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婚約七年目、悪役令嬢は本日をもって卒業します   作者: 九葉(くずは)
第1章

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第6話 守られる側の反撃

侯爵邸の応接室に、予告なしの来客が現れたのは朝食を終えて間もない頃だった。扉を開けた使用人の顔が青ざめているのを見て、私は誰が来たか察した。王太子ルドヴィク殿下が、護衛を二人従えて廊下に立っていた。


「久しぶりだな、リーゼロッテ」


七年間ほとんど顔も合わせなかった婚約者は、まるで昨日まで仲睦まじく過ごしていたかのような口調で私の名を呼んだ。私は立ち上がり、礼儀正しく、しかし冷淡に一礼した。


「王太子殿下、本日はどのようなご用件でしょうか」


「用件? 決まっている。婚約破棄の件だ。あれは早まった判断だった。撤回する」


まるで書類の訂正程度の軽さで、彼は言った。私は瞬きを一つして、それから静かに首を横に振った。


「恐れながら、殿下。婚約は既に正式な手続きを経て解消されております。七年条項に基づき、私からの申請が受理された時点で効力を持ちます」


「そんな古い法など、王家の意向で覆せる」


王太子の目が細くなった。穏やかだった声に、苛立ちが混じり始める。


「リーゼロッテ。お前はL・Rだったそうだな。七年もの間、私を欺いていたわけだ。その才能は王家のために使われるべきだ。私の妃として、王国に尽くせ」


欺いていた。その言葉が耳に引っかかった。私は、あなたに正体を明かす機会すら与えられなかった。手紙は届かず、謁見は拒まれ、婚約者として扱われることもなかった。それでも私が欺いていたと?


「殿下」


私は自分の声が震えないよう、腹に力を込めた。


「私には既に帝国からの技術顧問の招聘を受けております。王国に残る予定はございません」


「ふざけるな」


王太子が一歩、前に出た。護衛たちが私を囲むように動く。私は退かなかった。退いたら、七年間の自分を否定することになる。


「お前に選ぶ権利などない。侯爵家の令嬢が王太子の命に逆らえると思うな」


「では」


背後から声がした。低く、しかし夜会の大広間を静まらせたあの声。私が振り向くより先に、王太子の顔が強張った。


「帝国皇帝の招聘に逆らえると、王太子殿下は思っているのか?」


アレクセイ陛下が、侯爵邸の応接室に立っていた。正装ではなく、外交官が着るような落ち着いた装いだが、その存在感は変わらない。後ろにはヴェルナー侍従長と、帝国大使館の書記官が控えている。


「ヴァルトシュタインの……なぜここに」


「外交使節として、正式な声明を伝えにきた」


アレクセイ陛下は王太子に懐から封蝋のされた書状を取り出した。


「リーゼロッテ・ローゼンベルク嬢は、ヴァルトシュタイン帝国の技術顧問として正式に招聘された。帝国は彼女の身柄を外交上の保護対象とし、いかなる強制的な拘束にも抗議する」


書状を受け取った王太子の手が、微かに震えていた。これは単なる招聘状ではない。帝国が私を守ると、国家間の文書で宣言したということだ。


「……これは内政干渉だ」


「婚約は既に解消されている。元婚約者への一方的な復縁要求と、それに伴う身柄の拘束は、自由意志の侵害に当たる。帝国としては、友好国の令嬢が不当な扱いを受けることを看過できん」


アレクセイ陛下の声は淡々としていたが、その一語一語が王太子を追い詰めていた。周囲を囲んでいた護衛たちが、所在なげに視線を泳がせている。


「リーゼロッテ嬢」


陛下が私に向き直った。その目は、夜会のバルコニーで見せた柔らかさを含んでいた。


「帝国大使館にこい。治外法権により、そこでなら王国の手は及ばない」


私は頷いた。声が出なかった。七年間、誰も私を守ってくれなかった。誰かの後ろに隠れることを、弱さだと思っていた。でも今、差し出された手を取ることは、逃げではないと分かった。


「侯爵には後ほど正式に書簡を送る。ご令嬢の身の安全は帝国が保証する」


アレクセイ陛下が父の名を出した時、私は初めて気づいた。父は最初からこれを見越していたのではないか。帝国への打診、七年条項の確認、魔道具協会への根回し。全ては私を送り出すための準備だった。


「……覚えていろ」


王太子が低く呟いて、踵を返した。護衛たちが慌てて後を追う。その背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。


---


帝国大使館は、王都の外交区画にある白い石造りの建物だった。ローゼンハイム王国の建築様式とは異なり、直線的で機能美を重視した設計になっている。馬車を降りた私を、大使館の職員たちが慌ただしく出迎えた。


「こちらへどうぞ、ローゼンベルク嬢。お部屋をご用意しております」


案内されたのは、賓客用の居室だった。窓からは大使館の中庭が見える。手入れの行き届いた庭園には、ローゼンハイムでは見かけない濃い青の花が咲いていた。


「帝国の国花だ。アイゼンブルーメ、鉄の花と呼ばれている」


いつの間にか、アレクセイ陛下が隣に立っていた。窓の外を眺めながら、穏やかに説明してくれる。


「寒冷な土地でも咲く強い花だ。君によく似ている」


「私が……鉄の花に?」


「七年も待てる忍耐と、自分の足で立つ強さ。それでいて、美しさを失わない」


真顔で言われて、私は思わず視線を逸らした。この人は時々、何の前触れもなくこういうことを言う。社交辞令なのか本心なのか、判断がつかない。


「からかっていらっしゃるのですか」


「事実を述べているだけだ。からかう才能は残念ながら持ち合わせてはおらん」


そう言って、陛下は少しだけ困ったように眉を下げた。その表情が意外で、私は小さく笑ってしまった。


「笑ったな?」


「申し訳ございません、陛下」


「いや、君が笑うのを見たのは初めてだ。もっと見たいと思ったぞ」


また、さらりとそういうことを言う。私は咳払いをして話題を変えた。


「あの、本日は本当にありがとうございました。殿下の前に現れてくださらなければ、どうなっていたか」


「君が自分で断ったのだ。私はただ、君の決定を後押ししただけだ」


陛下は窓辺を離れ、部屋の中央に置かれたテーブルの上の書類に目を落とした。技術顧問としての契約書らしかった。


「正式な書類は後日改めて。今日はまず、休んでください。それと……」


言いかけて、陛下は何かを思い出したように立ち止まった。


「帝国では、技術顧問も宮廷の行事に出席することがある。その際、帝国式の礼儀作法を身につけてもらう必要があるのだが」


「はい、勉強いたします」


「いえ、その……ダンスをだ」


陛下の声が、微かに低くなった。


「帝国式のダンスは、ローゼンハイムとは異なる。私が教えよう」


---


大使館の小広間で、私は途方に暮れていた。帝国式のダンスは、確かにローゼンハイム王国のものとは全く違った。テンポが速く、ステップが複雑で、何より距離が近い。


「左足から。いえ、右だ。そう、そこで回転して……違う、逆回りだ」


アレクセイ陛下の指示は的確だったが、私の足がついていかなかった。三度目に同じところで躓いた時、思わず笑いが込み上げてきた。


「申し訳ございません、陛下。私、ダンスは得意な方だと思っていたのですが」


「ローゼンハイム式と帝国式は根本的に異なるからな。最初はみな苦労する。気にするな」


「陛下も?」


「私は……別の意味で苦労した」


陛下が遠い目をした。何か思い出しているらしい。


「幼少の頃、姉に無理やり練習相手をさせてな。足を踏むたびに脛を蹴られたり」


皇帝陛下が姉君に脛を蹴られている図を想像して、私は吹き出してしまった。陛下も小さく笑った。


「ご覧の通り、私も完璧ではない。ただ、君のパートナーを務める以上、恥をかかせるわけにはいかん」


「パートナー、ですか」


「帝国では、技術顧問は皇帝直属の立場だ。公式行事では私がエスコートすることになるが。不都合があるか?」


不都合。その言葉の意味を考えて、私は首を横に振った。


「いいえ。光栄に存じます」


「では、もう一度」


陛下が手を差し出した。その手を取る瞬間、ふと思った。七年間、誰の手も取らずに生きてきた。誰かに頼ることを、弱さだと思い込んでいた。でも今、この手を取ることは、弱さではなく選択だ。私が選んだ道を、共に歩いてくれる人の手だ。


「リーゼロッテ嬢」


「はい」


「君を待たせる男にはならん」


唐突な宣言に、私の足が止まった。陛下は真剣な目で私を見ていた。


「七年という時間は、取り戻せない。しかし、これからの時間を無駄にしないと、約束する」


何と答えればいいか分からなかった。代わりに、私は一歩、前に出た。ステップを間違えないよう、慎重に。でも確実に、陛下との距離を縮めた。


「私も、待つだけの女にはなりません」


「……そうでなければ、君ではない」


陛下が微笑んだ。初めて見る、遠慮のない笑顔だった。


---


その夜、マルタが私の部屋を訪れた。手には何かの書類を抱えている。その表情が険しいことに気づいて、私は椅子から立ち上がった。


「マルタ? どうかしましたか?」


「お嬢様、これを」


マルタが差し出した書類は、王宮の内部文書だった。どこから手に入れたのか聞くのは野暮だろう。彼女には彼女の情報網がある。


「侍従長のヴェルナー……いえ、こちらは帝国のヴェルナー侍従長とは別人の、王宮の侍従長です。その者が、何やら書類を処分しようとしているという情報を掴みました」


「書類?」


「七年分のお手紙でございます。お嬢様が殿下にお送りになったものが、全て検閲され、握り潰されておりました」


私の手紙。私が王太子に宛てて書き続けた、七年分の言葉たち。届いていなかったことは知っていた。でも、まだ残っているとは思わなかった。


「処分……というのは」


「証拠隠滅でしょう。婚約破棄の正当性を主張するには、殿下の側に非がないことを示す必要があります。手紙の存在が公になれば、殿下が七年間、婚約者との連絡を意図的に絶っていた証拠になります」


私は窓の外に目を向けた。王都の夜景が見える。その向こうに、王宮の明かりが灯っている。


「マルタ」


「はい、お嬢様」


「その手紙、確保できますか」


マルタの目が光った。私の侍女は、控えめな外見に反して、こういう仕事を楽しむ気質がある。


「お任せください。協力者の心当たりがございます」


「無理はしないで」


「もちろんです。お嬢様が笑って帝国に発てるよう、全力を尽くします」


マルタが部屋を出て行った後、私は窓辺に立ち尽くした。七年分の手紙。あの頃の私が書いた言葉たち。取り戻したところで、過去が変わるわけではない。でも、あれは私の七年間の証だ。なかったことにはさせない。


王太子殿下。あなたは私を『選ぶ権利などない』と言いました。でも私は選びます。自分の意志で、自分の道を。そして、奪われたものは全て取り戻します。


窓の外で、帝国の青い花が夜風に揺れていた。

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