第37話 故郷の空
王宮での歓迎式典を終え、私たちはローゼンベルク伯爵邸に向かった。
王都の中心部から馬車で二十分ほど。緑豊かな丘の上に建つ白い屋敷は、七年前と変わらない姿で私を迎えてくれた。
「懐かしい」
馬車の窓から屋敷を見上げ、私は呟いた。幼い頃、この庭園を駆け回った。母と一緒に花を摘んだ。父に手を引かれて、書斎で本を読んでもらった。
全てが、昨日のことのように思い出せる。
「お母様、あれがお母様のお家ですか」
カタリーナが目を丸くした。
「ええ。お母様が生まれ育った家よ」
「大きいです」
「帝国の皇宮に比べたら、小さいわよ」
「でも、なんだか温かい感じがします」
娘の言葉に、私は微笑んだ。確かに、この屋敷には独特の温かさがある。石造りの壁も、蔦の絡まる窓も、全てが優しく私を迎えてくれている気がした。
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屋敷に入ると、使用人たちが整列して出迎えた。
見覚えのある顔がいくつかあった。七年前からずっと、この屋敷で働いている人々。彼らの目には涙が浮かんでいる。
「お嬢様……いえ、皇后陛下。お帰りなさいませ」
老齢の家令が震える声で言った。この人は、私が幼い頃からこの屋敷にいた。
「ただいま、ヨハン。元気そうで何より」
「はい、おかげさまで。お嬢様が……皇后陛下がご立派になられて、私どもも鼻が高うございます」
「大げさよ」
私は笑ったが、胸の奥がじんわりと温かくなった。
父が私たちを客間に案内した。といっても、ここは私の実家だ。客間ではなく、自分の部屋に通されるべきなのかもしれない。でも今は、帝国皇后という立場がある。
「長旅でお疲れでしょう。今日はゆっくり休んでください」
「ありがとう、父上」
「夕食は六時に。それまで自由にしていてくれ」
父が部屋を出て行った。私は窓辺に立ち、庭園を見下ろした。
「きれいな庭ですね」
アレクセイが隣に立った。
「母が丹精込めて作った庭よ。今は父が手入れを続けているの」
「お母上の」
「ええ。母は花が好きだった。この庭には、母の思い出がたくさん詰まっているわ」
カタリーナが窓に張り付いて庭を眺めている。
「お母様、あの青いお花は何ですか」
「どれ?」
娘が指さした先を見ると、庭の片隅に青い花が咲いていた。見覚えのある花だ。
「アイゼンブルーメ」
「帝国にもあるお花ですね」
「ええ。国境を越えて咲く花よ。母が帝国から種を取り寄せて、この庭に植えたの」
「おばあ様が?」
「そう。母は、いつか私がこの花を見て、広い世界を知ってほしいと思っていたんですって」
カタリーナは不思議そうな顔をした。
「おばあ様は、お母様が帝国に行くことを知っていたんですか」
「そうじゃないわ。ただ、私に自由に生きてほしかったのよ。どこにいても、自分らしく」
娘は少し考えてから、にっこり笑った。
「おばあ様は、優しい人だったんですね」
「ええ、とても」
私は庭のアイゼンブルーメを見つめた。母が植えた花。その花が、今も咲き続けている。まるで、母がまだここにいるかのように。
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夕食前、私は一人で屋敷の中を歩いた。
廊下を進み、階段を上り、ある部屋の前で足を止める。
私の部屋。七年前まで使っていた部屋。
ドアを開けると、中は当時のまま保たれていた。ベッド、机、本棚。窓際には、母がくれた小さな花瓶が置いてある。
「変わっていない」
私は部屋の中央に立ち、ゆっくりと見回した。七年前の自分が、まだここにいるような気がする。届かない手紙を書き続けていた、あの頃の私が。
机の引き出しを開けると、古いノートが出てきた。魔道具の設計図を描いていたノート。L・Rとして活動を始める前の、稚拙な図面が残っている。
「ここから始まったのね」
私は呟いた。この部屋で、私は夢を見た。いつか自分の作った魔道具で、誰かの役に立ちたいと。
その夢は、叶った。想像もしなかった形で。
「リーゼロッテ」
背後から声がして振り返ると、父が立っていた。
「入っても良いか」
「ええ、どうぞ」
父が部屋に入ってきた。彼もまた、部屋を懐かしそうに見回している。
「お前がいなくなってから、この部屋には誰も入れなかった。使用人にも掃除だけさせて、物は一切動かさないように言っておいた」
「そうだったの」
「いつか、お前が帰ってくると信じていた」
父の声が震えた。
「七年か。長かったな」
「父上……」
「すまなかった、リーゼロッテ」
父が深々と頭を下げた。私は驚いて声を上げた。
「父上、何を」
「七年前、お前を守れなかった。あの断罪の場で、何もできなかった。父として、情けない限りだ」
「そんなこと」
「ずっと、謝りたかった。お前に会って、直接詫びたかった。でも、会わせる顔がなかった」
父の肩が震えている。私は父の元に歩み寄り、その手を取った。
「顔を上げてください、父上」
「しかし」
「私は、父上を恨んだことなんてないわ。あの時、父上が私を帝国大使館に送り届けてくれたから、今の私がある。父上が守ってくれたから、私は生き延びることができた」
父がゆっくりと顔を上げた。その目には涙が溢れている。
「お前は、本当に優しい子だ。エリザベートに似ている」
「母に?」
「ああ。お前の母も、人を恨むことを知らない人だった。どんな時でも、前を向いて歩き続けた」
父が私の手を握り返した。
「お前が幸せそうで、本当に良かった。アレクセイ殿は、良い方だな」
「ええ、最高の夫よ」
「カタリーナも、可愛らしい子だ。エリザベートに会わせたかった」
「母も、きっと喜んでいるわ」
私たちは向かい合って立ち、しばらく無言で手を握り合っていた。七年分の空白が、少しずつ埋まっていく気がした。
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夕食は、温かな雰囲気の中で進んだ。
父とアレクセイは意外にも気が合うようで、政治や経済の話で盛り上がっている。カタリーナは父に懐いて、あれこれと質問を浴びせていた。
「おじい様、お母様は小さい頃どんな子でしたか」
「そうだな。とても真面目な子だった。いつも本を読んでいて、一人で何かを作っていることが多かった」
「私と同じです」
「そうか。お前も、リーゼロッテに似ているな」
父が優しく笑った。その笑顔を見て、私の胸が温かくなった。
「父上、明日は王宮に参内するのでしょう」
私が尋ねると、父は頷いた。
「ああ。国王陛下がお会いになりたいとおっしゃっている。体調が許せば、謁見の間でお目通りいただけるはずだ」
「陛下のご容態は」
「芳しくない。医師団も手を尽くしているが、回復の見込みは薄いそうだ」
父の表情が曇った。
「後継者問題も、解決の糸口が見えない。傍系の貴族の中から選ぶという案もあるが、どの家も一長一短でな」
「難しい問題ね」
「ああ。だが、今はそれより、陛下がお前に会いたがっておられる。七年前、お前の名誉を回復してくださった方だ」
「わかっているわ。明日、お礼を申し上げなければ」
私は静かに頷いた。
国王陛下。七年前、勅令で私の名誉を回復し、ルドヴィクの非を認めてくれた人。その人が、今は病床にいる。
会えるうちに、会っておきたい。感謝を伝えておきたい。
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夜、私は一人で庭園に出た。
月明かりの下、アイゼンブルーメが青く輝いている。母が植えた花。国境を越えて咲く花。
「お母様」
私は花に語りかけた。
「私、帰ってきたわ。七年ぶりに」
返事はない。当然だ。でも、風が優しく頬を撫でた。まるで、母が答えてくれているように。
「幸せよ、お母様。あなたが願った通り、私は自分の道を歩いている」
月が雲間から顔を出し、庭園を銀色に照らした。花々が揺れ、甘い香りが漂ってくる。
「カタリーナにも、同じように生きてほしい。自分の道を、自分で選んで」
私は目を閉じ、深く息を吸った。
故郷の空気。懐かしい香り。そして、母の思い出。
全てが、私の中で一つになっていく。
明日は、国王陛下に会う。そして、この旅の本当の意味を見つけることになるだろう。
私は月を見上げ、静かに微笑んだ。




