第9話 王国の黄昏
総会から三日後、帝国への出発を翌日に控えた朝のことだった。大使館の執務室で荷造りの確認をしていると、マルタが慌ただしく駆け込んできた。
「お嬢様、大変でございます。王宮から正式な使者が参りました」
「王宮から?」
私は手を止めた。今更、王太子が何を言ってくるというのだろう。
「使者は王太子殿下ではなく、国王陛下の名代だそうです。引見を求めておいでです」
国王陛下。王太子の父君であり、ローゼンハイム王国の現君主だ。これまで一度も直接お会いしたことはない。婚約者であった七年間、一度たりとも謁見の機会は与えられなかった。
「アレクセイ様にお伝えして。それから、使者を応接室にお通しして」
「かしこまりました」
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応接室に現れた使者は、王宮の侍従長とは別の、年配の文官だった。恭しく一礼すると、懐から封蝋のされた書状を取り出した。
「リーゼロッテ・ローゼンベルク嬢。国王陛下より、本日午後、王宮にて引見を要望したいとの仰せでございます」
「謁見の目的をお聞かせいただけますか」
「王太子殿下の婚約に関する件、および先日の総会での発言について、直接お話を伺いたいとのことです」
私は書状を受け取り、封を切った。確かに国王陛下の署名と王家の紋章がある。正式な招聘状だった。
「承知いたしました。午後、参内いたします」
使者が去った後、アレクセイ様が応接室に入ってきた。
「聞いていました。私も同行します」
「よろしいのですか? 帝国皇帝が王宮に赴くとなると、外交上の問題が……」
「君を一人で行かせるつもりはありません。それに、ローゼンハイムと帝国の関係を考えれば、この機会に国王と直接話しておくべきでしょう」
アレクセイ様の目には、揺るぎない決意があった。私は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
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午後、私たちは馬車で王宮へ向かった。白亜の城壁が近づくにつれ、私の心臓は少しずつ速くなっていく。七年間、何度もこの門をくぐりたいと願った。でも今、ようやくこの場所に立てるのは、婚約者としてではなく、自分自身の力で勝ち取った立場としてだ。
謁見の間は、想像していたよりも静かだった。玉座には白髪の国王陛下が座り、その傍らには王妃陛下が控えている。そして玉座の下、少し離れた位置に、王太子ルドヴィクが立っていた。顔色は悪く、目の下には深い隈ができている。
「リーゼロッテ・ローゼンベルク嬢、ヴァルトシュタイン帝国皇帝アレクセイ陛下。ようこそおいでくださいました」
国王陛下の声は、穏やかだが威厳があった。私たちは深く一礼した。
「本日お呼び立てしたのは、他でもありません。先日の魔道具協会総会での一件について、直接お話を伺いたかったのです」
「はい、陛下」
「まず、単刀直入にお聞きします。貴女が公開された手紙は、全て本物ですか」
「はい。全て私が書いた本物の手紙です。魔道具協会の鑑定士にも確認していただいております。筆跡、インク、紙質、全てが七年前から現在までの期間に書かれたものと証明されています」
国王陛下は頷いた。それから、王太子の方を向いた。
「ルドヴィク」
「……はい、父上」
「侍従長に命じて手紙を検閲させていたというのは事実か」
王太子は黙り込んだ。数秒の沈黙の後、小さく頷いた。
「……事実です」
謁見の間に、重い空気が流れた。国王陛下は深くため息をついた。
「なぜそのようなことをした」
「あの女は……リーゼロッテは、私にふさわしくないと思ったのです。地味で、社交界でも目立たず、魔道具作りなどという変わった趣味を持っている。聖女の素質を持つミレーヌの方が、王太子妃にふさわしいと」
「聖女の素質?」
国王陛下の声が低くなった。
「ミレーヌ・バロンに聖女の素質などないことは、先日の総会で明らかになったではないか。彼女が使っていた『奇跡』は、全てリーゼロッテ嬢が作った魔道具の模倣品だった」
王太子は何も言い返せなかった。
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「リーゼロッテ嬢」
国王陛下が私に向き直った。
「貴女には、深くお詫び申し上げます。王家の名において、七年間、貴女を不当に扱ったことを」
私は息を呑んだ。国王陛下が、頭を下げている。王が、臣下の令嬢に頭を下げるなど、前代未聞のことだ。
「陛下、どうかお顔をお上げください」
「いいえ。これは王家として当然の責任です。我が息子の愚行により、貴女は七年もの時間を無駄にさせられた。その才能を正当に評価される機会を奪われた。これは王家の恥です」
国王陛下は顔を上げ、真っ直ぐに私を見た。
「償いをさせていただきたい。貴女が望むものがあれば、可能な限り応えましょう」
私は少し考えた。復讐を望んでいるわけではない。王太子を罰してほしいわけでもない。ただ、一つだけ確認したいことがあった。
「陛下、一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「何なりと」
「七年間、私の手紙が届いていないことを、陛下はご存知でしたか」
国王陛下は首を横に振った。
「知らなかった。知っていれば、即座に止めさせていた。息子の婚約に関しては、本人の意思を尊重するべきだと考え、あまり介入しなかったのです。それが間違いでした」
その言葉に、嘘はないように思えた。国王陛下は、本当に何も知らなかったのだ。全ては王太子の独断だった。
「分かりました。私からの望みは一つだけです」
「申してみよ」
「私の名誉を、公式に回復していただきたい。『放置された婚約者』ではなく、『王太子の不誠実により婚約を解消した令嬢』として。そして、私の魔道具製作者としての功績を、王国として正式に認めていただきたい」
国王陛下は深く頷いた。
「当然のことだ。本日中に勅令を出そう。リーゼロッテ・ローゼンベルク嬢は、王国が誇る魔道具製作者であり、婚約解消の責は全て王太子にあると」
「ありがとうございます、陛下」
私は深く一礼した。これで、全てが終わる。七年間の汚名が、ようやく晴らされる。
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「待ってください!」
王太子が叫んだ。顔は紅潮し、目は血走っている。
「父上、このままでは王家の威信が……!」
「威信?」
国王陛下の声が、氷のように冷たくなった。
「お前が七年間、婚約者を無視し続けたことで、既に王家の威信は地に落ちている。今更、何を守ろうというのだ」
「しかし……!」
「ルドヴィク。お前には王太子としての自覚が足りない。己の過ちを認めず、責任を他者に押し付け、保身のみを考える。そのような者に、この国を任せることはできない」
謁見の間が、凍りついたように静まった。国王陛下の言葉の意味を、全員が理解していた。
「父上、まさか……」
「王太子の位を剥奪する。お前には、辺境の領地で己を見つめ直す時間が必要だ」
王太子の顔から、全ての血の気が引いた。膝から崩れ落ち、床に手をついている。
「そんな……そんなことが……」
「これは決定事項だ。異議は認めない」
国王陛下は立ち上がり、私とアレクセイ様に向き直った。
「リーゼロッテ嬢、アレクセイ陛下。本日はありがとうございました。王家の恥をお見せしたことをお詫び申し上げます」
「いいえ、陛下。むしろ、公正なご判断に感謝いたします」
アレクセイ様が答えた。
「ローゼンハイム王国と帝国の友好関係が、今後も続くことを願っております」
「こちらこそ。リーゼロッテ嬢を、どうかよろしくお願いいたします」
国王陛下の言葉に、アレクセイ様は深く頷いた。
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王宮を出た時、既に日は傾きかけていた。夕焼けが白亜の城壁を橙色に染めている。私は振り返り、最後にもう一度、王宮を見上げた。
「後悔はありますか」
アレクセイ様が静かに聞いた。
「いいえ」
私は首を横に振った。
「王太子殿下には、自分の行いの結果を受け止める必要があります。私が望んだわけではありませんが、国王陛下のご判断は正しいと思います」
「君は優しいな」
「優しくなんてありません。ただ……もう、終わったことですから」
馬車に乗り込みながら、私は自分の心が驚くほど穏やかなことに気づいた。恨みも、怒りも、もうほとんど残っていない。あるのは、ただ、前に進みたいという気持ちだけだった。
「明日、帝国に発ちます」
アレクセイ様が言った。
「準備はいいですか」
「はい。荷物はほとんどまとめてあります。マルタも一緒に来てくれることになりました」
「良かった。君の傍に信頼できる人がいることは大切だ」
馬車が動き出した。窓の外を流れる王都の景色を眺めながら、私は明日からの新しい生活を思い描いた。帝国での仕事、新しい魔道具の開発、そして……アレクセイ様との日々。
「アレクセイ様」
「はい」
「帝国では、どんな魔道具を作ればいいでしょうか。何かご希望はありますか」
アレクセイ様は少し考えてから、微笑んだ。
「君が作りたいものを作ればいい。私は君の才能を買っているのであって、特定の製品を求めているわけではない。君が自由に創造できる環境を整えることが、私の仕事だ」
その言葉に、胸が温かくなった。この人は、私を道具として見ていない。私という人間を、そのまま受け入れてくれている。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない。当然のことだ」
馬車は大使館に向かって進んでいく。夕日が沈み、空には最初の星が瞬き始めていた。
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その夜、私は大使館の自室で、最後の荷造りをしていた。七年間の思い出が詰まった品々を、一つ一つ丁寧に箱に収めていく。
「お嬢様、これは……」
マルタが、一冊の古いノートを見つけた。表紙には『設計日誌』と書かれている。私が魔道具製作を始めた頃から書き続けてきた、試行錯誤の記録だ。
「ああ、それは大切なものだから、手荷物に入れておいて」
「かしこまりました」
マルタがノートを丁寧に布で包んでいる様子を見ながら、私は窓辺に立った。王都の夜景が広がっている。明日には、この景色ともお別れだ。
「お嬢様」
「何?」
「陛下のご求婚の件、お答えは決まりましたか」
私は少し黙った。まだ、答えは出ていない。でも、心の中で何かが変わり始めていることは感じていた。
「まだよ。でも……」
「でも?」
「怖くなくなってきたの。信じることが」
マルタは微笑んだ。
「それは良いことでございます。お嬢様は、幸せになる権利があります」
「ありがとう、マルタ」
私はベッドに入り、目を閉じた。明日から始まる新しい人生を思い描きながら、穏やかな眠りに落ちていった。




