第41話 架け橋
修道院から戻ると、日が傾き始めていた。
父の屋敷に着くと、カタリーナが真っ先に駆け寄ってきた。
「お母様、お帰りなさい」
「ただいま、カタリーナ」
娘を抱き上げると、小さな腕が私の首に回った。温かい。この温もりが、今は何よりも愛おしかった。
「お母様、どこに行っていたの」
「昔の知り合いに会いに行っていたの」
「そう。お母様、なんだか嬉しそう」
「そうかしら」
「うん。朝より、ずっと」
娘の観察眼に、私は苦笑した。子供は敏感だ。
応接間にはアレクセイと父が待っていた。二人とも心配そうな表情だったが、私の顔を見て少し安堵したようだった。
「どうだった」
アレクセイが尋ねた。
「終わったわ。全部」
それだけ言えば、夫は理解してくれた。深く追求することなく、ただ頷いた。
「そうか」
「ええ。これで、やっと前に進める気がする」
父が静かに口を開いた。
「リーゼロッテ、お前は強い子だな」
「強くなんかないわ、父上。ただ、終わらせたかっただけ」
「それが強さだ。エリザベートも、同じことを言っただろう」
父の言葉に、私は微笑んだ。
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その夜、私はアレクセイと二人で庭園を歩いた。
月明かりの下、アイゼンブルーメが青く輝いている。母が植えた花。国境を越えて咲く花。
「アレクセイ、相談があるの」
「何だ」
「国王陛下が言っていたこと、覚えている? 架け橋になれって」
「ああ」
「具体的に何ができるか、考えていたの」
私は立ち止まり、夫を見上げた。
「王国に、研究所の分所を作りたい」
アレクセイの目が少し見開かれた。
「分所?」
「ええ。エリザベート・カタリーナ魔道具研究所の王国分所。帝国で発展した技術を王国にも伝え、王国の知識を帝国に持ち帰る。技術者の交流も行う」
「両国の橋渡しか」
「そう。私にしかできないことがあるとすれば、これだと思うの」
アレクセイは黙って考え込んでいた。政治的な影響、外交上の問題、様々なことを検討しているのだろう。
「悪くない考えだ」
やがて、彼が口を開いた。
「両国の関係改善にも繋がる。技術の発展は、民の生活を豊かにする。反対する理由はない」
「本当?」
「ああ。ただし、正式に進めるには手続きが必要だ。王国側の同意、帝国議会への報告、予算の確保。時間がかかる」
「わかっているわ。でも、やりたいの」
「なら、やろう。俺も協力する」
アレクセイが私の手を取った。
「君の夢は、俺の夢でもある」
「ありがとう」
私たちは手を繋いだまま、月を見上げた。
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翌日、私は父に計画を話した。
父は驚いた様子だったが、すぐに表情が和らいだ。
「お前らしい発想だな」
「父上は、どう思う?」
「良いと思う。王国には優秀な技術者が少ない。帝国の技術を学べる機会があれば、多くの者が喜ぶだろう」
「場所はどこがいいかしら」
「そうだな……王都に近い場所が良いだろう。交通の便も考えると、東区の外れあたりか」
父が地図を広げ、候補地を示してくれた。かつて工場があった場所で、今は空き地になっているという。
「ここなら、広さも十分だ。王宮からも馬車で十分程度」
「いいわね。でも、土地の取得には時間がかかるでしょう」
「私が交渉しよう。伯爵家の名前なら、話は通りやすい」
「父上、ありがとう」
「礼を言うのは早い。まだ何も始まっていない」
父が微笑んだ。その笑顔には、どこか誇らしげな色があった。
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午後、シュトラウス伯爵が屋敷を訪れた。
王国政府との連絡役を務めている彼に、私は計画を説明した。
「研究所の分所、ですか」
「ええ。両国の技術交流を促進するために」
シュトラウス伯爵は真剣な表情で聞いていた。
「素晴らしい提案です。国王陛下もお喜びになるでしょう」
「陛下のご容態は」
「残念ながら、芳しくありません。でも、このような明るい話題は、良い刺激になるかもしれません」
伯爵が少し声を落とした。
「実は、後継者問題にも進展がありました」
「どういうこと」
「傍系のフリードリヒ殿が、有力候補として浮上しています。シュトラウス家を含む良識派の推薦を受けて」
「フリードリヒ殿」
聞き覚えのない名前だった。
「西部辺境の伯爵家の次男です。まだ二十代ですが、領地経営に優れ、民からの信頼も厚い。何より、民の声に耳を傾ける姿勢を持っています」
「民の声に」
「はい。国王陛下も、彼を気に入っておられるようです」
私は頷いた。国王が求めていたのは、まさにそういう人物だった。
「良い方向に進んでいるのね」
「皇后陛下のおかげもあります。陛下は、あなたとの謁見の後、後継者選びに積極的になられました」
「私は、何もしていないわ」
「いいえ。陛下に、民のことを第一に考えるべきだと仰ったでしょう。その言葉が、陛下の心を動かしたのです」
シュトラウス伯爵が深く頭を下げた。
「王国を代表して、感謝申し上げます」
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夕食後、カタリーナが私のところに来た。
「お母様、お話があるんです」
「どうしたの」
娘が真剣な顔をしている。
「王国に研究所を作るって、本当ですか」
「おじい様から聞いたの?」
「はい。私も手伝いたいです」
私は少し驚いた。
「手伝うって、どういうこと」
「私、王国の子供たちに魔道具のことを教えたいです。お母様が私に教えてくれたみたいに」
「カタリーナ……」
「まだ七歳だから、難しいことはできません。でも、簡単なことなら教えられます。魔道具って楽しいよって、伝えたいんです」
娘の目が輝いている。その真剣さに、胸が熱くなった。
「嬉しいわ、カタリーナ。でも、すぐには無理よ。分所ができるのは、まだ先のことだから」
「わかっています。だから、それまでにもっと勉強します。ちゃんと教えられるように」
「そう。頑張ってね」
「はい」
娘を抱きしめた。この子は本当に、私の子供だ。前を向いて、自分にできることを考えている。
「お母様」
「何」
「私、お母様みたいになりたいです。誰かの役に立てる人に」
「きっとなれるわ。あなたには、才能があるもの」
「本当?」
「本当よ。約束する」
カタリーナが嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、私も微笑んだ。
受け継がれていく。母から私へ、私から娘へ。技術だけでなく、想いも、夢も。
それが、何よりも嬉しかった。
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王国を発つ前夜、私は父と二人で話した。
「分所の件、よろしくお願いするわ」
「任せておけ。土地の交渉は、私が責任を持つ」
「建物の設計は、帝国から送るわ。基本的な構造は研究所と同じで」
「わかった」
父がお茶を一口飲んでから、私を見つめた。
「リーゼロッテ、お前は本当に立派になったな」
「父上……」
「七年前、お前を送り出した時、私は不安でいっぱいだった。異国で、お前がやっていけるのかと」
「正直、私も不安だったわ」
「だが、今のお前を見ると、安心する。良い夫を見つけ、良い娘を育て、自分の道を歩いている」
父の目が潤んでいた。
「エリザベートも、きっと喜んでいる」
「母に会いたかったわ。大人になった私を見てほしかった」
「ああ。私もだ」
私たちは黙ってお茶を飲んだ。母の思い出が、温かく胸を満たしていく。
「また来るわ、父上。分所ができたら」
「待っている。カタリーナも連れてきてくれ」
「もちろんよ」
窓の外では、月がアイゼンブルーメを照らしていた。国境を越えて咲く花。私もまた、国境を越えて生きていく。
両国の架け橋として。母と父の娘として。そして、カタリーナの母として。




