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婚約七年目、悪役令嬢は本日をもって卒業します   作者: 九葉(くずは)
第3章

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第29話 北方の決戦

帝都を発って五日。私たちは北方の森の入り口に到着した。


調査隊は総勢三十名。アレクセイ直属の近衛兵と、魔道具の専門家たち。そして私。馬車を降りると、冷たい空気が肺を満たした。帝都の春とは比べものにならない寒さだ。


「ここから先は馬車では進めない。徒歩になる」


北方総督のヴェルナーが地図を広げながら説明した。白髪交じりの髭を蓄えた壮年の男で、この地で二十年以上魔物と戦ってきた歴戦の指揮官だ。


「始原の泉までは、森の奥へ三日の行程です。途中、魔物の活動が活発な地域を通過します」


「結界魔道具の準備は」


「皇后陛下が開発された新型を、全員が携帯しております」


私は頷いた。一人用の小型結界魔道具。緊急時に展開すれば、数分間は魔物の攻撃を防げる。完璧ではないが、何もないよりはましだ。


アレクセイが私の隣に立った。


「準備はいいか」


「ええ」


「無理はするな。危険を感じたら、すぐに言え」


「あなたこそ、皇帝が最前線に出るなんて」


「君を一人で行かせるわけにはいかない」


その言葉に、私は小さく微笑んだ。出発前、カタリーナが泣きながら私たちにしがみついたことを思い出す。マルタに任せてきたが、きっと今頃も心配しているだろう。


「必ず帰るわ。約束したもの」


「ああ。カタリーナとの約束は、絶対に守る」


私たちは森の中へ足を踏み入れた。


一日目は、比較的穏やかだった。


森は深く、木々の間から差し込む光はわずかだ。足元には苔が生え、空気は湿り気を帯びている。鳥の声も虫の音もなく、不気味な静けさが漂っていた。


「この辺りは、まだ安全圏です」


先頭を歩くヴェルナー総督が振り返った。


「問題は明日からです。魔物の縄張りに入ります」


夜営地を設営し、火を囲んで食事をとった。兵士たちは交代で見張りに立ち、私は持参したカタリーナ皇女のノートを読み返していた。


「始原の泉の魔力制御について、何か手がかりは」


アレクセイが隣に座りながら尋ねた。


「カタリーナ皇女は、泉の魔力が七十年周期で溢れ出すと考えていたわ。その魔力を吸収し、安定させる装置があれば、活性化を防げるはず」


「その装置を、君が作る」


「理論上は可能よ。でも、実際に泉を見てみないとわからない」


火の粉が舞い上がり、夜空に消えていく。見上げると、木々の隙間から星が見えた。カタリーナも、今頃同じ星を見ているだろうか。


二日目、森の様子が変わった。


木々はより大きく、より暗くなり、地面にはところどころ獣の足跡が残っていた。兵士たちの表情が引き締まり、誰もが武器に手を置いている。


「止まれ」


先頭のヴェルナー総督が手を挙げた。全員が足を止める。


静寂の中、かすかな音が聞こえた。低い唸り声。木の葉を踏む音。そして、茂みの向こうに光る二つの目。


「魔物だ。構え」


兵士たちが剣を抜いた。私は腰の結界魔道具に手を伸ばす。


茂みから現れたのは、狼に似た魔物だった。ただし、通常の狼の三倍はある巨体で、黒い毛並みには紫色の光が走っている。魔力に侵された獣だ。


「一体だけか?」


「いいえ」


私は周囲を見回した。茂みの向こうに、さらに複数の気配がある。


「囲まれているわ。少なくとも五体」


「全員、円陣を組め」


ヴェルナー総督の号令で、兵士たちが私とアレクセイを中心に円陣を組んだ。魔物たちがゆっくりと姿を現す。予想通り、五体。いずれも巨大な狼型だ。


「陛下、皇后陛下を」


「わかっている」


アレクセイが剣を抜き、私の前に立った。


最初の一体が飛びかかってきた。アレクセイの剣が閃き、魔物の首を捉える。しかし、致命傷には至らない。魔物は怯んだものの、すぐに体勢を立て直した。


「硬い。普通の剣では」


「結界魔道具を使うわ」


私は小型の結界魔道具を起動し、光の膜を展開した。魔物たちが一斉に後退する。カタリーナ皇女の研究通り、特定の波長の光には強い忌避反応を示すようだ。


「今のうちに」


私たちは光の膜を維持しながら、ゆっくりと前進した。魔物たちは距離を保ちながらついてくるが、襲いかかってはこない。


「このまま泉まで行けるか」


「魔石の消費が激しいわ。持って半日」


「急ごう」


私たちは足を速めた。魔物たちの唸り声が、背後でいつまでも響いていた。


三日目の朝、ついに目的地が見えてきた。


森の中に、不自然に開けた空間があった。その中央に、古びた石造りの遺跡がそびえている。苔に覆われた壁、崩れかけた柱、そして中央に光る青白い泉。


「あれが、始原の泉……」


私は息を呑んだ。泉からは、目に見えるほど濃密な魔力が立ち上っている。空気が震え、肌がぴりぴりと痺れる。これほどの魔力の塊を、私は見たことがなかった。


「近づけるか」


アレクセイの問いに、私は頷いた。


「やってみる」


遺跡に足を踏み入れると、魔力の圧が一気に強まった。呼吸が苦しい。足が重い。それでも、私は一歩ずつ泉に近づいた。


泉の縁に立ち、水面を覗き込む。底は見えない。ただ、青白い光が渦を巻いている。


「これが、七十年分の魔力……」


私はカタリーナ皇女のノートを開いた。泉の魔力を吸収し、安定させる装置。その理論は頭に入っている。問題は、これほどの魔力を本当に制御できるかどうかだ。


「リーゼ、できそうか」


振り返ると、アレクセイが遺跡の入り口に立っていた。それ以上近づけないのだろう。魔力の圧が、彼を押し返している。


「やってみるわ」


私は鞄から材料を取り出した。携帯用の工具、魔石、金属片。泉のそばで、即興の魔道具を組み立てる。母の技術と、カタリーナ皇女の理論。二人の研究が、私の手の中で一つになる。


「魔力を音に変換し、共鳴させて安定化させる。そして、余剰分を光として放出する」


呟きながら、私は作業を続けた。指が震える。魔力の圧で視界が霞む。それでも、手は止めない。


一時間が経ち、二時間が経った。太陽が傾き始めた頃、ようやく装置が完成した。


「これで……」


装置を泉に沈めると、低い音が響いた。装置が魔力を吸い込み、変換を始める。青白い光が揺らぎ、少しずつ落ち着いていく。


「成功、した……?」


その瞬間、背後で悲鳴が上がった。


振り返ると、遺跡の外で戦闘が始まっていた。


魔物の群れだ。狼型だけでなく、熊のような巨大な魔物、蛇のように地を這う魔物。数十体が、調査隊を取り囲んでいる。


「泉の魔力が減り始めたから、魔物たちが焦っているのか」


アレクセイが剣を振るいながら叫んだ。


「リーゼ、そこにいろ。俺たちが食い止める」


「でも」


「君がやるべきことをやれ。装置を完成させろ」


私は泉に向き直った。装置は動いているが、まだ完全ではない。魔力の吸収が追いついていない。このままでは、溢れた魔力が再び魔物を活性化させる。


「もっと効率を上げないと」


私は装置を調整し始めた。共鳴の周波数を変え、吸収率を高める。背後では剣戟の音と魔物の咆哮が響いている。誰かの悲鳴が聞こえる。でも、振り返る余裕はない。


「お母様、カタリーナ皇女様、力を貸して」


祈るように呟きながら、私は最後の調整を施した。


装置が唸りを上げ、一際強い光を放った。泉の魔力が急速に吸い込まれていく。青白い光が薄れ、水面が静まっていく。


同時に、外の魔物たちの動きが鈍くなった。魔力の供給が絶たれ、力を失い始めているのだ。


「今だ、押し返せ」


ヴェルナー総督の号令が響いた。兵士たちが一斉に反撃に転じる。弱った魔物たちは、次々と倒されていった。


日が沈む頃、戦いは終わった。


負傷者は数名いたが、死者はいない。魔物の群れは壊滅し、生き残った個体も森の奥へ逃げ去った。


「皇后陛下」


ヴェルナー総督が私のそばに歩み寄った。その顔には、畏敬の念が浮かんでいる。


「あなたのおかげで、我々は生き延びることができました。そして、北方の脅威を根本から解決することができた」


「まだわからないわ。装置が長期的に機能するかどうか」


「いいえ、わかります。見てください」


総督が泉を指さした。かつて激しく渦巻いていた魔力は、今は穏やかに揺らめいている。装置が魔力を吸収し、安定した状態を保っている。


「これが七十年続けば、次の活性化は起きない。あなたは、北方を救ったのです」


私は泉を見つめた。母の技術と、カタリーナ皇女の理論。二人の遺した研究が、こうして実を結んだ。


「私一人の力じゃない」


アレクセイが隣に立った。その手が、そっと私の肩に触れた。


「君は謙遜しすぎだ」


「本当のことよ。お母様がいて、カタリーナ皇女がいて、あなたがいて。みんなの力が合わさって、ようやくここまで来られた」


「そうだな。でも、それを一つにまとめたのは君だ」


アレクセイの言葉に、私は小さく微笑んだ。


「帰りましょう。カタリーナが待っているわ」


「ああ。約束を果たしに行こう」


私たちは遺跡を後にした。森の中を歩きながら、私は空を見上げた。木々の隙間から、最初の星が瞬き始めている。


北方の脅威は去った。七十年後、次の活性化の時が来ても、装置が魔力を制御し続ける。そして、その知識は次の世代に引き継がれていく。


母から私へ。カタリーナ皇女から私へ。そして私から、娘のカタリーナへ。


受け継がれるものは、決して途切れない。

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