第35話 帰郷の決断
翌朝、私はアレクセイに決意を伝えた。
「王国に行くことにしたわ」
朝食の席で告げると、アレクセイは静かに頷いた。驚いた様子はない。昨夜、カタリーナと話したことも、きっと察していたのだろう。
「いつ発つ」
「準備ができ次第。でも、あまり遅くならないようにしたい。国王陛下の容態が心配だから」
「わかった。一週間後を目処に手配しよう」
「ありがとう」
カタリーナが目を輝かせた。
「私も行けるんですよね」
「ええ。約束したでしょう」
「やった!」
娘が椅子の上で飛び跳ねる。マルタが慌てて「お行儀が悪うございますよ」と諌めたが、カタリーナの興奮は収まらなかった。
「おじい様に会えるんですね。どんな方ですか」
「厳しいけれど、優しい人よ。あなたに会うのを楽しみにしていると思うわ」
「本当ですか」
「ええ。手紙にも書いてあったもの」
娘の笑顔を見ながら、私は穏やかな気持ちになった。七年前は一人で国境を越えた。今度は家族と一緒だ。それだけで、心強さが全く違う。
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出発の準備を進める日々が始まった。
帝国皇后が王国を訪問するとなれば、それなりの手続きと準備が必要になる。外交文書の作成、随行員の選定、護衛の手配。アレクセイは政務の合間を縫って、着々と準備を進めてくれた。
私は私で、研究所の業務を整理していた。しばらく不在にする間、若い技術者たちに任せられる仕事と、帰ってから再開する仕事を振り分ける。
「皇后陛下、こちらの設計図の確認をお願いいたします」
「ありがとう。後で目を通すわ」
研究所の副所長を任せているハインツが、書類を持ってきた。五十代の熟練技術者で、実直な人柄だ。私が不在の間も、彼がいれば安心できる。
「王国へのご訪問、お気をつけて」
「ありがとう。留守の間、よろしくお願いするわね」
「お任せください」
ハインツが深々と頭を下げた。
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出発の三日前、思いがけない出来事があった。
夕刻、執務室で書類を整理していると、マルタが慌てた様子で入ってきた。
「皇后陛下、お手紙が届いております」
「父から?」
「いいえ、違います。差出人は……修道院、となっております」
修道院。その言葉に、私は手を止めた。
王国の山奥にある修道院。そこには、七年前に送られた人物がいる。
「ルドヴィク……」
元婚約者の名前を、私は無意識に呟いていた。
マルタが封書を差し出す。受け取ると、確かに修道院の印が押されていた。裏には、震えるような筆跡で名前が書かれている。
「開けていいかしら」
「陛下のご判断でございます」
私は深呼吸をして、封を開けた。
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『リーゼロッテ様
このような手紙を差し上げる資格が私にあるのか、長い間迷いました。七年もの間、何度も筆を執っては、その度に破り捨ててきました。
しかし、あなたが王国を訪れるかもしれないと聞き、どうしても伝えたいことがあり、こうして筆を執りました。
まず、謝罪を。
七年前、私はあなたに取り返しのつかないことをしました。婚約者でありながら、あなたを顧みず、偽りの聖女の言葉を信じ、公衆の面前であなたを断罪しました。
全ては私の愚かさゆえです。侍従長の甘言に乗せられ、自分で考えることを放棄していました。あなたが送ってくれた手紙も、侍従長が握り潰していたと後から知りました。七年分の、あなたの想いを。
修道院での七年間、私は毎日祈りました。自分の罪を悔い、あなたの幸せを願って。帝国であなたが幸せに暮らしていると聞くたびに、安堵すると同時に、胸が締め付けられる思いでした。
今更、許しを請う資格はありません。ただ、あなたに伝えたかったのです。私が、どれほど後悔しているかを。どれほど、あなたに申し訳なく思っているかを。
どうか、お幸せに。心から、そう願っています。
ルドヴィク・フォン・ローゼンハイム』
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手紙を読み終えた時、私の頬を涙が伝っていた。
自分でも驚いた。泣くとは思わなかった。ルドヴィクへの感情は、とうに消えたと思っていた。恨みも、悲しみも、全て過去のものになったはずだった。
でも、違った。心の奥底には、まだ何かが残っていた。それが何なのか、自分でもよくわからない。
「皇后陛下……」
マルタが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫よ」
私は涙を拭い、手紙を畳んだ。
「ただ、少し驚いただけ」
「ルドヴィク殿下から、でございますか」
「ええ。謝罪の手紙だったわ」
「七年も経って、今更」
マルタの声には、かすかな怒りが混じっていた。彼女は私が王国でどんな扱いを受けたか、よく知っている。
「いいのよ、マルタ。人には、それぞれのタイミングがあるわ」
「しかし」
「彼は彼なりに、七年間苦しんできたのだと思う。それを責める気にはなれないわ」
マルタは納得いかない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。
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夜、アレクセイに手紙のことを話した。
彼は黙って聞いていた。私が話し終えると、静かに口を開いた。
「君は、どう感じた」
「わからない。でも、泣いてしまったの。自分でも驚いたわ」
「許したいのか」
「許すとか、許さないとか、そういう問題じゃない気がする」
私は窓の外を見つめた。夜空には星が瞬いている。
「七年前、私は確かに傷ついた。でも、その傷があったから、今の私がある。帝国に来て、あなたに出会って、カタリーナが生まれて。全ては繋がっているのよ」
「過去を恨んでいないということか」
「恨んでも仕方がないもの。過去は変えられない。大切なのは、これからどう生きるか」
アレクセイが私を抱き寄せた。
「君は、本当に強いな」
「強くなんてないわ。ただ、前を向いているだけ」
「それが強さだ」
彼の腕の中で、私は目を閉じた。
ルドヴィクの手紙は、予想外だった。でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、何かが軽くなったような感覚がある。
王国への旅。そこでは、様々な再会が待っているだろう。父との再会、国王との謁見、そしてもしかしたら、ルドヴィクとの再会も。
全てを受け入れる準備が、少しずつ整いつつあった。
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出発の前夜、私はカタリーナの部屋を訪れた。
娘は荷造りの最中だった。小さな鞄に、大切なものを詰め込んでいる。
「何を持っていくの?」
「お母様にもらったノートと、鉛筆と、それからこれ」
カタリーナが取り出したのは、小さな木箱だった。開けると、中には彼女が集めた素材の欠片が入っている。
「おじい様に見せたいんです。私が勉強していること」
「きっと喜ぶわ」
私は娘の隣に座った。
「カタリーナ、王国に着いたら、いろいろな人に会うと思う。中には、お母様のことをよく思っていない人もいるかもしれない」
「どうして?」
「昔、お母様は王国で悪役令嬢と呼ばれていたの。悪い人だと思われていた」
「でも、お母様は悪い人じゃないです」
「ありがとう。でも、昔のことを覚えている人もいるわ。もし誰かに嫌なことを言われても、気にしないでね」
カタリーナは真剣な顔で頷いた。
「大丈夫です。私、お母様の娘ですから」
その言葉に、胸が熱くなった。私は娘を抱きしめた。
「強い子ね」
「お母様に似たんです」
七歳の娘が、誇らしげに言う。その姿を見て、私は笑った。
「そうかもしれないわね」
明日、私たちは旅立つ。七年ぶりの故郷へ。過去と向き合い、未来を切り開くために。
もう、恐れはなかった。




