くように痛む。酸欠で目がくらみ、防具の下は生ぬるい汗でびっちょりと濡れている。

 だというのに口の中はカラカラだ。


 伯爵がまた叩きつけるように剣を振り下ろす。

 盾で受ける。刃が盾の縁に食い込んだ。

 何度も攻撃を受けたおかげで、縁を補強していた金具が脆くなってしまっていたのだ。

 思いの外深く食い込んだのか、剣を抜こうと伯爵の動きが一瞬止まる。

 それを隙とみて金斧で斬りかかったその時、伯爵が素早く剣から手を放してこちらの腕を掴みにかかってきた。

 慌てて斧を引っ込めて元通り盾の陰に全身を隠す。


 盾が少し揺れ、縁に食い込んでいた剣が外された。

 伯爵が獰猛な笑みを浮かべているのを見て、全身から冷や汗が湧いた。

 今のはおそらく誘われたのだ。あのまま迂闊に切り込んでいたら、腕をとられてぶん投げられていただろう。


 体力、技術、駆け引き、あらゆる面で向こうが上だ。

 勝ち目がない。

 

 伯爵が盾の縁から刃を滑り込ませてくる。

 その刃をへし折ろうと金斧を振ったが、伯爵はスルリと剣を引き戻してそれを躱す。

 正直、体が限界を迎えつつある。


 どこからか聞こえてくる、角笛の音と、蹄の轟。

 追撃に出ていた連中が戻ってきたのだろう。

 本陣では、一度は逃げ出した各隊の歩兵たちが次々と加勢に加わりつつあった。

 俺はこの戦場での勝利を確信する。


 伯爵の剣を受けて、俺は後ろによろめきかろうじて踏みとどまった。


 なのに、どうして俺は戦い続けているんだろうか?

 伯爵はもはや本陣の戦いには間に合わない。

 目的は達した。

 いっそ動きを止めてしまおうか。


 伯爵はその隙を決して逃さず、俺を一撃で仕留めるだろう。

 それでもかまうものか。

 ああ、でも。


 思考とは裏腹に、体がよろめくようにして伯爵の一撃を躱す。


 姫様の顔が脳裏に浮かぶ。

 死ぬ前にせめて一度はあのお顔を見たい。


 こちらの右側面に回り込んだ伯爵が横なぎの一撃を放ってくる。

 こちらが斧で受けようとすると、伯爵は剣の軌跡を微かに変えてこちらの籠手を打ってきた。

 手がしびれ、斧を取り落としそうになる。

 が、その時ふと伯爵の顔に一筋の汗が垂れるのが見えた。

 後ろに飛んで距離をとる。


 伯爵が踏み込んで来る。

 その獰猛な笑いの奥で、歯を割れんばかりに噛みしめているのが見て取れた。

 悟る。

 伯爵とて、決して楽な戦いをしているのではない。


 さらに数歩後ろに下がって距離をとる。

 思った通り、伯爵はすぐには追ってこない。

 追ってこられないのだ。

 大きく息を吸い、全身に活力を行きわたらせる。

 まだ戦える。


 頭が再び回転を始める。

 伯爵の弱点は何だ?


 伯爵が再び距離を詰めて来くる。

 踏み込む際に、微かに顔をしかめたのが見えた。

 弱点は、足だ。

 足を使わせるべきだ。


 伯爵の踏み込みに合わせてこちらも前に突っ込み、体当たりを狙う。

 今の伯爵はこれを受けられない。

 踏ん張ることができないからだ。

 当然躱される。

 それでいい。

 また下がって距離をとり、グルグルと回りながら隙を伺う。


 下がって追わせ、突進して躱させ、とにかく伯爵に動くことを強要し続ける。

 伯爵の顔に脂汗が浮き始めた。

 俺の斧は伯爵に傷一つ付けられないが、足を使わせれば確実にダメージを与えることができるのだ。

 俺の戦い方が変わったことに気づいたのか、伯爵が二ッと笑った。

 やせ我慢のそれではなく、心底嬉しそうな笑みだ。

 訳が分からない。


 俺たちの脇を、〈馬に乗った烏〉の旗を掲げた騎馬の一団が通り過ぎていく。

 ホースヤード伯の軍勢だ。


 地面が揺れ、伯爵が痛みに顔をしかめた。

 あるいは馬の蹄が石でも弾き飛ばしたのかもしれない。

 俺はその隙を逃さなかった。

 伯爵目掛け、袈裟懸けに斧を振り下ろす。

 伯爵は咄嗟に身をそらして躱した。

 が、避け切れなかった。

 俺の金斧は伯爵の防具を易々と切り裂いた。

 

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