第30話 受け継がれる想い
帝都に戻ったのは、北方を発ってから六日後のことだった。
城門をくぐると、沿道に人々が集まっていた。北方の脅威が去ったという知らせは、私たちより先に届いていたらしい。歓声と拍手が響き、花びらが舞う中を馬車は進んだ。
「すごい人ね」
「君のおかげだ。民は、誰が自分たちを救ったか知っている」
アレクセイの言葉に、私は窓の外を見つめた。手を振る人々、涙を流す老婆、肩車された子供。彼らの笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。
皇宮の正門が見えてきた。その前に、小さな影が立っている。
「お母様!」
馬車が止まるや否や、カタリーナが飛び込んできた。扉を開けた瞬間、娘の小さな体が私の胸に飛び込む。
「お帰りなさい、お帰りなさい……!」
「ただいま、カタリーナ」
娘を抱きしめると、その体が小刻みに震えていた。泣いている。私も、目頭が熱くなった。
「約束、守ったでしょう?」
「はい……。でも、すごく心配したんです」
「ごめんね。もう大丈夫よ」
アレクセイも馬車から降り、私たちを包み込むように抱きしめた。三人で抱き合ったまま、しばらく動けなかった。
その夜、家族三人で夕食をとった。
カタリーナは私たちの間に座り、北方での出来事を聞きたがった。魔物との戦い、始原の泉、そして装置の完成。私はできるだけ怖くないように話したつもりだったが、娘の目はどんどん大きくなっていった。
「お母様、すごい……」
「怖かったこともあったわ。でも、お父様や兵士の皆さんが守ってくれたの」
「私も、いつかお母様みたいに誰かを助けられるようになりたいです」
カタリーナの真剣な表情に、私とアレクセイは顔を見合わせた。
「きっとなれるわ。でも、まずはしっかり勉強することね」
「はい!」
娘が元気よく返事をする。その姿を見ながら、私は穏やかな幸福を感じていた。こうして家族と食卓を囲める日常が、どれほど尊いものか。北方で命の危険に晒されて、改めて実感した。
翌日、私は皇宮の礼拝堂を訪れた。
カタリーナ皇女の墓碑の前に花を供え、手を合わせる。
「カタリーナ様、あなたの研究のおかげで、北方を救うことができました」
静かに語りかける。返事はないが、風が優しく頬を撫でた。
「始原の泉の装置は、これからも機能し続けます。七十年後の活性化も、きっと防げるでしょう。あなたが残してくださった知識が、未来を守るのです」
墓碑に刻まれた名前を見つめる。カタリーナ・フォン・ヴァルトシュタイン。この人がいなければ、私は北方を救えなかった。
「あなたの姪も、あなたの名を継いで元気に育っています。いつか、あなたの研究を引き継ぐかもしれません。見守っていてくださいね」
頭を下げ、礼拝堂を後にした。
廊下を歩いていると、マルタが小走りで近づいてきた。
「皇后陛下、シュタインベルク公爵夫人がお見えです」
「公爵夫人が?」
「北方支援の報告と、お礼を申し上げたいと」
私は頷いた。公爵夫人との約束。北方の村々への支援活動。留守の間も、彼女は精力的に動いてくれていたはずだ。
応接間に入ると、公爵夫人が立ち上がって深々と頭を下げた。
「皇后陛下、お帰りなさいませ。そして、北方を救ってくださり、ありがとうございます」
「お座りになって。支援活動の報告を聞かせてちょうだい」
公爵夫人は着席し、書類の束を取り出した。
「陛下が北方へ向かわれている間、十二の村へ物資を届けました。食料、燃料、医薬品。特に結界の近くの村々は、魔物の脅威で物流が滞っていたため、支援を大変喜んでおりました」
「死者は出なかった?」
「一人も。新型の結界魔道具のおかげです。村人たちは、皇后陛下に深く感謝しております」
公爵夫人の報告を聞きながら、私は安堵した。結界魔道具が役に立った。私の作ったものが、誰かの命を守った。
「公爵夫人、あなたの働きにも感謝しているわ」
「いいえ、私は当然のことをしただけです。むしろ、このような機会を与えてくださったことに感謝しております」
公爵夫人の目には、以前のような傲慢さはなかった。代わりに、静かな決意が宿っている。
「これからも、北方支援を続けたいと思っています。陛下のお許しをいただければ」
「もちろんよ。あなたの力は、帝国にとって貴重だわ」
公爵夫人が微笑んだ。三年前には想像もできなかった光景だ。人は変われる。私は、その証を目の当たりにしていた。
数日後、帝国全土に布告が出された。
北方の脅威が去ったこと。始原の泉の魔力が制御されたこと。そしてそれが、カタリーナ皇女の研究と、皇后の技術によって成し遂げられたこと。
「姉上の名前が、正式に歴史に刻まれた」
アレクセイが布告の写しを手に、感慨深げに呟いた。
「カタリーナ皇女は、帝国を救った研究者として記憶される。病で早世した悲劇の皇女ではなく、偉大な功績を残した学者として」
「あなたのおかげだ、リーゼ」
「いいえ、私は彼女の研究を完成させただけ。功績は彼女のものよ」
私たちは並んで窓の外を眺めた。帝都の街並みが、夕日に照らされて輝いている。
「リーゼ、一つ提案がある」
「何?」
「姉上の名を冠した研究所を作りたい。若い技術者たちが学び、新しい魔道具を開発する場所を。君に、その監督を任せたい」
私は驚いてアレクセイを見た。
「私に?」
「君以上の適任者はいない。姉上の遺志を継ぎ、次の世代に知識を伝える。それは、君にしかできないことだ」
しばらく考えてから、私は頷いた。
「引き受けるわ。でも、一つ条件がある」
「何だ?」
「研究所の名前は、カタリーナ皇女だけじゃなく、私の母の名前も入れてほしいの。『エリザベート・カタリーナ魔道具研究所』。二人の遺志を継ぐ場所として」
アレクセイは微笑んだ。
「いい名前だ。そうしよう」
その夜、私はカタリーナの部屋を訪れた。
娘はベッドに座り、何かを熱心に描いていた。近づいて覗き込むと、魔道具の設計図だった。以前より格段に上達している。
「何を描いているの?」
「お水をあげる魔道具の改良版です。前よりもっと効率よくなるように考えたんです」
私は娘の隣に座り、設計図を眺めた。六歳の子供が描いたとは思えない精密さだ。基本的な構造は理解しているし、改良点も理にかなっている。
「ここの部分、もう少しこうすると、もっと良くなるわ」
「本当ですか?」
私は鉛筆を借りて、いくつかの修正を加えた。カタリーナは目を輝かせながら見ている。
「お母様、私、研究所で働けますか? 大きくなったら」
「もちろんよ。あなたが準備できたら、いつでも歓迎するわ」
「約束ですか?」
「約束よ」
娘が嬉しそうに笑った。その笑顔を見ながら、私は不思議な感覚に包まれていた。
母が私に託した才能。カタリーナ皇女が遺した知識。それらが今、私を通じて娘に伝わろうとしている。三代にわたる絆。いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。
「カタリーナ、あなたに話しておきたいことがあるの」
「何ですか?」
「あなたの名前の由来よ」
娘がきょとんとした顔をした。
「お父様のお姉様の名前でしょう?」
「そうよ。カタリーナ皇女は、とても優秀な魔道具研究者だった。病気で早く亡くなってしまったけれど、彼女の研究は今も生きている。北方を救った装置も、彼女の理論がなければ作れなかった」
「すごい人だったんですね」
「ええ。そして、あなたはその名前を継いでいる。重荷に感じる必要はないわ。でも、いつか自分の道を見つけたとき、彼女のことを思い出してほしいの」
カタリーナは真剣な表情で頷いた。
「わかりました。私、カタリーナ様に恥じないような人になります」
「あなたはあなたでいいのよ。無理に誰かの真似をする必要はない。ただ、自分の信じる道を歩いてほしいの」
娘を抱きしめると、小さな腕が私の背中に回った。
「お母様、大好きです」
「私もよ、カタリーナ」
窓の外では、月が静かに輝いていた。母が見ていた月。カタリーナ皇女が見上げた月。そして今、私と娘が見ている月。
時を超えて、想いは受け継がれていく。形を変え、人を変え、それでも決して消えることなく。
私は目を閉じ、母とカタリーナ皇女に感謝の祈りを捧げた。あなたたちの想いは、確かにここにある。そして、これからも続いていく。
永遠に。




